阿波の暗雲

 

 ・貞吉二年(1544年) 三月  山城国 京  織田頼信



 町を歩いていると其処此処で食い物を売る屋台が並び、辻猿楽などを披露する者達を目当てに人の輪が出来ている。

 親父様(六角定頼)が将軍宣下を受けてから、京の町は鎮守府大将軍就任を祝う空気で満ち満ちている。

 麿が京に来る前に一度京は親父様によって焼き払われたと聞くが、今では六角を責め恨む声も少ない。

 足利の世を惜しむ声も一部では有るが、長く京の平和を維持してきたのは足利ではなく六角だと皆分かっているのだろう。


「繁華な物でおじゃるな」


 隣の中将様(近衛前久)が嘆息しながら普請場の方へ目をやった。

 あそこは確か、本能寺を再建しているのだったな。各地の門徒が宿泊できるようにと本堂だけでなく方丈も数宇備えた大きな構えだ。


「ええ。町全体が活気に溢れておじゃります。異論もおじゃりますが、麿は法華の民の帰洛を認めて良かったのではないかと思いますな」

「お主の親父様が決めてしまったからの。今を時めく六角内府殿にそう言われれば、表立って反抗できる者など居りはすまい」


 中将様がくっくっと可笑しそうに笑う。甘露寺大納言(甘露寺伊長)のことを言っておられるのか。

 甘露寺卿は山科卿と違って親父様とは距離を置いていた。武家の争いに巻き込まれまいとしての事だろうが、今回はそれが故に勅使を務めるという皮肉な結果になった。

 宣下の場では務めて平静を装っておられたが、恐らく腹の中では面白くないと思っておいでであったのだろうな。


「お主のことも面白からずと思う声が朝廷内にもあると聞くぞ。

 まあ、六角家の後ろ盾を得て主上の覚えも目出度く、侍従という要職を任されているのだ。替われるものならば替わりたいと思う者は少なくないであろうの」

「それを言うなら、麿よりも中将様でおじゃりましょう。名門近衛家の跡取りとして、齢十にして既に正三位権中納言、左近衛中将に任じられておられる」

「なに、麿は生まれの運一つよ。それに引き換え、お主はその身一つで栄華の道を駆け上がろうとしている。麿から見ても、妬けるというものよ」


 中将様の声が揶揄する声に変わる。

 実際、尾張の田舎侍の倅がこうして京で主上に可愛がっていただけるのも、運一つでしかないのだがな……。


「その上、お主には剣の天稟もある。以前はまだ互角であったと言えたが、今や剣ではお主に敵わぬ。同じ柳生に師事しておる身としてはいささか面白くないぞ」

「御戯れになられますな。剣などは所詮匹夫の勇。多勢の前では役に立ちますまい」

「ほほほ。敵を作らぬことが肝要、か。武家出身の身とも思えぬ言葉でおじゃるな。だが、お主の存在そのものが敵を作ることもあるぞ」


 中将様が周囲に軽く視線をす。つられて麿もそちらを見ると、町娘がこちらを見て何やらひそひそと話していた。


「またそのことでおじゃりますか。麿も別に好んでこのようなバサラな姿なりをしておるわけでは……」


 麿の小袖は肩口に一点大きな鷹をあしらった意匠で、近頃京では似たような小袖を求める者が多いらしい。


「分かっておるよ。お主のおふくろ様(六角花)から贈られてくるのでおじゃろう?」

「ええ。御台所様(六角志野)がその為に仕立てて下さっているとかで、無下にするわけにもいかず……」

「左様に謙遜せぬでも良かろう。お主の着こなしを『織田流』と称して小袖の着崩し方や帯の太さまで真似する者が居ると聞くぞ。おかげで保内衆の小袖屋は大繁盛だ」

「務めには役に立たぬ評判でおじゃりますよ」

「何、いざと言う時にはそういった諸人の評判が物を言う。廷臣達がお主を表立って悪しざまに言えぬのも、諸人を敵に回せぬという心が働くのでおじゃろうよ」


 諸人の人気か……。

 思えば、親父様が足利に代わって世を開けたのも、結局は諸人の人気の後押しを得たことが大きい。

