第8話

「君は、寒くないの?」僕は尋ねた。


 リィルはこちらを見て頷く。


「うん、寒くはない。でも、暖かくもない」


「ウッドクロックの身体は、寒いの?」


 僕がそう尋ねると、彼女は顎に人差し指を当てて考える素振りをした。


「うーん、それも、寒くはないけど、暖かくもない、かな」


「温度で言うとどれくらい?」


「二十八・五度くらい?」


「それは寒い方なんじゃないの?」


「寒いというか、冷たいんだよね」


「どっちも同じだよ」僕は笑った。「言葉の問題じゃないか」


 言葉の問題ということは、示している事象は同じであるということになる。つまり、言葉の影響を受けない本質というものが存在するとすれば、装飾を取り払ったあとの核に変わりはないという意味である。選択する言葉によってその人物の人柄をある程度計ることはできるが、本質の方が比重が高いことを考えれば、言葉という装飾はそこまで重要ではないことが分かる。


 しかし、僕(あるいは、僕以外の誰であっても)がわざわざこういったことを記述するということは、世間的な認識はそうではないということでもある。要するに、今述べたことを反対にとれば、世間一般では本質よりも言葉の方が重要だと捉えられることが多いため、言葉さえ上手く使えば相手を操作できる、ということになる。これは非常に恐ろしいことであると僕は思う。というよりも、人間が詐欺に遭うのは与えられた情報としての言葉に原因がある場合がほとんどであるため、そうした恐ろしいことが平気で行われている、という点がさらに恐ろしく感じられるのである。


 そして、当然のことながら、それは詐欺に限った話ではない。


 言葉の丁寧さや流暢さを売りにするものにも同じことがいえる。


 それは、たとえば、小説……、などが当て嵌まる。


「何を考えるているの?」


 突然リィルに声をかけられて、僕はとっさに彼女の方を向いた。


「え? あ、いや……」僕は適当に音を発する。「いや、何も特別なことは考えていない」


「教えてよ、その、特別ではないことを」


「え、どうして?」


「なんとなく、気になるというか、なんだか面白そうだな、と思ったから」リィルは表情を明るくする。「面白いことは、私、けっこう好きだよ。元気になるし」


 面白いことと、元気になることは、本質的には反対である、と僕は思った。


「うーん、でもね、僕が考えることは、大抵の人にとっては面白くないんだ」


「私は人じゃないから、きっと面白いはずだよ」


 彼女の言葉を受けて僕は笑った。


「それはね、言葉の綾というんだよ」僕は話す。「今考えていたのは、まさにそれに関することだ」


「え、じゃあ、やっぱり、面白いことを考えていたってこと?」


 僕は正面に向き直る。


「何か言った?」


「いや、だから、やっぱり面白いことを考えていたんじゃん、と思って」


「まあ、そうかな」僕は頷いた。「正直に言えば、君のことを考えていた」


 本格的な夜の到来は近い。僕の家はこの建物から比較的近い場所にあるから、遅くなってもそれほど困ることはない。しかし、この建物の管理人がそれを許してくはくれないだろう。彼(つまり、管理人は男なのである)はなかなか気性が荒い人間(つまり、ウッドクロックではない)で、せっかちだから僕の理屈に一向に耳を傾けようとしない。


 しかし、今日は僕が無理を言ったのだから、そろそろお暇するのが礼儀というものか、とは思った。


 だから……。


 そろそろ、本当に、家に帰ろうと思う。


「もう帰ろう」僕はぶっきらぼうにそう言った。なぜぶっきらぼうな言い方になったのかは分からない。「本当に寒くなってきた」


「ね、君はさ、私をお嫁さんにしてくれるんだよね?」リィルが突然話題を逸らす。


 僕は完全に彼女の方に身体を向けた。


「そのつもりだけど」


「じゃあ、結婚式は挙げないの?」


「君は挙げたいの?」


「うーん、君が挙げたいって言うなら、私も挙げたいと思う、かな」


 僕は彼女に背を向け、そのまま片手をひらひらと振った。


「じゃあ、挙げないよ。馬鹿馬鹿しいじゃないか、そんなこと。ただのセレモニーだよ。意味はない。それに、結婚式を挙げるのは、大勢がそうしているから、その流れに乗って楽をしようとしているだけじゃないか」


 僕がそう言うと、背後でリィルはくすくすと笑い声を上げた。


「……そうなの?」


「そうさ、きっと」僕は言った。「それに、結婚式を挙げたりしないと深まらない関係なんて、僕は必要としていない」


 リィルの笑い声が途絶える。


 僕は少し心配になった。


 ……。


 自分でも、かなり気障な台詞を口にしたと思う。僕にしては珍しい。


 もしかすると、彼女を傷つけたかもしれない。


 それはいけない。


 それはよくない。


 謝った方が良いかもしれない。


 そんなことを思って僕がそっと後ろを振り返ると、彼女は、今度は上品な笑顔を顔に浮かべて、じっと僕のことを見つめていた。


「……何?」僕は彼女に尋ねる。


「ううん、何も」彼女は笑顔のまま首を振る。「それなら、よかったな、と思って」


「何が?」


「君のお嫁さんになれて」


「それは、どうも」僕は話す。「しかし、そうするように言ったのは君の方だ」


「そう……」リィルは言った。「それを見越して、君にお願いしたんだから」


「それというのは?」


「君となら上手くいく、という確信」


 沈黙。


 それから、僕の方もなんだか面白くなってきてしまって、気づいたら僕も小さく笑い声を上げていた。


「さあ、もう帰ろう」僕は言った。「夜ご飯が待ち遠しい」


「今日は何が食べたいの?」


「うーん、そうだな……」僕は答える。「天丼かな」

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