本願寺の蠢動

 

 ・天文十一年(1542年) 十一月  河内国茨田郡 枚方城  六角定頼



「意外なほど呆気なく枚方を棄てましたな」

「ああ。さすがは朝倉宗哲だ。例え勝ち戦の実績がある城でも守り切れぬと見れば未練は見せない。厄介な相手だ」

「左様ですな」


 蒲生の先陣が枚方城に迫る前に朝倉の主力は後方に引き上げた。

 恐らく江口砦と榎並城を防衛ラインに設定し、遊佐の援軍をもらいやすくしているのだろう。一見すると河内十七箇所を放棄するのは愚策に思えるが、こと今回に関しては悪くない判断だと思う。


 言うまでも無く、今回の六角の勝利条件は足利義晴を首領とした連合軍を撃破することだ。

 仮に朝倉が枚方城に踏みとどまって河内平野で決戦となったとすると、朝倉軍は撃破できても遊佐や足利の本陣は取り逃がす公算が大きい。

 その場合、俺は河内平野、枚方城、榎並城の戦いに続いて天王寺周辺で足利義晴と最終決戦ということになっただろう。連戦を強いられているようにも見えるが、こちらに急がねばならない理由が無い以上は朝倉・遊佐・足利を各個撃破する形勢と見ることも出来る。


 だが、朝倉は戦力を保持したまま撤退した。

 こうなれば、足利との決戦に少なくとも朝倉の軍勢が合流する。当然ながら遊佐もそこには全力を出して来るだろう。兵力の集中運用という観点から見れば、朝倉宗哲の取った選択は正しい。


 加えて、摂津欠郡は湿地帯も多く、要害の砦が乱立する地形だ。敵方の防衛拠点は密集し、反面六角の兵站は伸びる。それに、摂津欠郡周辺は本願寺派一向宗が盛んな土地でもある。最初から六角家に反感を持っている土地だ。


 枚方城に固執して孤立するよりはよほど戦いやすいだろうな。


 しっかし、てっきり遊佐は河内平野での決戦を期していると思っていたが、予想以上にあっけなく退いたものだ。

 それだけ朝倉への信頼が厚いということなのか、あるいは朝倉宗哲の独断か……。


「筑前守(三好頼長)も順調に勢力を回復しているな」

「ええ。頼もしくなられたものです」


 三好頼長は今度こそ摂津を領国化するために自身に背いた国人領主達を悉く追放する構えだ。芥川山城と茨木城を奪取し、茨木長隆は領地を棄てて逃亡。伊丹親興・池田信正はそれぞれの居城に逃げ帰ったようだが、兵はおろか兵糧すらもロクに集められない状況に陥っている。


 一合銭をばら撒いた効果が早速出て来たな。元々明銭の蓄えも豊富とは言えない摂津国人衆は、堺衆から融資を受ける形で軍事費を賄っていたそうだ。

 だが、大量の一合銭が一気に市場に供給されたことで明銭と米の取引が成立しづらくなっている。

 郷村が銭を求める第一の理由は禁制取得の為の矢銭用資金だからな。その禁制がただで貰った一合銭で事足りるとなれば、食糧としての米は置いておきたくなるのが人情だ。

 一合銭の交換規定によって明銭一文は米一合と等価となったが、郷村や商人がその取引に応じなければ銭を米に変えることは出来ない。おかげで摂津国人衆は現物としての米を手に入れづらくなっている。折角借り受けた銭もただの重い金属の塊になってしまった。


 焦った茨木長隆は近隣の郷村から強引に兵糧を徴収しようとしたそうだが、三好頼長が勝竜寺城に逃げていた時ならばともかく、三好軍が巻き返しを図っている状況でそんなことをすれば郷村がどんな反応をするかは火を見るよりも明らかだ。

 東摂津各地の郷村はこぞって三好軍を迎え入れ、茨木や伊丹・池田達は寄る辺を無くして逃げ出さざるを得なくなった。今や東摂津の地で三好頼長は凱旋将軍のような扱いを受けている。


 伊丹と池田は原田城を出城として猪名川の西を守り通す構えだが、それも保内衆が西摂津に進出すれば無力化する状況は変わっていない。未だ一合銭の浸透が充分でない西摂津では当面の兵糧は集まるだろうが、西摂津が陥落するのももはや時間の問題だ。


 篠原長政が討ち死にした痛手も残っているだろうに、頼長の行動力は衰えていない。

 進藤の言う通り、頼もしい婿殿になってくれたものだ。


「これで北から敵襲を受ける心配も少なくなった。河内平野の兵糧も当てにできなくなった今、遊佐の兵力は相当に絞られるはずだ。

 北軍の状況はどうだ?」

「筒井城を降して大和国内の鎮圧はほぼ完了したとのことですが、信貴山城を奪回するには今しばらく時が掛かると海北善右衛門より文が来ております」

「そうか……」


 信貴山城はかつての遊佐の本拠地だった葛井寺ふじいでら一帯を見下ろせる要害だからな。遊佐も防衛には本腰を入れているんだろう。

 枚方城が落ちたことで今度は飯盛山城が孤立した形勢になっている。決戦用の兵力も浮いているし、こちらは信貴山城の奪回と摂津の制圧を待ちつつ飯盛山城を包囲するか。


「藤十郎(蒲生定秀)を呼んでくれ。打ち合わせたいことがある」




 ・天文十一年(1542年) 十一月  摂津国欠郡 石山本願寺  下間光頼



「おのれ! 江州の田舎侍が調子に乗りおって!」


 お上人様が蹴った壷が派手に転がって柱に当たる。壷は破片をまき散らしながら見るも無残な姿に変わった。破片を踏みつければ足でも切ってしまいそうだが、人を呼べば益々激昂するかもしれん。後で片付けておかねばならんな。


