出雲の鈴
・貞吉三年(1545年) 七月 安芸国高田郡 吉田郡山城 毛利隆元
「ええい、忌々しい!」
佐東銀山城での六角定頼公との面会を終え、父上が足取りも荒く居室に入った。続いて儂が入ると、左衛門尉(桂元澄)が後ろ手に居室の戸をゆっくりと閉める。
ここから先の話は余人に聞かせる訳にはいかぬ。
佐東銀山城へと参ったこの三人だけで一旦は話を詰めなければな。
父上がいつもの座にどっかと腰を下ろし、そのまま脇息にもたれて頬杖を突く。
そのままジロリと儂の顔に視線を合わせた。
「太郎(毛利隆元)! お主はあくまでも定頼公の言葉に従うべきだとそう申したな!」
「はい。申しました。備後から駆け戻ったあの時に申した通りにございます」
「だが、此度の仕儀はどうだ! よりにもよって西国の旗頭をあの尼子に務めさせようなどと――」
「ですが、父上も御前では異存はないと申されたではありませんか」
「当たり前だ! あの場で異存は大ありだ、などと言えるか!」
やれやれ、もはやどうすべきかは父上もお分かりであろうに。
今定頼公の腹心、進藤山城守殿(進藤貞治)によって尼子との和睦交渉が進んでいるとのことだ。交渉の結果次第ではあるが、定頼公は大内に変わる新たな西国の旗頭として尼子を任じたいと仰せになった。
修理大夫(尼子詮久)がそのまま旗頭を務めるわけでは無いとはいえ、このままでは名目上毛利が尼子の風下に立つことは避けられない。
だが、それもやむを得ぬとは思う。定頼公の描いた絵図通りに事が運ぶならば、それは当然の成行だろう。
「左衛門尉。尼子と六角の和睦、何とか潰せぬか?」
「……御隠居様(毛利元就)。それはあまりにも……難しく……その……」
左衛門尉が言い淀みながら儂に恐る恐る視線を向ける。
「左衛門尉、気にするな。父上の戯言だ」
「はっ……いえ、しかし……」
儂の言葉に左衛門尉が今度は父上に恐る恐る視線を向ける。
思えば左衛門尉も可哀想な立場ではあるな。
「左衛門尉。お主はどちらの――」
「文句があるのならば、左衛門尉に言わず某に直接申されてはいかがですかな?」
左衛門尉が幾分かほっとしたような顔つきになり、父上は左衛門尉に向けていた顔を儂に向けた。
父上の『尼子憎し』にも困った物だ。
「今一度、申し上げます。此度の和議、某は落としどころとして妥当な物と考えます。これによって我が毛利を敵視していた尼子は消え失せ、毛利家の面目も立ちます。
いつまでも昔の恨みを引きずらず、今後は尼子とも手を取り合ってより良い関係を築くべきではありませんか?
それとも、今度は毛利が六角に反旗を翻しますか?」
もはや父上の答えは分かり切っているが、敢えて聞いた。
大内家も此度の案には賛意を示しているという。この和議を潰すことはもはや六角を……いや、西国全土を敵に回すに等しい。
父上の口から”うぬぬぬぬ”と悔しそうなうめき声が漏れる。まあ、父上の気持ちも分からなくはない。
ここまで尼子を滅ぼすために幾重にも策を張り巡らせて来たというのに、最後の最後で知恵比べに負けたのだからな。
「隠居じゃ!」
「はい」
「儂は隠居じゃ! 出雲へは太郎が出仕せい!」
「承知致しました」
「不愉快じゃ! 儂は寝る! お主らは出ていけ!」
「父上にはどうか頭を冷やし、大局を見て頂きますようお願い申し上げます」
「うるさい! 何度も言わせるな! 出ていけぇ!」
ゆっくりと頭を下げると、そのまま父上の居室を辞した。
左衛門尉が儂に遅れまいと慌てて座を立ってついてくる。
左衛門尉にはつくづくとばっちりを食わせてしまったな。
「あの……大丈夫でしょうか?」
「心配は要らぬ。今は頭に血が上っておられるが、冷静になれば我が毛利にとっても悪くない話だとお分かり頂けるはずだ」
そう。
此度の六角の仕置きにより、我が毛利は大内と並んで尼子を支える安芸国の長となった。
安芸の一国人であった毛利家が、守護と同格となるのだ。
決して悪い話ではない。
それにしても、尼子経久……。
死してなお、父上を悔しがらせる男か……。
・貞吉三年(1545年) 七月 出雲国意宇郡 神魂神社 立原幸綱