 戦を京から遠ざけた功績は、誰しもが認める物だ。


「ここだけの話だが、父上は近頃朝廷のことを六角内府と山科右府(山科言継)に全て任せてしまいたいと仰せだそうな」

「太閤殿下(近衛稙家)が……さほどに楽しまれぬご様子ですか」

「うむ。越後のことが余程気にかかるらしい。悪いことに、越後では長尾平三(長尾景虎)の勢威が上がっているそうだ。若さに似合わぬ戦巧者である、とな」


 中将様が少し声を潜める。

 長尾の勢威が上がれば、早晩六角家と対決することは避けられぬ。左馬頭(足利義輝)との橋渡しをしたいと念じておられる太閤殿下にとっても気が気ではないのであろうな。


「それにしても、中将様はよく越後のことをそこまでご存知ですな」

「父上が様々に話を集めて来られるのでな。父上が麿に直接申されるわけでは無いが、家人の噂話ならば麿の耳にも聞こえてくる」


 何とも耳ざといことだ。

 麿など六角屋敷に起居しているというのに、六角家の内情など何一つ聞こえてこない。やはり日頃から家人の話に耳を傾けていると、こういう話も拾いやすいということか。


「そう言えば、大原次郎と申したか。お主の友だそうだな」

「ええ。幼少の時を共に過ごしました」


 しかしこのお方も突然話題が変わるな。

 万寿丸と会ったのは久しぶりだった。頼りない弟のように思っていたが、万寿丸もひとかどの武士としてたくましい体つきになっていた。

 兄に代わって尾張を任されることになったと喜んでいたな。もう少しゆっくりと語り合いたかったが、まあそれは次の機会の楽しみにしておこう。


「うらやましいものだ。麿は生まれた時から近衛の跡取りとして扱われ、あのような友を得る機会は無かった」

「次に万寿丸が上洛した折には、中将様にもご紹介致しとうおじゃります」

「うむ。次は三人で遠乗りにでも参ろう」

「遠乗り……でおじゃりますか」

「ほほほ。お主は剣は強いが、馬はからっきしじゃからの」

「馬は難しゅうおじゃります」

「ほっほっほ」


 中将様が愉快そうに笑う。

 馬術ではまだまだ中将様に置いて行かれる。中将様とて馬は始めたばかりなのだが、このお方は馬術の天稟があるのだろう。先に馬を始めていた麿をあっという間に追い抜いてしまった。

 遠乗りか……馬術の修練もしてゆかねばな。




 ・貞吉二年(1544年) 四月  阿波国板野郡 勝瑞城  細川晴元



「何故京へ兵を出そうとせぬ」


 もう何度目かになる言葉を再び弟(細川持隆)にぶつける。


「兄上、先ほどから申し上げている通り、今は時機を見計らっておるのです」


 弟の言葉も、既に同じことの繰り返しになっている。

 そもそも儂がこうして阿波に逃げ戻らざるを得なくなったのは讃岐守(細川持隆)がさっさと兵を出さぬからだということを分かっておるのか。

 分かっておらぬのだろうな。ええい、忌々しい。


 酒を一息にあおると、杯に次の酒が満たされる。

 ……小少将か。確かに美しい女子だ。

 弟はこの女との間に男児を設けている。儂との会見の場にも同席させるとは余程寵が深いと見えるな。

 まあ、美人の酌で飲むというのは悪くない。

 だが、それに溺れていては大事を為すことなど出来ぬ。


「酌はもう良い。この女を下がらせろ」


 儂が一声放つと、弟が目で合図して小少将を下がらせた。

 これでようやく突っ込んだ話ができるというものだ。


「兵を出すに時機もクソもあるまい。今六角の主力は播磨に集結していて堺の防備は薄い。今こそ再び畿内に阿波衆の武威を思い知らせる時ではないのか」

「堺には先ごろ角屋の水軍衆が入り、そのまま警備を担当することになったそうです。角屋と言えば東国にも聞こえた水軍の雄。安宅水軍と言えども、総出でかからねば堺を奪回することは叶いますまい」

