木の上に立って

 

 ・天文十年(1541年) 二月  近江国蒲生郡 観音寺城  六角定頼



「……という訳だ。山科卿と太閤殿下(近衛稙家)には既に話を通してある。公家としての立身が叶うかどうかは本人の才覚次第とのことだが、ともあれ山科卿からは『その気ならば六角家の子として預かり、公家に必要な振舞を教えよう』との文を頂いた。あとは吉法師の覚悟一つ」


 居室にお花と吉法師、それに志野の四人で向かい合っている。

 普段は何かと興味が移る吉法師も今は俺の話にじっと耳を傾けている。自分の将来のことだと朧気ながらに理解しているのだろう。


 対照的にお花は少し落ち着かない。やはり吉法師を手元から離すことに抵抗があるんだろうな。


「大変有難いお話と存じます。吉法師にそのような道をご用意頂いたことは感謝に堪えません。

 ですが……」


 ……やはりか。吉法師すらも見ずに下を向いている。


「まあ、どうしてもという訳ではない。このまま観音寺城で成長を待ち、四郎(義賢)や万寿丸の側衆として仕える道もある。だが、そうなればゆくゆくは織田弾正忠家の傍流となることは避けられんぞ。

 三郎五郎(織田信広)に明確な落ち度があるのならば別だが、今の三郎五郎は四郎の側近として立派に勤めている。これを廃することは考えられぬ」


 お花が無意識に小袖の裾を握る。


 ……平手の見抜いた通りという訳か。

 表面上は吉法師の処遇を何とかしようと必死になっているだけだが、内心では俺の寵を得てあわよくば織田家の嫡流の座を取り戻してやりたいという想いが心の片隅にあったのだろう。恐らくお花自身にも自覚は無かったのだろうがな。


 だが、それは御家騒動の道だ。織田家の為にも、お花の為にも、何より吉法師の為にも一番避けるべき道だ。


 だから敢えてこの場で話した。将来に渡って吉法師を織田家の嫡流に据えることはしないと宣言した。

 女の我がままが可愛いのは話が奥で収まっている間だけのこと。それが表に影響力を持ち始めれば、途端に生臭い権力闘争へと繋がる。


 だからこそ進藤はお花のことを織田家に一切知らせなかった。知らせれば織田家が公式に俺に詫びを入れる事態にまで発展する。ようやく三河の経営に着手し始めた義賢の尾張支配にも動揺を生んでしまう。尾張には織田弾正忠家が俺の不興を買ったと小躍りしそうな勢力もまだ残っているしな。


 だが、お花のことは観音寺城限りの笑い話として処理したことが結果としてお花の暴走を助長する原因にもなったことは俺たちも反省しなければならん。今度こそ、無用な争いの種を刈り取らなければならん。