これが音に聞く天下の副将、進藤山城守(進藤貞治)か。
だが、進藤山城はあくまでも介添え。今回の使者は正面に座る女性だ。
「お会いできて光栄ですわ」
そう言ってゆったりと笑うのは六角定頼の側室の一人、お鈴の方。
まさか女人を使者に寄越すとは……しかもお鈴の方は元は我が尼子に仕える鉢屋衆の一人であったと聞く。
御屋形様(尼子詮久)も不機嫌な顔を隠そうとしない。
「お鈴殿……と言ったか。六角内府殿(六角定頼)は一体どういうつもりだ? 側室を使者にするとは……」
「あら、これは大本所様(六角定頼)の尼子に対するお心遣いですわ。
「何!?」
御屋形様が目を剥いてお鈴の方を睨みつける。
いとこ? 今、従兄妹と言ったか?
「改めて、名乗りましょう。私の本当の名は、音。塩冶興久の三女、音にございます」
……な!?
驚きの余り思わず大蔵殿(山中貞幸)を見る。此度の談合は大蔵殿が紀州入道殿(尼子国久)と共に斡旋した物だからだ。
大蔵殿はお鈴の方の言葉を肯定するようにゆっくりと頷いた。
「真のことにございます」
「どういうことだ? 何故塩冶の……叔父上の娘が、鉢屋衆など……」
「音姫様の母君は杵築大社(出雲大社)の巫女でございました。しかし塩冶が戦に敗れ、杵築大社も興国院殿(尼子経久)に降ったことで母君と音姫様は居場所を失いました。
音姫様の母君は彦四郎様(塩冶興久)の正式な側室では無かったため、備後に逃れた彦四郎様の元に向かうことも出来ず、さりとて出雲で堂々と生きてゆくことも出来ずに路頭に迷っていた所を保護したのが、かつての鉢屋衆の頭領・鉢屋弥之三郎だったのです」
信じられん……
「このことを知るのは、亡き興国院殿と某。それに紀伊入道殿(尼子国久)のみ。興国院殿はこのことを固く秘し、あくまでも鉢屋衆の一員として音姫様を育てるように弥之三郎に指図いたしました。
そして六角家と戦をするとなった時、興国院殿は音姫様を近江に派遣するよう弥之三郎に命じられたのです」
「何故、近江に……?」
「それは分かりませんが、六角との戦に敗れた時に備えてのことだったのだろうとは思います。興国院殿は音姫様が六角内府様の子を授かったと知った時には大層お喜びでございました。
『これで尼子の血は生き残った』と仰せになって……。
そして、興国院殿はお亡くなりになる直前に某を枕元にお呼びになり、万一六角と戦となった場合は音姫様を頼るようにと言い残されました」
大蔵殿はその遺言に従ったというわけか。
越後に行くと言って旅立った大蔵殿は、そのまま近江坂本に向かったのだな。お鈴の方……いや、音姫様の元へ向かったと考えるべきだ。
つまり、大蔵殿はこうなることを予見していたということになる。
「大蔵殿、一つだけお聞かせください。お手前はこの戦を当初から負けると見ておられたのですか?」
「その通りだ」
「では、何故戦を始める前にそう申されませなんだ。大蔵殿ほどのお方が強いてお留めすれば、御屋形様とて――」
「戦わねば、止まらなかったであろうよ。あの時、家中は六角許すまじという想念で満ち満ちていた。一戦もせずに降るとなれば、家中の不満も抑えきれなかった。
例え分かっていても、実際に戦って負ける必要があったのだ」
負ける必要があった……。確かにその通りかもしれん。
まだ直接に戦って負けたわけではないが、白鹿城を失って六角の軍勢は着実に出雲に迫っている。
大友も陶も敗れた今、結果は火を見るよりも明らかだ。
六角が備後から撤退する
「大蔵。貴様は儂を裏切ったのか?」
「亡き興国院殿の……お祖父様の御意思にございます」
「……」
御屋形様が悔しそうに俯く。
もはや、これまでか……。
「お話は済みましたかな?」
一座に沈黙が下りた所で進藤山城守の重苦しい声が響いた。
・貞吉三年(1545年) 八月 美作国真島郡 山根城 尼子誠久
「六角と和議だと?」
使者の言葉が理解できずに問い返すと、使者は恐れ入った体を取りながらはっきりと言った。
「ハッ! 御屋形様は既に六角と和睦し、責任を取って家督を譲ることを決められました」
家督を譲る?
