龍虎
・貞吉三年(1545年) 八月 信濃国佐久郡 佐久平 長尾景虎
千曲川の向こうにいくつかの敵の旗が見える。
大袈裟に動き回ってはいるが、一切動きの無い旗指物もちらほらと見える。
「見掛け倒しの小勢だな……」
「いつもの斎藤山城(斎藤利政)の小細工でありましょう」
駿河守(宇佐美定満)が憎々し気に吐き捨てる。
村上の後詰として信濃に入って半年。未だ斎藤・大原との決戦は無い。小勢による小競り合いばかりだ。
にも拘わらず、ジリジリと敵の勢力が伸びてきているのはいかなるわけか。
戦えば、負けぬ。儂自ら陣頭に立ち、何度も斎藤勢を追い散らして来た。だが、いつの間にかあちらの城が寝返り、こちらの境界が侵され、気がつけば諏訪郡を切り取られた。
今やこの佐久平が我らの勢力の最前線だ。
斎藤山城守殿か……。
覚えている。阿波勢が上洛しようとした折、斎藤殿は阿波勢に対してわざと負けて見せ、その油断を誘って一気に撃滅した。
古の楠木正成もかくやというその軍略を聞くにつけ、幼い儂も胸を躍らせたものだ。
あの時は前の公方様(足利義晴)を奉じて戦った貴方が、何故今は足利を滅ぼさんとする六角に合力するのか……。
いや、分かってはいる。
あの時も貴方は六角定頼に味方したまでだと言うのだろう。そして此度もまた、六角定頼に味方をしているだけだ、と……。
だが、やり切れぬ。
それほどの力量を持ちながら、何故その力を己の利の為にしか使おうとせぬのだ。義の為、世の秩序を取り戻すためにその力を振るうならば、斎藤山城の武名は千年の後まで語り継がれるであろうに……。
悪逆なる六角の手先となり、あまつさえ定頼の子を婿に迎えて喜んでいるとは情けない。
ふと”駿河守様”と呼ぶ声が聞こえた。
後ろに視線を移すと、足軽の風体をした男が跪いている。あの男は……確か徳川に仕えている男ではなかったか?
いや、間違いない。服部半蔵(保長)と申したはずだ。先代の三河守(徳川清康)から仕えていると言っていたな。
主を亡くしてもなお旧恩を忘れず、その子を盛り立てるために忠義を尽くすとは……なんとも見上げた男だ。
世の中の
だが、そうはならぬ……。
嘆かわしい限りだ。
「御屋形様。良き報せにございますぞ」
……ふむ。
駿河守の顔がいつになく明るい。
「首尾は上々のようだな?」
「はい。武田が北条を離れ、こちらに付きましてございます」
・貞吉三年(1545年) 八月 甲斐国山梨郡 躑躅ヶ崎館 武田晴信
先ほどから広間の方が騒がしい。
万に一つも仕損じることは無いはずだが……。
左右に視線を巡らせると、右側に座る備前守(甘利虎泰)がそわそわと落ち着かぬ様子だ。反対に左側に座る兵部(飯富虎昌)はじっと目を閉じて瞑目している。
……いや、よく見ると兵部も手を握ったり開いたりしているな。
なんとも落ち着かぬものよ。
やがて大きな足音が近付いて来た。と、血まみれの刀を握った源五郎(春日虎綱)が姿を現す。
「板垣信方、広間にて討取りましてございます」
「おお!でかした!」
誰よりも早く備前守が立ち上がり、喜色を満面に表す。
だが、兵部は尚も厳しい顔つきのまま源五郎に問いを発した。
「小山田出羽守(小山田信有)はどうしている?」
「ハッ! 当初は刀を抜いて抵抗する姿勢を見せておりましたが、御屋形様の上意であることを伝え、加えて板垣が討ち取られたことで大人しくなり、今は刀も捨てて大人しく縄についております」
源五郎の返答に兵部が頷くと、改めて儂の方へ向き直った。
「これからが肝要にございます。時を置けば郡内の衆は北条を甲斐に引き入れましょう」
「うむ。すぐさま都留郡に兵を出し、笹子峠を封鎖しろ。穴山にはかねての取り決め通りに動くよう文を書く」
「お任せ下され! 我ら甘利一統、御屋形様の御為に見事郡内を鎮めて見せまする!」
兵部の言葉をもぎ取り、備前守が意気揚々と居室を出て行った。
……ふん。儂の為か。
甘利のジジイめ。見え透いたことを言う。
このまま北条の風下に立っている限り、武田の筆頭家老は板垣で動かぬ。甘利が板垣の始末に同意したのは、あくまでも自分が武田の実権を握らんが為であろうよ。
北条にアゴで使われ、行きたくも無い関東の合戦に駆り出された。その間に斎藤に諏訪を取られていては世話は無い。
このままでは儂は……武田はただの道化ではないか。
だが、北条の手伝い戦に明け暮れた日々にも収穫はあった。
「では、某も」
兵部がゆっくりと立ち上がり、儂に視線を向けて来る。
儂が一つ頷くと、兵部も頷き返して退出した。
最大の収穫はこれよ。兵部が儂に付いた。
板垣や甘利は儂を利用して武田の実権を握りたいだけであったが、飯富は真に儂の腹心となってくれた。
今回の都留郡への出兵中、甘利備前守は飯富の兵の放った
まったく、戦とは何が起こるか分からぬものよな。
左右の将が消えた居室で、儂と源五郎二人だけが向かい合う形となった。
「源五郎。よくやってくれたな」
「ハッ……ハハッ!」
刀を持つ手が小刻みに震えている。
