第二次桶狭間の戦い(5) 敗走

 

 ・天文九年(1540年) 十月  尾張国愛知郡 桶狭間  蒲生定秀



 この大久保新八郎(大久保忠俊)とやら、なかなかやる。膂力も十分、それに槍捌きも早く次々に槍先が飛んでくる。油断していると致命傷を負いかねんな。


 だが、一撃が軽い。朝倉軍の圧力はもっと激しかった。尼子の軍勢はもっと隙が無かった。何より、我が父蒲生高郷の槍は受け止めきれぬほどに重かった。

 それらに比べれば大久保の槍先は十分に受け流せる。相手の動きをよく見て対処すれば敵わぬ相手ではない。


「くそっ!」


 横からの薙ぎ払いを受け止めたところでようやく大久保の手が止まった。こちらからも反撃させてもらうぞ。


「せいっ」

「ぐっ! おのれ」


 ほう。腹を狙って突いたが、すんでのところで受け流したか。だが、二の腕に傷を負わせた。


「どうした! 自慢の槍捌きはこんなものか!」

「くっ! まだまだぁ!」


 再び大久保の槍の回転が上がる。だがさっきよりも攻め手が雑になっているぞ。そんなものでは儂を討つことは出来ん!

 大久保の攻めをいなしつつ必殺の隙を狙っていると、突然前方から大きな喚声が上がった。

 この先は鳴海城。ということは御屋形様のご本陣に動きがあったか。それにこの太鼓と法螺貝の調子は……追撃。

 この戦、我らの勝ちだと御屋形様が確信されたようだ。


 “徳川の本陣が崩れたぞ!”

 “追撃だ! 徳川軍を追撃せよ!”


 徐々に大きくなっていく声に徳川軍の兵にも動揺が広がる。中には槍を捨てて一目散に逃げようとする者も出始めている。大久保新八郎が耐えかねて鳴海城の方角に顔を向けた。


 隙、ありだ。


「ハッ!」

「ぐはっ! ……み、みごと……」


 手ごたえ十分。赤樫の槍に胸を貫かれ、大久保が血を吐きながら馬の背に倒れ込む。筋は悪くなかったが、厳しい合戦を戦い抜いた経験が足りなかったようだな。

 槍を引き抜くと新八郎の体がぐらりと揺れて馬の背から転がり落ちた。周囲は一瞬水を打ったように静かになる。


「敵将大久保新八郎、蒲生左兵衛大夫が討ち取った!」


 瞬間、我が軍から“おおー!”という歓声が響き、反対に徳川軍の兵は士気を失って逃げ出し始めた。

 北に視線を移すと、鳴海城から二村山の方角へと駆けていく集団が目に入る。あれが崩壊した徳川の本陣だな。


「我らもすぐさま追撃に移るぞ! 逃げる徳川軍の背を討て!」




 ・天文九年(1540年) 十月  尾張国愛知郡 桶狭間  大久保忠次



 ボキリという音がして儂の薙刀が真っ二つに折れる。オニグルミの心材を削りだしてこしらえた柄をへし折るとは、一体どういう馬鹿力だ。


「平右衛門(大久保忠員)! 撤退だ!」

「しかし、ここで敵に背を見せるわけには……」


 柴田の応援に駆け付けた森三左(森可成)もなかなかの者だ。平右衛門が手こずっている。

 柴田を釘付けにして六角本陣への後詰に回れぬようにするのが我らの役目だったが、殿のご本陣が崩れた今となっては逆に我らが柴田と森に釘付けにされている状態だ。このままではいかん!