 それに、男は結局自分の道は自分で切り開くものだ。

 義賢も三好頼長も最後は自分自身の力で今の地位を掴み取った。俺はほんの少し援助を与えたに過ぎない。

 次は吉法師や万寿丸の番だというだけの話だ。


「吉法師は、私の宝でございます。このような幼子の身で京へ参らせるなどは――」

「いい加減になさい」


 尚も何か言い募ろうとしたお花の言葉を遮って志野がピシャリとした声が響く。


 この声は知ってる。志野が本気で怒った時の声だ。

 顔は笑ってるんだが、後ろに『ゴゴゴゴ』って文字が見えそうな迫力があるんだよな……。


 泣き出しそうだったお花も途端に背を伸ばした。どうやら志野の変化を敏感に察したようだ。


「貴女がいつまで経ってもそんなだから、御屋形様は今回の遊学の件を整えて下さったのです」


 ……まあ、実際はほとんど志野が仕切ってたんだけどね。俺は志野に言われるままに近衛や山科に文を書いただけだし。

 志野がここまで吉法師の事に心を配っているとは正直意外だった。


「……私がいけないのでしょうか?」

「ええ、貴女は吉法師殿の過去ばかり見ています。それはやがて吉法師殿の重荷となりますよ。

 吉法師殿の健やかな成長を願うのならば、今は黙って見送って差し上げるべきです」


 お花の視線が初めて吉法師に向く。

 この話を始めてからお花は一度も吉法師を見なかったが、ようやくお花も吉法師を中心に考える頭になったということかな。


「……私も、四郎を尾張へ送り出す時には苦しい思いをしました」

「御裏方様も?」

「ええ……。あの子は幼い頃から体が弱く、何かあればすぐに熱を出す子でした。吉法師殿のように城内を駆けまわって皆を困らせるということは無い子でした。

 弓の鍛錬を始めてから少しは体も強くなりましたが、慣れない尾張の地でいつか病に倒れるのではないかと今も気が気ではありません」


 そうだったのか。

 俺は義賢が長命であったことを知っていたからさほど心配はしていなかったが、志野からすればそういう想いがあったんだな。

 母は母として子を心配するのは当然と言えば当然か。


「ですが、それはあの子の為にならないと思い定め、笑って送り出しました。

 子は……特に男子おのこは、いずれ自分自身で世に立ち向かわねばなりません。母がいつまでも縋っては、子の行く道の邪魔となりましょう」


 お花が隣の吉法師を抱き寄せる。やはりまだ心の整理はつかないか。


 しっかし、今回俺の影が薄いなぁ……。




 ・天文十年(1541年) 二月  近江国蒲生郡 観音寺城  六角花



 御裏方様の言葉が心に染みる。

 私は吉法師の家督を奪ってしまったことをずっと悔やんで来た。確かに、過去に囚われていたのかもしれない。


 抱き寄せた吉法師の体は暖かい。


 この子はまだ何も知らないうちに私の迂闊な行動によって将来を失った。私がこの子の将来を潰した。

 だからこそ、私が何とかしなければと今まで思い続けて来た。でも、この子は恨み言を私に言ったことは一度も無い。今日は何をして遊んだとか、珍しい虫を見つけたとか、毎日楽しそうな話ばかり聞かせてくれた。

 それが益々哀れに思えて、何としてもこの子の将来を確かな物にしたいと焦るばかりだった。


 そんな私を見兼ねて御屋形様も御裏方様もこのようなお話を整えて下さったんでしょう。

 御屋形様や御裏方様が吉法師の為に動かなければならない理由なんて無い。御屋形様と御裏方様は吉法師を我が子同様に考えて下さっている。


 ……最初からお二人にお縋りすれば良かったんだ。最初から御屋形様は『悪いようにはしない』と言って下さっていた。御裏方様も万寿丸様と何ら差別することなく、吉法師を六角家の御子同様に可愛がって下さっていた。私はお二人を信じて頼って来たつもりだったけど、心のどこかで『自分で何とかしなければ』と思い詰めてしまったのかなぁ。


