導きの白き獣
第1話 逃走
悲鳴すら上げられないシホの身を硬直から解放したのは、獣の吠え声だった。覚醒しろ、と導くかのような鋭い声にシホが振り返ると、そこにいたはずの白い大きな犬の姿がなかった。と、何かがシホの手の先をすり抜けて行く。ぐあ、という声が背後で起こり、もう一度振り返ると、白い犬が髭の男に飛び掛かり、宙で器用に身を翻して、後ろ足で男の顔を蹴りつけたところだった。石畳に音もなく降りた白い獣は、今度はシホに向かって駆けてくる。
ついてこい、とその獣の瞳が言った気がした。
「はいっ!」
シホはその感覚を信じた。獣に向かって反射的に返事をし、脇をすり抜けて行く白い毛並みを追って走り出した。背後は見なかったが、刃物を握った男も、追い掛けて来ている気配がある。
倒れていた女性は、おそらく亡くなっていた。男が片手に持っていたものは、何かはわからなかったが、滴り落ちていたのは間違いなく血液だった。リコリーの話が本当であれば、あれは、人の臓器。
考えれば考えるほど、シホの身体に恐怖が襲い掛かった。 身が震え、足が止まりそうになる。だが、それが伝わっているかのように、前を走る白い犬が、走りながら首だけを後ろに向けてこちらの様子を見る。普通の獣にできる仕草ではないが、シホはその横顔に、奇妙なほどの信頼感を覚えた。
とにかく、逃げなければ。百数十年前の街並みに、過去の連続殺人事件を想起させる犯人。そんな中にいる自分。いまの状況に、現実味は何一つない。ただ、逃げなければならないことだけは確かだと思った。捕まり、殺されれば、悪い夢でした、といつもの移民街区に、『銀の短剣』に戻る。現実味は何一つなくとも、そんな可能性に掛けてみようか、と思うほど、いま迫ってくる恐怖も、自分を包む全ての環境も、曖昧な感覚ではなかった。
白い獣は、この倉庫街をよく知っているのか、広い通りと、建物の隙間の小径を何度も出入りしては、倉庫街を縫い上げるように、淀みなく進んでいく。その足取りは、もし人であれば、明らかに無目的なものではなく、どこか一点を目指している。
シホは付いていくので精一杯だったが、背後に追い迫る男の気配がなくなる様子もなかった。獣が目指す場所にたどり着くことができたとしても、この状況は変わりそうにない。どうすればいいのか。どうすれば……
息が切れ、痛み出した胸を押さえて走りながら、シホは必死で思考した。幾つ目かの小径から飛び出し、倉庫街を貫く広い通りに戻ったのはその時だ。そこでシホは正面に立つ小柄な影を見た。
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