「ここは儂に任せよ! お主は先に撤退しろ!」

「し、しかし……」

「四の五の抜かすな! 今すぐに殿のお側に参れ! 急げ!」

「は、はは!」


「逃がすか!」


 平右衛門を追おうとする森に向かって折れた柄を投げつける。馬の脚が一瞬止まった隙を突いて平右衛門が首尾よく戦線を離脱した。

 これで我ら兄弟が揃って足止めされる愚は避けられたか。

 折れた薙刀に代わって太刀を引き抜く。こんな得物で充分に戦えるとは思わんがな……。


「二対一で我らに勝てると思っているのか!」

「ふふふ。もはや儂はここまでよ。これよりは殿しんがりとしてお主らの相手を仕る」


 兄上、平右衛門。後は頼んだぞ。必ずや殿を岡崎へ……。


「改めて名乗ろう! 徳川家臣、大久保左衛門次郎忠次、参る!」




 ・天文九年(1540年) 十月  尾張国愛知郡 二村山  六角定頼



 間もなく夕陽が沈む。

 激戦だったが、何とか徳川を力で押し返すことが出来たか。しかし、清康を逃がしたのは痛いな。追撃の軍勢よりも早く岡崎へ引き上げやがった。戦術家としても一流だが、逃げ足も一流か。


 取りあえず追撃は切り上げて二村山に本陣を移動させ、各軍の状況を整理する。

 本陣の中では進藤を始め各軍の主だった将が集合した。今回の戦でこうやって全員で顔を合わせるのは初めてになるかな。


 やはり正面で戦線を支え続けた尾張軍の被害が大きい。一番組・三番組の組頭は討ち死。二番組も四分の一ほどの兵を喪った。四番組・五番組・六番組の三つはまだ軍勢として成り立っているが、単純に言って戦力が半減した格好だ。


 だが、尾張軍が粘り強く戦線を維持してくれたから徳川を押し返すことが出来た。そうでなければ本陣に敵が一気に押し寄せ、善照寺砦も危うかったかもしれん。義賢がいかに兵の訓練に心を砕いていたかが窺える。


「お待たせいたしました」


 その義賢が陣幕を上げて本陣に入って来た。見ただけで分かるくらいに疲れ果てている。

 無理もないな。早朝から声を涸らして軍勢を動かし、一番組が壊滅した後は自ら弓を取って前線を支えたんだ。


「四郎。ご苦労だったな」

「いえ、某の力不足にて多くの者を喪いました」

「顔を上げろ。尾張軍は良く働いた。こうして徳川を押し返せたのも尾張軍の働きがあったればこそだ」

「……ハッ!」


 蒲生定秀や海北綱親も俺の言葉に頷く。

 本来は蒲生の南軍が潰れ役になるはずだった。尾張軍のおかげで南軍はほぼ無傷で岡崎攻めに取りかかれる。これは大きい。


 それに北軍も……。


「そういえば、北軍の兵は生きておるか?」

「なんのあれしき、常日頃の走り込みにて鍛え上げておりますれば」


 海北が胸を張る。

 北軍の兵はその多くが沓掛城にたどり着いた瞬間崩れ落ちるように眠り始めたそうだ。

 まあ、無理もない。まさかここまで走って来るとはなぁ……。

 北から鬼の軍勢が来たと兵が騒ぐから何事かと思えば、北軍が息も絶え絶えに太刀を掲げて走って来ていた。それを見た徳川軍は算を乱して逃げたそうだ。


 まあ、そりゃあ髪を振り乱して目を血走らせながら刀を振り回す集団を見れば、キ〇ガイの団体にしか見えなかっただろう。

 一時間も走ってそのまま合戦だから、酷い奴はゲロ吐きながら刀を振り回してたらしい。何というか……。


「まあ、ここで無理をさせることは無い。北軍の兵はしっかり休ませておけ」

「ハッ!」


「改めて、今日は皆ご苦労だった。徳川は前線を引き上げ、本陣は岡崎へ戻ったと報せがあった。

 だが、今回は撃退して終わりではない。徳川の本拠地である岡崎を攻め落とす」


 途端に皆の顔に気合が籠る。いつもなら前線を整備して終わりにするところだが、今回は徳川にキッチリ止めを刺しておく良い機会だ。

 三河という地盤を失えば、徳川家は崩壊する。遊佐は紀州攻略に手一杯だし、細川晴元を擁する波多野は三好頼長と朽木稙綱が対応できる。今までは畿内の情勢に振り回されて東海を放置していたが、今回は東海にも六角の足掛かりをしっかりと確保する好機だ。