一体誰に譲るというのだ。長男の又四郎は夭折し、次男の長童子(尼子義久)はまだ六歳の童子。
とても家督を継げる状態ではない。
「誰だ? 一体誰が尼子宗家を継ぐのだ?」
「六角定頼公の和子、正寿丸様を養子に迎えられます。正寿丸様の後見は京極長門守殿(京極高延)が務められるとの由」
六角……京極……
それでは、祖父尼子経久が必死になって勝ち取った尼子家を捨てるというのか。
京極が再び出雲守護として返り咲くことを許すというのか。
一戦もせずに降伏するとは……おのれ……
「あの、腰抜けがぁぁぁぁ!!!」
怒りに任せて手近にあった甕を叩き割った。
甕から水がこぼれ、周囲の者が慌てる。籠城において水は貴重だが、もはや必要もあるまい。
「話は分かった。戻って屋形に申すが良い。
『お主の腰抜けぶりにはつくづく愛想が尽き果てた。我が新宮党はこれより美作に陣取る六角弾正少弼(六角賢頼)と一戦仕るゆえ、新宮党のことは放念せよ』とな」
言い捨てると使者を捨て置いて外へと向かう。
厨で話をしたいというから何事かと思えば、そのようなふざけた理由であったとはな。
「馬曳けぇ! 鬱々とした籠城もこれまでだ! 討って出るぞ!」
後ろからは使者が慌てて押しとどめようとする声が聞こえるが、知ったことではない。
父上がお側に仕えながら、何たるザマだ。
かくなる上はこの尼子誠久、本物の武者の戦ぶりを見せてくれるわ!
「馬曳けぇ!」
・貞吉三年(1545年) 八月 出雲国意宇郡 月山富田城 六角定頼
色々と混乱もあった西国征伐だが、結局は落ち着くべき所へ落ち着いた。
尼子との和睦の条件として尼子詮久は隠居し、お鈴の子の正寿丸へ尼子の家督を譲らせた。
当初は尼子家中でも反対する者が多かったが、正寿丸が塩冶興久の孫であり、尼子経久の血を継ぐ男子であると知れ渡るにつれて反対の声はだんだんと収まって行った。
山中貞幸と尼子国久が尼子家中の説得に回ったのが大きかったな。
特に尼子国久は必死の面持ちだった。
国久の嫡男尼子誠久は六角との和睦を不服とし、少ない手勢を率いて賢頼の籠る勝山城へ特攻をかけた。
まあ、宇喜多直家が何重にも張り巡らせた防御策に阻まれ、城門にさえたどり着ける者は居なかったそうだが……。
その失点を挽回し、これ以上尼子家への心証を悪くしないようにと走り回ってくれた。
和睦交渉――しかも事実上の降伏交渉の最中にあって、誠久の仕儀は軽率と言う他ない。だが、和睦成立前のことでもあるし、状況的には形を変えた自害に等しい。こちらの被害が軽微なことも考え合わせ、それらは不問に付すこととした。
とはいえ、正寿丸も未だ四歳。西国を率いるどころではない。
そこで、京極高延を後見役として当面の西国の政務を任せた。京極高延の補佐には進藤賢盛と立原幸綱を付け、大内晴持と毛利隆元が各国衆との調整役を務める。
そして、京極高延を西国鎮守府長官代理として正式に任命した。正寿丸が元服した暁には『尼子頼久』を名乗り、西国鎮守府長官として任命することになるだろう。
また、西国鎮台侍大将には海北綱親を充て、各国の国衆から吸収した武闘派を今後改めて西国鎮台軍へと編成していく。
まだまだ予断は許さないが、この西国の仕置きが今後の天下静謐事業のモデルケースとなっていくはずだ。
ちなみに、海北綱親は今までの功と合わせて従四位下、右衛門督へと奏上することとした。今後は『金吾殿』とでも呼ばれることになるんだろう。
