第3章 機械は奇怪
第11話
色の三原色が混ざると黒になる。これは一般的な教養を受けた人なら誰でも知っていることだが、知識として知っているというだけで、その指し示す意味まで考えたことがあるという人は意外と少ない。
もちろん、僕も今まではずっとそうだった。知識は知識のまま脳の一部分に保存されたままになり、余程のことがなければそれ以上の何かに醸成されることはない。考えるという行為は莫大なエネルギーを消費するし、考える理由がなければ考えようとさえ思わないというのが、人間が持ち合わせる特徴の一つである。だから、色の三原色に纏わる現象が何を示しているのか、具体的かつ主体的に考えたことは一度もなかった。
しかし、彼女の説明を受けて、その傾向に少し変化があった。
彼女というのは、今僕の目の前にいる彼女、ウッドクロックと呼ばれる人工生命体の少女である。
薄暗い部屋。
その片隅。
リィルと名乗る彼女は、僕の目の前で腕から血液を流している。
いや、正確にはそれは血液ではない。
あくまで人間に例えるなら、血液と同等の役割を担う構成要素になる、という意味である。
「大丈夫?」何もすることができなくて、僕は彼女にそう尋ねた。
「うん……。まだ、意識を保つことはできている」
「意識? どういうこと?」
「人間も、あまり血を流しすぎると、意識を保てなくなるんじゃないの?」
確かに、と僕は思った。幸福なことに、僕は今までそういった事態に遭遇したことはない。
「あと、どのくらいなら大丈夫そう?」
「えっと、たぶん、三分くらいだと思う」リィルは説明する。「まあ、でも、気を失っても、大丈夫だよ、きっと」
「大丈夫ではないと思う」
「でも、大丈夫」
「どうして?」
「ウッドクロックだから」彼女は僕の方に顔を向け、少しだけ笑った。「人間が、意味もなく、人間だから、ということを理由にするのと同じ」
「君はそれでいいの?」
「うん……。……まあ、本当はよくないけど」
自分の腕の中に一人の男性を抱え、リィルは自身の体液を腕から流出させている。彼女の腕から流れ出した液体は男性の腹部に注がれ、やがて彼の体内へと移動し、細胞の修復作業にそのすべてが費やされていく。
彼がどうしてこんな状態にあるのかは分からない。僕と彼女でこの建物の屋上から戻ってきたら、この男性はすでに部屋の中で気を失っていた。腹部に大きな傷跡があって、そこから赤色の液体が流れ出していたのである。それを見たとき、僕は血が流れているのかと思ったけれど、リィルの説明によってそうではないことが判明した。
リィルに抱き抱えられている彼は、彼女と同じウッドクロックと呼ばれる人工生命体である。しかし、僕はそのことを今日まで知らなかった。というのも、彼は僕の知り合いなのである。この建物の管理人を務めていて、僕ともかなり長い間親交があった。しかし、彼が自分からそのことについて言及したことはなかった。だから、僕も彼がウッドクロックであることを知りようがなかったのである。
どうして、彼は僕にそのことを黙っていたのだろう?
自分から話すのが憚れたからか?
それとも、彼自身も知らなかったのだろうか?
いや……。少なくとも、自分がどの種の生き物であるのか、彼がそれすら認識していなかったとは思えない。僕は自分が何者であるのかは知らないけれど、自分が人間であることは知っている。それは誰かに教えてもらったからではない。僕の周りにいる多くの生き物が人間と呼ばれる存在で、彼らが僕を仲間と認めてくれたから、僕は自分が人間という生き物であることを悟った。だから僕は今も人間として生活しているのであるし、これからも彼らとともに生きていこうと思えるのである。
?
しかし、ということは、彼の周りにウッドクロックが存在していなかった、というふうに考えることもできる。
だから、彼は自分が何者なのか分からなかったのか?
確かに、その可能性がないとは言い切れない。非現実的であることは確かだが、だからといってまるっきり排除できるものとも思えない。
そうか……。
彼が目を覚ましたら、そのことについて質問してみる必要がある、と僕は思った。
「よし、もう、いいかな」
輸血作業を続けていたリィルがそう呟き、自分の腕から伸びる管を閉じる。欠損した管の一部を縛るように固定し、その上から手首に当たるパーツを被せた。
「君は、本当に大丈夫?」僕は彼女に尋ねる。
「うん、平気。でも、ちょっと、眠くなってきちゃったかも……」
「え? それ、本気?」
「うん……」
そう言うと、リィルは僅かにバランスを崩し、僕の身体に自分の身体を預けるように凭れかかってくる。
「ちょっと、眠ってもいいかな?」
僕は辺りを逡巡し、ベッドの代わりになりそうな場所を探した。
「いいけど、こんな所で寝ない方がいい。身体を悪くする」
「うん……。でも、もう、駄目かも……」
「いや、ちょっと待ってくれないかな」
「無理、待てない」彼女はすでに目を閉じかけている。
「いや、あの……」
「おやすみなさい」彼女は言った。「いい夢を見られるようにって、心の中で願っていて」
僕が答えようと思って口を開きかけたときには、彼女はすでにすうすうと寝息を立てていた。
やれやれ……。
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