「父上、我ら尾張軍はまだ戦えます。何卒先陣を……」

「何を言っている。最初からそのつもりだ。兵が半減したとはいえ、尾張軍の力はまだまだ必要だ」


 義賢の顔に安堵が浮かぶ。この先を見据えれば義賢が今後の岡崎攻めの主力になる方が良いだろうしな。


「南軍は四郎(六角義賢)の指揮下に入れ。刈谷城・安祥城を攻め落とし、正面から岡崎へと迫れ」

「ハッ!」


「北軍は沓掛城で一日休息し、その後俺の本陣と共に国江城を攻め落とす。岡崎を北から包囲する形を作る」

「ハハッ!」


「今回の戦で徳川に止めを刺す。皆、あと一息頑張ってくれ」

「ハッ!」


 よし、改めて気合が入ったな。兵達にも休息を取らせつつ、年末までに岡崎を攻略する。美濃勢も合流すればもはや徳川に打つ手はないはずだ。




 ・天文九年(1540年) 十月  三河国額田郡 岡崎城  徳川清康



「父上、ご無事ですか」

「うむ。大事ない」


 次郎三郎(徳川広忠)が心配そうな視線を向ける。

 肩に包帯を巻き、右足を引きずりながらの帰還だ。誰が見ても大事無くはないな。我ながら強がったものだ。

 広間に座り、白湯を一杯飲む。傷口に染みるわ。


 負けた……。


 定頼の首を獲れなかった。その上、大久保兄弟のうち新八郎(大久保忠俊)と左衛門次郎(大久保忠次)を失った。末弟の平右衛門(大久保忠員)は何とか戻ってくれたが、こちらの損害も馬鹿にならん。


 まさかこの儂が負けるとは……。


 このまま六角に降伏するか?

 ……ふっ。流民を使って尾張を荒らしまわった儂を六角が許すとも思えん。何よりもここで六角に頭を下げれば、以後三河は二度と尾張に頭が上がらなくなる。食糧を抑えているのはあちらだ。今後三河の者は糧食を握られ、六角の言うがままに生きざるを得なくなる。

 そんなことは断じて出来ん。


 しかし、どうやって戦う。矢作川を守るにしても六角の方が圧倒的に数が多い。我らが再び討って出れば、南北からの挟撃を岡崎城を狙われる。


 いっそ浜松まで退がるか?

 いや、浜松では踏ん張りが効かん。三河衆を失っては六角に対抗するなど夢のまた夢だ。


 流民……待てよ。


「平右衛門」

「ハッ!」

「明日本證寺に参り、蓮淳を連れて来てくれ」

「蓮淳殿を……」

「うむ。くれぐれもな」

「……ハッ!」


 この仕事は安芸守(石川清兼)には任せられん。それにあ奴が知れば何かとうるさく言って来るだろう。


「安芸守! 安芸守は居るか!」

「ハッ! ここに」


 安芸守が具足姿のまま広間に入って来る。安芸守には浜松に行ってもらおう。


「お主は浜松に戻り、兵を募ってくれ。六角が矢作川に迫る前に遠江の軍勢を使って防衛線を張る。大事な役目だ」

「殿、しかし遠江の国人衆は未だ降伏して日も浅く、我らが負けたと知ればいつ手の平を返してくるか分かりません。実際に桶狭間からこちらに逃れて来る間にも多くの遠江衆が逃亡しております。この危急の折にどれほどの役に立つか……」

「何にせよ数は必要だ。今働いた者には望むままに領地を与えると言え。それと井伊谷の信濃守殿(井伊直平)に協力を要請しろ。今回は浜松の抑えに残ってもらったが、井伊家が軍勢を出せば周囲の国人衆もこぞって兵を出してくれるだろう」

「……承知いたしました」


 これで良い。安芸守が居なければ儂の邪魔をする者も居ない。

 勝負はこれからだ。


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