第10話

 この建物の管理人の彼には、周囲の環境に構わずどこでも眠る癖がある。病気ではないのだが、本人の意思に関係なくそういったことが起こるのであれば、看過できない症状であることに変わりはない。つまり、これが原因で彼はこの建物から出られないのである。猫に噛まれたからとか、そんなくだらない理由ではない。


「大丈夫そう? あ、えっと、その前に、この部屋の電気を点けてくれないかな」僕は言った。


「どこに電源があるの?」


「君は今どこにいるの?」


「えっと、屋上へと続く階段から見て、正面に巨大な装置があるとすると、その左側」


「じゃあ……。そこから左手に進むと壁があるから、そのどこかにあると思う」


「どこかって、だいたいどれくらいの位置?」


「君が手を伸ばせば届くくらいの所」


 リィルが移動するのが分かる。暗くて何も見えないから、僕の立ち位置によっては接触してしまうおそれがある。しかし、彼女には先述したスタビライザーが搭載されているから、例によってその衝突によるダメージを受けるのは僕だけである。


 幸いそうした事故が生じることもなく、リィルは左側の壁に辿り着くことができたみたいだった。


「うーんと……」彼女が呟く声が聞こえる。「どこかな……」


「君さ、その、倒れていた彼は、今はどうしているの?」


「背負ってるけど、私の背中に」


「僕の背中だったら怖いじゃないか」僕は笑った。「え? 背負ってる?」


「あ、あった。これかな?」


 彼女がそう呟くとともに、部屋の照明が灯され、空間の全貌が明らかになった。


 僕から五メートルほど離れた場所にリィルが立っている。


 その背中に管理人の彼が背負われていた。


 しかし、その光景を見て、僕は声が出なくなった。


 どうして……。


「あ、点いた」リィルが言った。そして、僕の顔を見て彼女は硬直する。「……どうかした?」


 僕は黙って彼女の方に近づいていく。


 リィルの衣服には赤色の染みが広がっていた。


 それは、当然、彼女の体内から溢れ出したものではない。


 したがって、その流出もとは一つ。 


 彼の腹部から大量の血液が漏れている。


「急いで、緊急医療センターに連絡するんだ」彼女の背中から管理人の彼を降ろして、僕は言った。「そこに、電話があるから、それで……」


「え? どうして?」


「早く!」僕は叫ぶ。「彼が死んでしまう」


 僕がそう言うと、リィルは立ったまま目を瞬かせた。


「どういうこと?」


「説明している暇はない」僕は話す。彼の腹部に自分の掌を当て、出血が治まるように努力する。「いいから、僕の言う通りに」


「彼は、気を失っているだけだよ」


「違う」


「でも、そうだから」


「だから、違うんだ」


 リィルは僕の傍に屈み込む。


 我慢ができなくなって、僕が大声を出そうとした瞬間、彼女がおかしな挙動をとった。


 リィルは、自分の手を手首から取り外す。


 腕から三本の管が出てきた。


 その内の一つを切断し、管の中から液体を零し始める。


 液体は彼の腹部に注がれていく。


 僕は、驚いて、何も言えなかった。


「彼は、気を失っているだけ」リィルは落ち着いた口調で説明した。「すぐに目を覚ますと思うけど、でも、一応、君がどうしてもって言うから、これくらいの処置はしておこうと思う」


「……どういう意味?」


「彼は、ウッドクロックだった」


「……え?」


「これで、私を含めて、二人目」


 僕は彼の顔を覗くように見る。


 彼が、ウッドクロック?


 人間じゃない?


「ああ、駄目だ、私って……」リィルが呟く。「どうして、もっと早く気がつかなかったんだろう……」


 沈黙。


 液体の滴下音。


 僕は彼女の掌に触れる。


「……何?」


「痛くないの?」


「痛いよ」リィルは言った。「でも、それは、生きている証拠だよ」

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