第二次桶狭間の戦い(6) 岡崎崩れ
・天文九年(1540年) 十月 三河国額田郡 岡崎城 徳川清康
「蓮淳殿をお連れしました」
「通せ」
具足の音と共に袈裟姿の蓮淳が広間に通される。招くというよりは、引き出された罪人のような恰好だな。
平右衛門(大久保忠員)に脇を抱えられて引きずられるように広間に入って来ると、儂の前に突き出されてつんのめって手を突いた。
くっくっく、平右衛門め。何とも
「こ、このような乱暴狼藉がまかり通ると……。わ、我が本證寺は守護不入の……」
「黙れ」
儂の一喝で蓮淳が恐れ慄いて口をつむぐ。
今やお主の盾となってくれる安芸守はこの場に居らぬわ。周囲を見回した蓮淳は益々不安そうに青ざめている。孤立無援であることに気付いたようだな。
「さて、老僧殿。この度岡崎城へお招きしたのは他でもない。御坊に一つ頼みがあってのことだ」
「頼み……?」
「なに、簡単なことだ。門徒たちに号令をかけてくれれば良い。『六角を討て』と」
瞬間、蓮淳が顔を硬直させて目を大きく見開く。こうして呼ばれた用件を察していなかったわけではあるまいにな……。
今回は三河の門徒や郷村の民を総動員して六角軍の兵糧を奪い取る。都合よく今年の食い扶持が不安になっている所でもあるしな。数においても戦力においても二年前の比では無いぞ。四方八方から兵站を襲われ、斬っても斬っても次々に襲い来る民草を相手にしながら、果たしてまともに岡崎城を攻めることが出来るか?
「そ、それだけは何卒ご勘弁を。六角様には我ら三河の門徒に食い扶持を与えて頂いた恩がございます。何卒、何卒……」
「ならん。三河が生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ。ここは本證寺にも協力してもらわねばならん」
「何卒、何卒……」
床に額を擦り付けて蓮淳が憐れみを乞う。中々いい気分だが、浸っている場合では無いな。
ゆっくりと立ち上がると蓮淳の前まで行ってしゃがみ込んだ。相変わらず蓮淳は床に額を擦り付けている。これでは目を見て話すことも出来ん。
「なあ、蓮淳」
「何卒、何卒……」
「儂を見ろ」
胸倉を掴み上げて蓮淳の顔をこちらに向ける。フン。泣いておるのか。
「なあ、こう考えればどうだ? 六角からの施しを受けるよりも、六角から兵糧を差し出させれば良い。その方がより確実に食い物が手に入ると思わんか?
六角からの施しなど、六角の気が変わればたちまちに打ち止めとなる。そうなってから慌てても遅いのだぞ?」
ひたと蓮淳の目を見据える。怯えた色の中に微かに意志の光が灯っている。
どうやらやる気になったか?
「わ、我ら門徒衆は金輪際武士の戦に関わりませぬ。それが六角様との約定にございます。その約定故に本證寺は援助を受けることが出来たのです。
武士の戦は武士の間でご解決頂きたい。どうか、我ら門徒をこれ以上戦に巻き込まないで頂きたい」
……フン。どいつもこいつも六角に毒されおって!
「太刀を持て!」
太刀持ちから村正の太刀を受け取って抜き放つ。周囲が騒然となったが構うものか。むしろ好都合よ。
「兄上! それ以上はなりませんぞ! 今蓮淳殿を斬れば門徒衆は徳川家にそっぽを向きまする! 家中にも一向門徒が大勢居ることをお忘れか!」
「与十郎(松平信孝)、黙っていろ。この三河で儂の命に逆らう者がどうなるか、思い知らせてやらねばならんのだ」
余計な口を挟むな。
”ひっひっ”と声を立てて蓮淳が後ずさる。腰が抜け、顔が恐怖に歪んでおるな。
あと一息だ。
「殿!」
突然平右衛門の悲鳴のような声が響いた。一体何をそんなに……。
ぐっ……。
「大蔵(阿部定吉)……。貴様……」
こ、これは……儂の胸から突き出ているのは、刃……か?
