第9話
ペントハウスの扉を開け、二人揃って屋上から立ち去った。階段に照明器具は存在しない。足もとが見えづらくて危なかったけれど、どうにか転ぶことなく下の階まで下りることができた。そもそも、リィルは転ぶようなことがないらしい。もちろん、外部から強い衝撃を受ければ体勢を崩すことはあるが、強固なスタビライザーが搭載されているため、余程のことがない限りバランスを保ち続けることが可能とのことである。
僕にもそんな装置があったら良いな、と少しだけ感じる。物理的なスタビライザーを求めているのではなく、概念的なスタビライザーがあれば良いと思う。これからの人生はまだまだ長い(と期待している)だろうから、予期しない地点で転びそうになることもあるはずである。そうしたときになんとかバランスを保ち、転びそうになるぎりぎりのところで耐えることができたらどれほど良いだろう。転びそうになる要因が完全に排除されるに越したことはないが、そんなことは不可能であるだろうし、何よりも、それではスリルに欠けるというものである。だから、ほどほどに転びそうになって、あと一歩のところで踏ん張るのが良い。そんな幸せな日々が送れたら良いな、と僕は心の底から感じるのである。
でも……。
彼女と、リィルといれば、少しはそんなこともできるのではないか、という予感がする。
彼女にスタビライザーが搭載されているのなら、僕も多少はその恩恵を受けることができるだろう。
きっと、僕が転びそうになったとき、絶対に転ばない彼女が僕を支えてくれるに違いない。
そんな関係になれれば、本当に素晴らしいと思う。
これ以上ない。
つまり、極上。
そして、僕たちがたった今までいたのは屋上である。
というわけで、階段を完全に下りきったわけだが……。
そこには依然として真っ暗な空間が広がっているだけだった。
「誰もいないのかな?」僕の隣でリィルが呟く。
「さあ……。いや、そんなことはないと思うけど」僕は説明した。「管理人の彼は、ほとんど外に出ることがないから……。というよりも、外に出られないんだ」
「へえ……。どうして?」
「うーん、なんというのか、持病みたいなものでさ」僕は言った。「外に出ると精神に支障を来すというか、まあ、なんだ、そういう一種のトラウマのようなものを抱えていて……」
「何かあったの? その、昔に」
「それは、何もなければ、そうした事態にはならないだろうね」
「じゃあ、何があったの?」
僕は質問に答えずにぶらぶらと歩き回る。
リィルもそのあとをついてきた。
「猫に噛まれたんだ」やがて、僕は意を決して答えた。「とても大きな猫に、昔」
「え、それだけ?」彼女は素っ頓狂な声を上げる。
「いやいや、それだけって、いくらなんでも酷いじゃないか」
「あ、そう……、かな……」
「そうだ。絶対に」僕は話す。「そんな言葉は二度と口にするものじゃない」
「それって冗談のつもり?」
「冗談の通じないレディーに、僕がそんなことを言うと思うの?」
「思う」リィルはなんの躊躇いもなく頷いた。「すごく、そう思う」
僕は溜息を吐いてやれやれという素振りをしてみせたが、暗すぎてその姿を彼女に見せることはできなかった。
いや……。
それは違うかもしれない。
「あ、もしかして、君さ、今のこの空間を把握できている?」
「え?」僕がそう尋ねると、リィルは端的に答えた。「もちろん。全部見えてるけど」
「そうか……」
以前、彼女に、ウッドクロックは可視光線を使って世界を見ているのか、と尋ねたことがある。そのとき、彼女は可視光線が何かは分からないが、少なくとも、動物と同等な手段を用いて視覚情報を得ていることは確かである、と答えた。
それを思い出して、全然違うではないか、と僕は思ったが、別に問い詰めるようなことでもないし、むしろ便利だと思って、僕は今は何も言わないでおいた。
「じゃあさ、えっと、どこに何があるのか、軽く教えてくれないかな?」
僕は適当に身振り手振りをしながら、彼女にそう要請した。
「うん、いいよ」リィルは素直に答える。「えっと、じゃあ、まず、だけど……」
この建物に入ってきたときのことを思い出しながら、僕は頭に情景を思い描く。そう……。僕たちがここにやって来たときは、まだ照明が灯されていたのである。
「部屋の中央に、何か大きな装置みたいなものがあるかな」リィルは説明する。「で、その隣に、人が倒れている」
僕は吹き出しそうになった。
「……え?」
「あ、これ、誰だろう」
誰だろう、ではない。そんなの一人に決まっているではないか。
「いや、あのさ、そういう重要な情報は、僕が尋ねる前に提供してくれないかな」
「あ、そう? それは、ごめん」
僕は短く溜息を吐く。
「まあ、いいよ。えっと……。とにかく、その人を起こしてあげてくれないかな?」
「うん」リィルが動く気配が伝達される。
「怪我は?」
「あ……。特には、してなさそう、かな」
「そう」
「でも、気を失っているみたい」
「え?」
僕は驚いて声を上げた。てっきり眠っているのかと思っていたのである。
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