「ならば尚の事、角屋とやらの態勢が整う前に急襲すべきでは無いのか」

「淡路島を留守にして、何となされます。六角の御曹司は既に播磨まで兵を進めておるのですぞ。淡路島を空にすれば、それこそ淡路島を六角に奪われることになりましょう」

「だからと言って、このまま手をこまねいていて何とする。淡路島の警備ならば阿波から人数を差し向ければ済むであろう。このままでは六角の勢威がこの阿波にまで伸びて来ることは必定だとは思わぬのか」


 弟が杯を空ける。

 小少将が居らぬことを忘れて、うっかりと中空に杯を突き出した。

 この一事を持ってしても、弟がいかにあの女に溺れているかが分かろうというものだ。

 やはりあの女は除かねばならぬな。


「……三好が、反対しております」

「三好? 元長の倅か」

「彦次郎(三好虎長)です。阿波広しと言えども、某が兵を預けられるのは彦次郎を置いて他に居りませぬ」


 ……ちっ。

 甘ったれたことを。そんなことで細川の栄華を取り戻せると思うのか。

 そもそも何故ここで元長の子を引き合いに出す。儂に対する当てつけのつもりか。

 ええい、面白くもない。


 また一口酒をあおる。

 しかし、実際問題阿波細川の主は弟の讃岐守だ。儂は京兆家の家督を継いだために阿波衆に直接下知を下すことは出来ん。

 何としても弟の首を縦に振らせねばならん。


「それに……」


 ん? まだ何かあるのか?


「中納言様(足利義維)は彦次郎に同調しておられます。折に触れては彦次郎の言を聞き入れ、思いとどまるようにと仰せです。

 正直、このような状態で再び兵を起こしても上手く行くものかどうか……」


 ふん。聞くだけで酒が不味くなる名だ。

 中納言めは儂が元長に一向宗をけしかけたことを未だ根に持ち、阿波に戻った時も『どの面下げて戻って来た』とまで言い放ちおった。

 足利のご血統か何か知らぬが、所詮細川の武威が無ければ何も出来なかった男ではないか。


 ええい、忌々しい。何もかもが忌々しい。

 本当ならば今頃儂は京で管領として権勢をほしいままにしていたはずだ。何が悲しくてこのような所でくすぶって居らねばならんのだ。

 それもこれも、六角が調子に乗っているせいだ。

 そもそも六角などは所詮管領にも就けぬ家柄ではないか。それが内大臣、鎮守府大将軍とは片腹痛いわ。


「つまり、中納言様と彦次郎さえ『うん』と言えば、お主も兵を出すにやぶさかでないということだな?」

「まこと、その二人が説得に応じるならば……。されど、某が何度説いても聞き入れなかった二人にござる。兄上には何か手があるとでも?」

「手と言うほどの事でもない。細川京兆家当主が直々に話せば、自ずから話は違ってこようということだ」

「……承知いたしました。兄上がそこまで仰せならば、会見の手筈を整えましょう」


 ふん。これで話が進むな。

 策などと大それた物では無いが、儂にも考えはあるのだ。


 足利のご血統ならば、何も中納言様だけにこだわる必要は無い。平島にはご嫡男の亀王丸様(足利義栄)がおわすし、三好の代わりなどそれこそいくらでも居る。

 両人が『うん』と言わぬのならば、首を挿げ替えてしまえば良い。

 半将軍殿(細川政元)のなさり様を思い返せば、それぐらいのことは分かるだろうに。


 まあ、弟はおっとりとして優しいところがある。非情になり切れぬ男だ。

 頭では分かっていても、いざとなればどこかでためらいが出るのだろう。

 儂が手を汚してやれば、弟の目も覚めるはず。


 阿波を一つにし、再び細川家が天下の権を握る。

 その為には、汚れ仕事の一つや二つは引き受けてやろう。



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