第2章 思考を試行
第6話
夕焼けの空。屋上の柵。
午後五時が到来した街の片隅にある屋上で、僕と彼女は黄昏色に染まっていた。床はコンクリート、柵は鉄。僕も彼女も装いはかなり軽かったけれど、この時刻になるとちょっと寒い。気温は比較的高い方なのに、吹きつける風が妙に寒冷さを帯びていて、日々の心的苦労に冷淡が染み入るような感じだった。もちろん、冷淡という物質はこの世界には存在しないけれど、物質とは異なる形でそれは確かに存在する。しかし、この感覚が彼女にも共有できるのか、出会ったばかりの僕には推測することができなかった。出会ったばかりという言い方は少しだけ違うけれど、実際にこんなに話したのも、行動をともにしたのも、今回が本当に初めてである。初めてのことはなんでも面白い。今回も例外なく、彼女との外出は想像を絶して面白かった。
「そろそろ、帰ろうか?」
柵に腕を載せて遠くの方を見ていた僕は、顔だけを横に向けて、隣で同じ格好をしている彼女に声をかけた。
「うーん、もう少し、このままがいいかな」
「どうして?」
「え?」
「君は、さっき、早く家に帰りたいって言ったじゃないか」
「そんなこと、言ったっけ?」彼女は小さく首を傾げる。
「言ったよ」僕は笑った。「忘れたの?」
「忘れた、という概念が、私にはどうしても理解できない」
「それは、君が理解しようとしていないからだ」
「それは言葉遊びなんじゃない?」
「言葉は遊んだりしない」
「うーん、それも、言葉遊びだと思うけど……」
「遊びは大切だ。特に、螺子を締めたりするときに重要になってくる」僕は言った。「君の身体にも、螺子の一本くらいは使われているんだろう?」
「使われていないと思う」
「ウッドクロックには?」
「あ、そうか……。……うん、確かに、使われているかもしれない」
ウッドクロックというのは、彼女の心臓としての役割を担っている装置のことである。この装置は記憶媒体としての機能も担っていて、人間の心臓よりも機能が高い水準にある。ちなみに、酸素と二酸化炭素の交換作業を行う肺としての機能も備わっているみたいで、現代の技術を超えた次世代のメカニズムとして注目されている(今のところ、その技術に注目しているのは僕一人だけである)。
彼女は人間ではない。外見は限りなく人間と同じように見えるが、ウッドクロックと呼ばれる人工生命体で、製造者は不明、存在異議も不明、といった恐ろしく未知に溢れた存在だった。先述した通り、ウッドクロックとは彼女の動力源兼記憶媒体兼呼吸器の名称でもある。その装置が木製の時計の形をしているからそう呼ばれているらしく、僕は実際にその様子を見たことがあった。
「ねえ、リィル」僕は、そのとき、おそらく、初めて彼女の名前を呼んだ。
リィルはこちらを見る。
「何?」
「君はさ、どうして僕を選んだの?」
「どういうこと?」
「いや、だから……」僕は一度彼女から顔を背けた。「どうして、結婚相手に僕を選んだのかな、と思って」
「うーん、質問の意味が分からないけど……」彼女は考える素振りをする。「まあ、でも、比較的信頼できる人柄だし、それなりに一般教養もあるし、ほどほどな見た目もしてるから、じゃないかな?」
「……そんな人は、僕以外にも沢山いると思うけど」
「あ、そうか。そういえば、そうだった。……じゃあ、どうしてだろう?」
僕は正面の景色に視線を戻し、彼女に気づかれないように小さく溜息を吐いた。
彼女、リィルという固有名詞を与えられたウッドクロックは、いつもこういった調子なのである。彼女が言った通り、僕もかなり平凡な頭脳の持ち主なのだが、僕が思うに、彼女はそれ以上に非才な存在である。人工的に作られた生命体なのにも関わらず、わざわざこれを人工的に作った意味が分からない、という程度に発言や行動が平均値を下回っている。最近はこういった少々馬鹿げた機器の製造が流行っているのだろうか、と考えたこともあったけれど、僕の濁りきった目で世界を観察しても、今のところそうした傾向は見られない。
そう……。
僕には、彼女がどうしてこれほど普通なのか、理解することができなかった。
挙動言動が非才であるのは確かだが、しかし、それに反して、外見はかなりスペシャルであるというのも彼女が持ち合わせる特徴の一つである。いや、むしろ、それくらいしか特徴がないといっても良いだろう。アイドルとか、モデルとか、外見に秀でている人種はいくらでもいるけれど、彼女のそれはそういったレベルではない。彼らを遥かに超越している。
もしかすると、この外見と内面のギャップを狙って、彼女のような個体が生み出されたのかもしれない、と最近になって僕は思うようになったのだけれど……。
まあ、これについてはもう良いだろう。
あまり詮索しすぎるのも良くない。それが僕のポリシーというものである。
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