人を斬るのは初めてではないはずだが、やはり若い源五郎には相当な重圧であったか。
立ち上がり、源五郎の側に寄ると源五郎の両肩に手を回した。
お互いの吐息がお互いの耳にかかる。
自然と儂の声もささやくような物になった。
「辛かったであろう。苦しかったであろう。よくぞ耐えて役目を果たしてくれた。このような役目は、そなたにしか頼めぬ」
「いえ……御屋形様のお役に立てたのであれば……」
源五郎の顔が朱に染まっている。
生来の整った顔に血化粧を纏ったことで、ぞっとするほどの妖艶さを覗かせる。
美しい……。
・貞吉三年(1545年) 九月 近江国滋賀郡 坂本城 六角定頼
近江に戻り、正寿丸の出雲下向準備に忙殺されている最中に北条幻庵から東国の変事を伝える文が届いた。
務めて冷静に事実だけを述べているが、行間から憤懣やる方無いという思いが滲み出て来るような文だ。
「板垣が討たれ、甘利も流れ矢で討ち死に、か……どう思う?」
「どうやら、ただの神輿で満足する男では無かったようですな」
「やはり、そうなるか」
進藤が事も無げに言い放つ。
まあ、板垣と小山田を政権の中枢から外したと言うことは、武田の北条からの独立を意味するのは間違いないな。
板垣も小山田も甲斐の東部を所領に持つ親北条派だ。北条と良好な関係を維持するつもりならば、排斥する理由が無い。
武田晴信が北条に不満を溜めているという噂は聞いていたが、とうとう爆発したという感じだな。
とは言え、少々時期が悪い。
俺は出雲から戻ったばかりで、これから海北・蒲生の抜けた穴を埋めて畿内の軍を再編していかにゃならん。加えて、京極高延の抜ける穴も大きい。
つまり、軍事・内政両面に於いて、今は外に目を向けている余裕がない。
北条は北条で武田だけに構っているわけにもいかんしな。
河越の戦いに勝利した北条だが、戦に勝ったというだけで古河公方も関東管領上杉もまだ健在だ。北条は何よりもまずこの両者を滅ぼさねばならない。下手に放置して古河公方の勢力が持ち直したりすれば、それこそ北条は武田どころではなくなる。
まあ、武田も敢えてそういう時期を選んだんだろうがな。
加えて長尾景虎の存在感も増している。
古河公方足利晴氏と越後公方足利義輝は、本来的には相容れない存在だ。だが、六角の天下を認めぬという一点において共闘の姿勢を見せ始めている。
足利晴氏が河越合戦で北条に敗れたことが効いているんだろう。背に腹は代えられないといったところか。
そして、若いながらも無類の戦巧者であり、常勝無敗の戦績を持つ長尾景虎に改めて注目が集まっているという訳だ。
長尾景虎、武田晴信……。
越後の龍と甲斐の虎の共闘か。正直、考えたくないな。
「話し合いでこちらに引き込むのは難しいかな?」
「無理でございましょうな。陸奥守殿(武田信虎)がこちらに在る限り、武田はおいそれと六角に従うわけには参りませぬ」
「だが、塩は必要なはずだ」
「すでに越後と話はついている物と思われます」
そうなんだよなぁ。
武田が六角を受け入れるということは追放された信虎が武田家に復帰することを意味する。
家督継承の経緯から考えれば、それに一番難色を示すのは武田晴信自身だろう。
そもそも、武田が北条に膝を屈したのは駿河からの塩を止められることを恐れてのことだ。
徳川に追い詰められていた今川を見限ったのも、駿河湾との安定交易を維持するためという側面が大きい。
武田にとって、駿河の海はそれほどに重要な物だ。
塩そのものが入らないことも問題だが、何よりも困るのは塩止めによって甲斐国内の物価が混乱することだ。
塩という生活必需品の値上がりはあらゆる物の値段を連動させる効果を持つ。現代風に言えば、エネルギー価格の上昇による悪性インフレが起きるようなものだからな。
物価の上昇によって収入は増えるが、それ以上に生活にかかる費用が激増する。民衆にとってみれば、実質的に収入が激減するのと同義だ。
史実で武田信玄が駿河侵攻を行ったのも、その恐怖心が根底にあったからだろう。
信虎は今川や北条と敵対していた為に何度か塩を止められたそうだが、その度に甲斐国内の物価が大混乱に陥って痛い目を見たと言っていた。
塩の安定確保は武田にとって生命線といっていい。
その生命線を北条に預けたまま敵対する馬鹿は居ないだろう。となると、越後の長尾とは既に話をつけてあると考える方が自然だ。
……やはり穏便な解決は不可能か。
相手は武田信玄と上杉謙信の連合軍だ。正面からまともにぶつかればこちらにも相当の被害が出る。
物量戦で圧倒する他ないだろうな。
「次郎(大原頼保)には諏訪郡を堅守しろと伝えろ。『決して戦を急ぐな』とな。武田も板垣・甘利を粛清した穴埋めは必要だ。まずは甲斐国内の建て直しが急務となるはずだ」
「猶予は二年と言った所でしょうかな」
「そのくらいだな。こちらも軍の再編を急がせろ」
「承知致しました」
西国がようやくひと段落したばかりだというのに、まったく……。
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