第18話

 テュナは一度ベンチから立ち上がり、すぐ傍にあるブランコに腰をかけた。リィルも彼の隣までやって来て、音も立てずに静かに座面に腰を下ろす。霧は未だに晴れない。もう二度と晴れないのかもしれない。どうしてそんなことを思いついたのか、テュナは自分の思考が分からなかった。しかし、彼は常にネガティブな思考をする傾向にあるから、そういった点を鑑みれば特に不思議な発想ではないといえる。


 ブランコの座面を吊るす金属のチェーンが擦れ合い、この閉鎖的な空間に風鈴みたいな音を響かせた。


 空。


 今は何時だろう?


 もう夜は明けてしまうのだろうか?


「私は、貴方に会いに来たのです」


 ブランコをそっと漕ぎながら、リィルが思い出したように呟いた。


「うん」


 テュナもそれに応じる。


「どうしてだと思いますか?」


 テュナは瞳だけを動かしてリィルの表情を伺い、彼女が何を考えているのか考えた。けれど、思い当たることは何もない。リィルの表情はどこまでも清々しく、そこにわざとらしい装飾は少しも見つからなかった。


「人間と、仲良く暮らすために、僕の所に来たんじゃないの?」


 リィルはすぐには答えない。


 風。


「ええ、その通りです」彼女は言った。「でも……。……それなら、どうして、その相手に貴方が選ばれたのでしょう?」


「僕は知らないよ。それを知っているのは君だけだ」


「いえ、私も知りません」


「じゃあ、誰が知っているの?」


「おそらく、私の母親です」


「母親?」テュナは首を傾げる。


「私をデザインし、実際に生み出した、ウッドクロックの生みの親です」


「ああ、そういうこと……」


 ブランコの往復が続く。不思議なことだが、二人の前後運動は今は完全に一致していた。


「僕は、僕には、誰もいなくてもいいと思っていた」テュナは話した。「でも、君には、少しの間だけでも僕の傍にいてほしい、と思う」


 テュナの言葉を受けて、リィルは彼の顔を見る。


 それから、彼女は声を上げて笑った。


 歯が見えるほどの笑顔。


 眩しいという表現が最も相応しい。


「それは、どうしてですか?」


「さあ、どうしてだろう……。……もしかすると、君に惚れてしまったからかもしれない」


 その言葉は、彼が使うには限りなく不釣り合いなものだった。少なくとも、五歳の幼稚園児が他者に向かって発するものではない。


 テュナの特異性は、簡単な言葉で説明すれば「早熟」と言い換えられる。しかしながら、それは単に学習能力が高いということを意味しない。「早熟」という言葉が示す範囲のその先にある意味をも含んでいる。


 テュナは、自分が一般の人間よりも寿命が短いことを知っていた。


 要するに、早くに熟せば、その分腐るのも早くなる。


 しかし、自分にそんな運命が定められていることを知っていても、どうでも良い、関係がない、というのが彼が今までとってきたスタンスだった。


 リィルがブランコから立ち上がり、テュナの傍まで来て彼を上から見下ろす。彼女は彼に比べれば遥かに背が高い。テュナは得体の知れない威圧感を全身に感じたけれど、それは恐怖というものとは少し違っていた。


「私は、その言葉を聞くために、ここにやって来たのです」


 リィルが呟く。


「その言葉って、どの言葉?」


 テュナは尋ねた。


「貴方が、私に、惚れてしまった、という言葉」


 沈黙。


 太陽はまだそれほど高く昇っていない。けれど、今のテュナには時間が経つのがとても速く感じられた。彼はまだ幼いから、相対的な時間の感覚はどちらかというと長い方である。それでも、日が昇る速さは並大抵のものではなく、自分にはどうすることもできない、という無力感が完全に彼の頭を支配していた。


「……君が作られたのは、僕に恋愛感情を起こしてもらうため?」


 テュナがそう尋ねると、リィルは黙って一度頷く。


「ええ、そうです」彼女は言った。「と言ったら、どうしますか?」


「きっと喜ぶと思うよ、素直に」テュナは微笑む。「まあ、でも、本当は違うと分かってしまったから、これ以上は興醒めという感じだね」


「本当にそうだとしたら、どうしますか?」


 テュナはリィルの顔をじっと見つめる。


「……本当に、そうなの?」


 リィルは答えない。


 意味を持たない時間が流れる。


「……いえ、違います」やがて、リィルは言った。「私は、貴方に惚れてもらう『ため』に作られたのではありません。私が存在する目的、意味、理由は、私の母親にしか分かりません。しかし、私には自由に思考し行動する力が与えられているため、ある程度自分の好きなように活動することができます。したがって、その自由意思の範囲内の可能性については、現段階では否定することは不可能です。ですから、私が、自ら、貴方を愛するようになることは、可能性としてゼロではありません」


「随分と長い口説き文句だね」テュナは笑う。


「そうですか?」


「うん、そう」彼は言った。「でも、ちょっとだけ嬉しかったよ」

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