 涙が溢れて来る。

 私は、なんて愚かだったのだろう。


「吉法師。愚かな母を許して下さい」


 吉法師がポカンとした顔で私を仰ぎ見る。これ以上この子の将来を私の我がままで潰すようなことをしてはいけない。


「母上、泣いているのですか?どこか痛いのですか?」

「いいえ。どこも痛くはありませんよ」

「でも、涙が……」

「これは……これは、母の後悔が目からにじみ出ているのです」


 吉法師は不思議な顔をするだけ。貴方には母の涙の理由はまだ分からないでしょう。

 でも、これ以上私が貴方の行く道の邪魔になってはいけない。


「京へ行きますか?」

「はい! 行ってみたいと思います」

「そう……」


 吉法師の体を離し、改めて御屋形様と御裏方様に頭を下げる。お二人には感謝してもしきれない。


「吉法師の事、よろしくお願いいたします」

「案ずるな。六角家の子として、俺に出来ることはしよう」

「吉法師殿が京へ行かれたら、貴女からも文やこの子の好きな物など送って差し上げなさいな。きっとそれがこの子の励みになることでしょう」


 私がこれ以上吉法師の邪魔になってはいけない。

 でも、願わくば少しだけ、時々は元気な顔を見せてくれると嬉しいな。




 ・天文十年(1541年) 三月  和泉国和泉郡 岸和田城  内池甚太郎



「待たせたな」


 河内守様(遊佐長教)が鎧下地の姿で上座に現れた。

 随分と機嫌がいいな。さてはようやく紀州攻めの目途が付いたか。


「お忙しそうですな」

「うむ。衰えたりと言えどもさすがは畠山家よ。公方様から追討の令を頂いてもなお、和泉南部や紀州の国人の中には畠山家に忠誠を誓うと言う者が残っている。中々に厄介だ」

「ですが、それもどうやら目途が付きましたか」

「目ざといな。紀州雑賀荘と十ヶ郷の者らがこちらに味方すると申し送って参った。これでようやく尾張守(畠山稙長)の命運も尽きるだろう。

 雑賀衆の説得には甚太郎にも随分と骨を折ってもらった。礼を言うぞ」

「手前の働きなど何程のこともありませぬ」


 ……そう。何程のことも無い。


 私は雑賀衆に少し耳打ちしただけだ。

沼島ぬしま水軍(淡路島水軍)が熊野の荷扱いを欲しがっている』とな。


 雑賀荘の者達は熊野からの荷を堺に運ぶことを大きな生業としている。我ら納屋衆(倉庫業者)からの請け仕事が無くなれば、彼らは戦どころでは無くなる。

 そして、堺の代官は河内守様だ。我らも河内守様の申されることならば無下には出来ないと言い添えただけのこと。


 実に簡単な仕事だ。簡単で工夫が足りぬ。ただ相手を脅しただけの下策だ。

 お頭(伴庄衛門)はお互いの利を説いた。お互いに協力しあうことでさらなる利を生む仕組みを話し合った。

 私はまだまだお頭の仕事ぶりには及ばぬ。だが、それでも今の私に出来ることならば何でもやるさ。


「ところで今日はいかがした?」

「近頃、京からこのような物が流れて参りました」


 懐から銀色に輝く銭を取り出して河内守様へと手渡すと、怪訝な顔をしてしげしげと眺めておられる。


「白銀の銭とは見慣れん銭だな。それに、これには『一合』という極印が彫られているが……」

「六角領で新たに鋳造された銭だそうで。恐らく銀で作られています」

「銀の銭か。ふむ……六角と尼子が急速に接近した理由がこれか」

「恐らくは」


 我らとしても六角が尼子と関係を改善したことは不思議だった。つい二年前まではお互いを敵として畿内で大戦をしていたと言うのに、何故わざわざ朝廷を動かしてまで尼子と大内の戦を和睦させたのか。普通に考えれば、この機に乗じて東から尼子を圧迫するほうが上策だろうにな。

 だが、この『銀の銭』を知った時に謎が解けた。


「手前がまだ近江に居りました時、六角領も他国の例に漏れず銭の不足には悩まされておりました。銭は明から取り寄せておりますが、鐚銭や日ノ本での私鋳も多く、手前どもも受け取った銭を検分する時は特に気を使います」

「そこで、石見の銀を使って独自に銭を作ったという訳か」

「左様にございます」


 私が近江に居た頃から六角家は銭不足に悩まされていた。手形証文などで代用して凌いでいたが、とうとう自ら新しい銭を作り始めたのだろう。

 流石は六角様の先見性と言いたい所だが、それが六角家の弱点にもなる。


 石見の銀は明や朝鮮からの交易船が最も欲しがる物の一つだ。堺に来航した朝鮮の交易船もしばしば『石見の銅鉱石』は無いかと尋ねて来る。それは大内家の博多においても同様だろう。

 つまり……。


「ふっふっふ。甚太郎。となれば、今まで六角と蜜月であった大内は面白くあるまいな。銭は思うように六角領に売れず、さりとて石見の銀が全て六角に流れれば明との交易にも支障が生まれる。六角の要請に応じて大友と血で血を洗う抗争をしたと言うのに、大内だけが丸損だ」

「いかにも。それゆえ、手前どもも博多に堺の太刀を積み出すように致しました。太刀は銅鉱石に次いで人気があります」

「良くぞ知らせてくれた。ついに六角が隙を見せおったわ。すぐに大内に使者を出す」


 河内守様も銭勘定の早いお方だな。

 だが……。


「迂闊に動けば六角様に気取られるのではありませんか?」

「心配するな。公方様への献上品として明の磁器を求めたいと使者を遣わす。こちらから大内に贈る礼物を見繕ってくれ」

「承知いたしました」


 無用な心配であったな。表向きは明の文物を求めると称し、裏で誼を通じるか。

 このお方も大したタヌキではないか。

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