そして、大内義隆はこれを機に家督を養嗣子晴持に譲り、自身は評定衆として式目の制定に参加することになった。六角の配下という扱いではあるが、念願の上洛が叶うことになってどことなく嬉しそうだったな。
陶隆房は本拠地の若山城に落ち延びようとしていた所を山中で捕らえられた。
一時は大内を圧迫し、一万の軍勢を率いた侍大将だったが、捕まった時側に残っていたのは僅か十名に満たなかったという。
隆房の身柄は大寧寺に預けていたが、大内義隆が陶隆房の助命嘆願を行っていると知って密かに腹を切った。
裏切った主君に命を助けられるのが耐えられなかったのか、あるいはこれ以上義隆に迷惑を掛けたくないと思ったのかは分からない。
世話役の小僧が気付いた時には既に息絶えた後だった。辞世も残さずひっそりとした幕引きだったようだ。
大友の対策や南軍の再編成、それに今後の西国支配や伊予の仕置とまだまだやることは残っているが、畿内の大軍勢を動員しての西国征伐はこれで終了とする。
間もなく賢頼も富田城へ来るから、その後畿内まで共に凱旋する予定だった。
のだが……
「そうか。このまま出雲へ残るか」
「はい。大本所様には尼子の為にお心を砕いて頂き、深く感謝いたします」
目の前で鈴が深々と頭を下げる。
確かに今後西国の支配者となる正寿丸は出雲で過ごした方がいいのかもしれんが……。
「まだ西国が完全に安定したわけじゃない。尼子の守旧派が暴発し、お主と正寿丸を襲うことも無いとは言えんのだ」
「御心配なく。仮にそうなっても逃げ道はいくつもありますから」
そりゃぁそうだ。
今の鉢屋衆は尼子の忍びというよりは鈴の私兵に近い。鈴の為ならば尼子と敵対すらしかねん。それほどに鈴は鉢屋衆の希望になっている。
大内との戦で半壊した鉢屋衆もこれで息を吹き返すはずだ。
だから、俺の本心は鈴や正寿丸の身の心配というよりは……。
「では、本当にお世話になりました」
そう言って鈴が弾けるように笑うと、そのまま下がって行った。
……やっぱりちょっと惜しかったかなぁ。
「……振られてしまったなぁ」
「何とも意外な仰せ。側室など要らぬとあれほど申されていたでしょう」
俺の独り言に隣の進藤が茶々を入れる。
今回は別行動を余儀なくされたが、やはり俺の隣には進藤が居てくれた方が落ち着くな。
「まあ、そうなんだが……。いざ、俺の元を去るとなるとなぁ……」
「御入用ならば、新たに側室を迎えられればよろしい」
「いや、そういうこっちゃないんだ」
「いささか女々しゅうございますな。いい加減すっぱりと諦めなされ」
……まさか、こいつの手引きか?
進藤にとっても鈴と正寿丸は出雲に居た方が都合がいい。息子の賢盛に鈴と正寿丸の世話を押し付けてしまえるからな。
それにしても、鈴も冷たいよな。
仮にも肌を合わせた仲だと言うのに、別れる時だけあんなに笑って……。
あんなに屈託のない笑顔、寝所の中でも見た事なかったぞ。
「どうやら、本所様(六角賢頼)が間もなく到着されるようですな」
進藤に言われて周囲の音に耳を傾けると、誰かがこちらに向かって来る足音がする。
どうやら先触れが来たかな?
……まあ、帰るか。近江に。
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