第6章 店頭に点灯

第26話

「え? 君は僕と一緒にいたくないの?」


 僕は素っ頓狂な声を上げて、手に持っているマグカップを床に落としそうになった。


 場所は街の片隅にある喫茶店の店内である。休日にも関わらず訪れる客の数は少なく、今は僕と彼女だけがテーブル席に着いていた。カウンターでも幾人かの大人たちが新聞を読んだりタイピングをしたりしているけれど、やはり閑散とした空気感が存在することは確かである。これは、もしかすると、店が持つ特有の古臭さに原因があるのかもしれない。人間の場合も同じだが、その身に纏う雰囲気というものは、想像しているよりも遥かに周囲の存在に影響を及ぼす。多くの場合、それは自分自身である程度操作することができるけれど、どうしても手に負えない部分というのも存在する。僕たちが入ったこの喫茶店はまさにそういった感じで、長い歴史の積み重なりが独特の空気感を生み出し、繁忙に溢れる現代に上手く溶け込むことができていなかった。


「うん……。だって、君と一緒にいると、なんか、私が、色々と面倒事を持ち込むみたいだからさ……」


 そんなことを呟く少女は、どちらかというと神秘的な雰囲気を纏っている。こういった正の方向の影響を与えるのであれば、それを無理に修正しようとする必要はない。しかし、僕はまったくの逆パターンなので、どうにかならないものかと昔から随分と頭を捻ってきた。


「いや、でも……。それは、反対のこともいえると思うし」


「反対のこと? それって、どういう意味?」


「うん、だから……」僕はテーブルの上にマグカップを戻す。「つまり、君が一緒にいてくれれば、それなりに楽しいこともできるかな、と思ってさ」


「……そうかな」


「そうだと思うよ、僕は」


「でも、今までだって、楽しいことよりは、面倒なことの方が、私が及ぼした割合は大きいと思うんだけど……」


「うん、まあ……」僕は言った。「それは事実かもしれない」


 目の前に座る少女は寂しげな表情を顔に浮かべ、口元に若干力を込めて申し訳程度に俯く。


 あ、これはまずかったかな、と僕は一瞬だけ焦った。


 しかし、すぐにいつもの調子を取り戻す。


「いやいや、だからといって、それで僕の生活に支障を来しているとか、そういう話ではないんだ」


「……でも、君、今、それは事実だって」


「事実と、僕がどう感じるかは、関係がない」


「嘘」


「嘘じゃないよ」僕は話す。「まあ、今のは、ちょっと、あまり上手くない誤魔化し方だったかもしれないけど」


「やっぱり」


「いやいや、まあ、だから、そんなに気にする必要はない、ということを言いたかったんだ」


「言いたかったの?」


「もちろん、言いたかった」


「そう……」


「うん、そうだよ」


 店内では小洒落たBGMが小さな音量で流れている。店の内装は歴史を感じさせる木造製品が多く使われている印象で、それは本当に印象にすぎないかもしれないけれど、とにかく落ち着いたスペースであることは確かだった。僕たちのすぐ傍には巨大な窓がある。その向こう側には近代的な都市が延々と広がっていて、こちらとあちらを空間として区切るその窓は、まるで現実と空想を隔てる巨大な壁のように思えた。もちろん、こちらが空想で、あちらが現実である。僕たちの現実は幾多もの人工物に溢れ返っていて、とても落ち着いて暮らせるような場所ではない。それが現実だから、その中で可能な限り落ち着くことのできる方法を考えることになるけれど、それでも、僕には、この喫茶店がどうにも異質なものに感じられてならなかった。


 僕の目の前に座る彼女は、ウッドクロックと呼ばれる人工生命体である。この説明からもかなり近代的な雰囲気が漂ってくるように思う。ただし、名称を訳せば「木造の置時計」だから、それだけ聞けばそこそこレトロな感じがするかもしれない。


 彼女は十三年前に僕の所にやって来て、そして成長した僕の前に再び姿を現した。


 その出会いは、限りなくロマンチックで、エキセントリックで、非常にユーモラスだったけれど、僕と彼女の努力によって成し得られたものではない。予めそうなるように設定されていた可能性が高く、しかし、それでも、彼女が会いに来てくれて良かったな、というのが僕の正直な感想だった。


 彼女と僕はすでに婚約を済ませている。


 文字にするとどうにも現実味のない表現になってしまうけれど、それを申し込んできたのは彼女の方だから、僕にはその冗談じみた現実に対して責任を果たす義務はない(と思い込んでいる)。そもそも、責任とか、義務とか、そういう問題ではない。今の言葉はある種のジョークである。彼女から言い出したことだったが、僕もそれを受け入れたわけだから、今後は二人で協力し合いながら自分たちの未来を切り開いていく必要がある。


 だからこそ、僕は彼女が突然言い出したことに狼狽せずにはいられなかった。


「まあ、とにかく」僕はマグカップを再び手に取り、コーヒーを喉に無理矢理流し込む。「君が気にするようなことじゃないから、あまり考えすぎる必要はないよ」


 僕がそう言うと、彼女はゆっくりと顔を上げてこちらを見た。


「うん……」


「それに、君が何を気にしても、それで現実が変わることはない」


 多少頭の回転が遅い彼女にも、それは正論と受け留められたようで、それきり暫くの間彼女は口を開かなかった。

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