体が熱い。いや、冷たい? 分からぬ。息が……できぬ。
「兄上、もはや徳川はこれまでです。我ら三河衆は兄上の首を持って六角家へ降伏致します」
「よ、よじゅ……きさ……」
「某だけではござらん。多くの者がこれ以上兄上について行くことは出来ぬと申しております。これは三河衆の総意でござる」
愚か者共が。
一旦食の豊かな六角の風下に立てば、以後三河は二度と中央の意向に逆らえなくなるのが分からぬのか。
何の為に高祖父和泉入道(松平信光)が一色から独立したと思っている。何の為に祖父道閲(松平長親)が伊勢新九郎(北条早雲)を破って三河の独立を勝ち取ったと思っている。
全ては三河衆が自らの足で立つ為ではないか。
三河衆は決して退いてはならぬ。誰にも媚びてはならぬ。その為には過去を省みてはならぬ。ひとたび中央におもねれば、先祖代々築き上げて来た三河の独立が無意味な物になってしまう。
我ら三河衆は自らの力のみを頼りとせねばならんのだ。
「へいえ……も……」
声が出せぬ。
平右衛門。次郎三郎(徳川広忠)を連れて逃げよ。次郎三郎に三河の独立を託せ。
「じろ……」
目の前が暗くなる。体から力が抜ける。
儂は、まだ……。
・天文九年(1540年) 十月 三河国碧海群 安祥城 六角義賢
「若殿!」
「左兵衛大夫(蒲生定秀)か。そんなに慌ててどうした?」
陣幕を上げて入って来た左兵衛大夫が怖い顔つきで儂の側に寄って来る。四郎兵衛(多羅尾光俊)も一緒か。何か起こったな……。
安祥城も攻略し、明日はいよいよ岡崎へ向けて進軍するという時に。
「御人払いをお願い申す」
「人払い? それほどの大事か?」
「ハッ!」
訳が分からぬまま近習を下がらせると、左兵衛大夫と四郎兵衛だけが側に残った。
「して、何が起きた?」
「三木城の松平与十郎より、これが……」
左兵衛が一通の文を差し出す。松平与十郎と言えば三河守(徳川清康)の弟。さては内応でも申し出て来たか?
どれ……。
「な、なんと。三河守が弟に討たれたと?」
「ハッ! 岡崎城内で仕物に掛けたそうにございます。与十郎からは三河守の首を持って降伏の証としたいと……」
まさかこのような成り行きになるとは……。
「いかが為されますか?」
「……明日の出陣は取りやめだ。儂はこれから急ぎ父上の元へ参る。二人は儂の供を頼む」
「ハッ!」
徳川清康か……。
戦場にあっては鬼神の如き男であったが、家中の心が離れれば例え戦が強くともこのような末路を辿る。
返す返すも池田の爺の申したことは真理であったな。戦の強弱は将たる者の器量に非ず、か。
・天文九年(1540年) 十一月 三河国額田郡 岡崎城 六角定頼
「面を上げよ」
俺の声に反応して下座の面々が遠慮がちに顔を上げた。徳川旧臣達の視線が一斉に俺に向く。対して上座側には六角側の重臣層が居並び、その周囲を具足姿の近習がガチガチに固めている。岡崎城の武装解除は済んでいるとはいえ、油断はできないからな。
「近江宰相様には我らの願いをお聞き届けいただき、感謝の言葉もございません」
「あたら命を散らせるのは俺としても本意ではない。降りたいと言う者を無下にはせぬ」
徳川旧臣を代表して松平信孝が一礼すると、廊下から式台に乗せられた首が運ばれてくる。
洗い清められた徳川清康の首だ。
首実検も慣れてきたとはいえ、やっぱり人の生首なんざ見てて気持ちのいいモンじゃないな。と言っても本物の清康の首かどうかは確認せねばならん。この降伏自体が謀略で、実は清康が生きていて浜松に逃れているという可能性も無きにしもあらずだ。
この中で清康の顔をまじまじと見たことがあるのは二年前に和平交渉に当たった進藤だけだったな。
「三河守に相違ないな?」
「ハッ! 確かに徳川三河守清康の首級にございます」
「そうか……」