「お鎮まり下され。こうなってはもはややむを得ますまい。我らの見込み違いでございました」

「うぬぬぬぬぬ」


 苛立ちのあまり爪を噛んでおられる。

 近頃のお上人様はよく爪を噛むようになった。以前は苛立った時に軽く噛む程度だったが、近頃ではそれが常態と化している。

 それほど今の事態に焦りを覚えているということなのだろう。


「六角の父もかつて足利義尚公、義稙公と戦ったと聞き及びます。公方様直々に征伐軍を起こせば畏まって頭を垂れると思ったのが甘かったのやもしれませんな」

「今更そのようなことを言ってどうなる! 今はこの窮地をどうやって乗り越えるかだ!」


 やれやれ。

 我が父頼慶は何度も六角と敵対する愚を説いていたというのに、一向に聞き分けようとせずに裏で反六角の者と繋ぎを取り続けたのは他ならぬお上人様であろう。

 今の窮地も言ってしまえば自業自得というもの。今更どうにもなるまい。


「ともあれ、今はどのように六角に詫びるかを考えるのが先決ではありませんか?」

「たわけ者! 六角に詫びを入れると言うことは守護不入の権を自ら手放すことではないか。堅田本福寺を見よ。長島願証寺を見よ。宗門の矜持も忘れ、六角の権威に尻尾を振っておる。

 御仏だけが持つ権能を奪い取り、自ら神仏に成り代わらんとする六角に膝を屈することなど出来るか!」


 しかし、六角は今飯盛山に兵を向けているが、飯盛山城が落ちれば次は榎並城、そして石山に向けて兵を進めるのは自明の理。

 内池殿の話によれば、河内守殿(遊佐長教)は六角を堺周辺で迎え撃つ腹積もりだという。石山が戦場になることは避けられぬ。


 ……いや、待てよ。飯盛山城か。


「お上人様。そう言えばかつて飯盛山城を攻める三好元長の背を討ったのは一向門徒でございましたな」

「うむ。思えばあれがケチのつきはじめだ。蓮淳めの口車に乗せられて武士の戦に関わってしまった。あれさえなければ今頃は……」

「今一度、門徒達に檄を飛ばされてはいかがですかな?」

「何?」


 もはや六角と和する道は閉ざされた。であれば、いっそのこと我ら門徒衆の力で六角を討ち取るしかない。毒を食らわば皿までよ。


「ふむ。今度は六角を門徒衆の力で討ち取れば、本願寺の存在感は嫌でも増すな。今後公方も河内守も教団の意向を無視することは出来なくなるか。

 ふむ。ふむ。悪くない、悪くないぞ」

「あ……あまり歩き回られては……」

「痛っ! 誰だ!こんな所に焼き物の破片をばら撒いたのは!」

「……」




 ・天文十一年(1542年) 十二月  尾張国春日井郡 清州城  六角義賢



「では、留守を頼むぞ。爺」

「ハッ! 存分にお働きを」


 池田の爺(池田高雄)が白くなった頭を下げる。

 爺も既に六十に近くなって今は政務のほとんどを織田与次郎(織田信康)に任せているが、やはり留守居役として清州の差配を任せられるのは爺を置いて他に居ない。

 いつまでも元気で居てもらいたいものだ。


「殿、ご武運をお祈りしております」

「うむ。そなたも体を厭えよ。大事の身であるからな」


 爺の隣に座る妻の国子が少し青い顔で頷く。

 国子に懐妊の兆しが見えたのは先月のことだ。今でもつわりで苦しそうにしていることが多いと聞く。

 女子は皆通る道だというが、このように青白い顔を見ると思わず心配になる。


「次の正月は河内で過ごすことになるだろう。いや、もしかすると子が産まれるまでに畿内から戻って来れぬかもしれん。体を冷やすなよ。それと、少しでも良いから何か精のつく食べ物を……」


 儂の言葉に国子がクスリと笑う。何か妙なことを言ったかな?


「承知しておりまする。池田殿や侍女たちも良く気を配ってくれます故、私のことはご心配為されますな。必ずや元気な和子を産みまする。

 それよりも今は上様(六角定頼)の覇業をお助けすることこそ大事。私のことにお心を煩わせられませぬように」

「う……うむ」


 女子とは強い生き物だな。こと子を産むということについては、我ら男に出来ることが無い。

 男が出来るのは戦い、勝つことのみ。


 ……父上も同じようなお気持ちであったのだろうか。

 幼き頃から父上は常に戦陣を渡り歩き、観音寺城に腰を落ち着ける暇とてなかった。それは今も変わらぬ。

 もしかすると父上は儂や万寿丸、それに母上やお側女達を守るためにこそ戦い続けて来られたのかもしれん。


 だが、儂もいつまでも守られているだけではいかぬ。

 国子の言う通り、これよりは少しでも父上のご負担を減らせるように働いて行かねばな。


「では、行って参る」

「ご武運をお祈りしております」


 身に纏った具足の感触にも随分と慣れた。

 だが、出陣前の不安と興奮が入り混じったこの高揚感だけはいつまで経っても慣れぬ。父上も同じなのだろうか……。



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