第3話

 一般的な一軒屋なので、特に目新しい点は何もない。僕はこういったシンプルな空間が好きだった。ちなみに、好きという感情を抱くのに理由は必要ないので、好きな理由を説明することはできない。当たり前である。では、どうしてこんな当たり前のことを言うのかというと、それは僕が人間だからである。人間には無駄なことが必要なのですね、と十三年前に彼女に言われたことを、僕は今になって思い出す。


「失礼します」


 靴を脱ぎ、彼女は玄関に上がった。


「どうぞ」僕は彼女を案内する。「特に散らかってはいないけど」


「散らかっていない方が好きなのですか?」


「君は、散らかっている方が好きなの?」


「私は、どちらとも好きです」彼女は微笑んだ。「というよりも、何でも好きです、と言った方が正しいと思います」


 自分でそう言った通り、リビングは比較的整理整頓されている。比較的というのは、世間一般に比べると整っている、という意味である。こんなことを言うと、それでは世間一般とはいったい何なのか、といった話題に発展しかねないので、これ以上余計なことは言わないでおこうと思う。


 さて……。


 僕はキッチンに移動し、コーヒーを淹れる準備をした。


 彼女は飲み物は飲まない。となると、必然的に僕の分だけを用意することになる。コーヒーを一人分だけ上手く抽出するのは難しい。どうしても味に偏りが生まれやすくなってしまう。けれど、なんとなく偏りのあるコーヒーが飲みたい気もしたから、僕はわざと一人分しか豆と水を用意しなかった。


 なるほど……。今日の僕は、なんだか浮かれているようだ、と状況を把握する。


 リビングに戻ると、彼女はソファに深く腰をかけていた。


「何もないよ」辺りに視線を巡らせていた彼女に向かって、僕は言葉をかけた。「必要のないものは買わない主義なんだ」


「では、私は必要ですか?」


「それ、どういう意味?」僕は笑った。「必要か、そうでないかと訊かれれば、間違いなく必要だと思う」


「うん……。それを聞いて安心しました」


「あのさ」僕は彼女の隣に座る。距離感が一気に縮まった。「もう少し、ラフな話し方をしてくれないかな」


「どういう意味ですか?」


「敬語とか、使わなくていいから」


「失礼ではありませんか?」


「うん……。というよりも、なんていうのか、こう……、君の性格には合わないと思う」


「そうですか?」


「うん、そう」


 僕がそう言うと、彼女は一度目を閉じ、そのまま呼吸だけを続けた。彼女も人間と同じように酸素からエネルギーを取り出している。つまり、心臓兼記憶媒体としてのウッドクロックは、酸素と二酸化炭素の交換を行う肺としての機能も担っている。なかなか素晴らしい発明だと思う。まさに兼業農家といった感じである。


「じゃあ、分かった」


 暫くしてから、彼女は目を開いて答えた。


「こんな感じで、いいかな?」


 僕は彼女の顔を見つめる。


「うん、いいよ」


 彼女は少し笑った。


「じゃあ、これでいくね」


「どこに?」


「え? どこって、何が?」彼女は首を傾げる。


「いや、なんでもない」僕も笑った。「まあ、気にしなくてもいいよ。ときどき、こんなふうに変なことを言ったりするのが、僕という人間だから」


「へえ……」


 キッチンから甲高い音が聞こえてくる。コーヒーができたらしい。僕はソファから立ち上がり、一度リビングから立ち去ろうとする。


 しかし、服の袖を掴まれて、僕は上手く移動することができなかった。


 後ろを振り返る。


「何?」僕は尋ねた。


 彼女は僕の顔を見つめている。その瞳は限りなく透明で、氷のように澄んだ色に輝いていた。


「あのさ」


「うん」僕は頷く。


「約束、覚えてる?」


「何の?」


「十三年前にした、あの約束」


「うん、まあ……」


 僕がそう答えると、彼女は嬉しそうな顔で笑った。


「どうしたの?」


 彼女はまだ笑っている。


「いや、なんでもない」彼女は呟く。「よかったって、そう思った」





 地球規模のオーロラが発生した場合、人類はすぐに火星に移住しなくてはならないらしい。オーロラから発せられる不可解極まりない電波を人間の脳が受信してしまい、地球を破壊する化身と化す恐れがある、とのことである。もちろん、これは僕が考えたことではない。僕の頭はかなり螺子が緩んでいるけれど、そこまで突拍子のないことを発想するようにはできていない。


 そんな意味の分からないことを熱弁しているのは、テレビの向こう側に座っている一人の科学者である。僕はあまりテレビを見ない方だが、なぜかうちにはテレビがあった。いつ買ってきたのかは覚えていない。僕と彼女はソファに並んで座り、その不可解な説明に熱心に耳を傾けている。いや、僕は熱心に聞き入ってなどいない。そんなことをしているのは、あくまで彼女一人だけである。


 彼女はテレビの画面をじっと見つめている。


 そのまま動かない。


 そんな彼女の横顔を、僕は隣で眺めていた。


 なかなか端正な顔つきをしていると思う。


 確かに、人間の意思によって作られたものなのだから、わざわざ負の要素を与えようという発想には至らないだろう。


 そう……。一言で言ってしまえば、彼女は相当な美形である。

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