清康がまさかこのような最期を迎えるとはな。あれほどの猛威を振るった男にしてはあっけない最期というべきか……。
考えてみれば、お前も俺の被害者なのかもしれない。
俺が六角定頼としての人生を歩んでいれば、俺が歴史を動かさなければ、お前は三河を統一した英雄として名を残すはずだった。だが、守山崩れを生き延びてしまったが為に、お前は民を省みずに戦と重税を強いた暴君として、家臣に裏切られた暗君として歴史に名を残すことになってしまった。
だが、許せとは言わんぞ。
お前の思想は中世の思想だ。自らの力ですべてを解決しようとする思想だ。それは百年に渡る戦国時代を作り出した元凶そのものだ。今の子供らやこれから産まれて来る子供たちの未来を血に染めぬために、俺は全力で
これからは自らの力では無く法に依って全てを解決しなければならない。法を全ての上位に置かなければならない。武力とは、法を守り、法に従わない者を討つために行使する物とならなければならない。
きっと、俺とお前は最後まで相容れない存在だったんだろうな。
……俺は徳川清康という男を生涯忘れん。それがせめてもの手向けだ。
「手厚く葬ってやれ」
「ハッ!」
徳川旧臣達の顔に不安そうな、安堵したような、微妙な色が浮かぶ。三河の一豪族に過ぎなかった松平家を東海一の大勢力に飛躍させたのは間違いなく清康の功績だ。共に戦場を駆けた者達にとっては、清康は頼もしい大将だっただろう。
だが、この場に居並ぶ者達はその清康を裏切った者達でもある。俺が清康に同情的に振舞えば、反面で自分たちを冷遇するのではと不安に揺れる気持ちもあるんだろう。
「それと、阿部大蔵や蓮淳達もな。三河守の行いは決して褒められたことではないが、然りとて死者に鞭打つような真似をしてはならん。よいな」
今度こそ徳川旧臣達に安堵の色が浮かぶ。
死んだ者は手厚く葬るのが六角家の作法だと理解した顔だ。
しかし、蓮淳には気の毒なことになったな。
清康を討ち取った後、松平信孝に従う者とあくまでも清康の志を継ごうとする者で岡崎城内は同士討ちの様相を呈したそうだ。その中で降伏派の阿部定吉や松平康孝などが討ち死にし、主戦派の大久保忠員や榊原長政は徳川広忠と共に浜松城へと逃れた。広間が斬り合いの場となったことで、その場に居合わせた蓮淳も巻き添えを食ってしまった。
本願寺時代はともかく、三河に来てからの蓮淳は間違いなく人々の苦しみを救おうと行動していた。三河門徒にとっては御仏の化身と映っていただろう。過去の経緯はあれども、三河を治めるには蓮淳は手厚く遇した方がいい。
「予め申し伝えてあったように、三河衆を代表して与十郎には観音寺城に出仕してもらう。今の領地は召し上げ、代わりに六角家から扶持を遣わすこととする。良いな」
「ハッ!」
降伏の条件として、三河で大領を持つ者は領地を没収して六角家から同程度の俸禄を出すという形にした。今までと収入は変わらないが、自領の兵を持つことは出来なくする。だが、その代わりに松平信孝は三河の利益を代表して六角家の政治に参加させる。そうすることで三河衆は信孝を頼りとするようになるだろう。
蓮淳を失った本證寺へは長島願証寺の実淳を派遣することで納得させた。実淳は蓮淳の長男だが、今は堅田本福寺派の住職として民に寄り添う姿勢を見せている。三河一向宗が本福寺派へと改宗すれば、六角家の支配は自然と三河衆に受け入れられていくだろう。
さて、まずは新たに接収した領地と民衆をどう生かしていくかを考えねばならん。そろそろ浅見貞則や伴庄衛門達も三河の各地の視察を終えて戻って来るだろう。
農と商の両面から三河の生活を変えてゆこうか。
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