三好孫次郎頼長
・天文四年(1535年) 十一月 近江国蒲生郡 観音寺城 六角定頼
円座には月代を綺麗に剃り上げた千熊丸が直垂姿で頭を垂れている。
俺は板間に下りて千熊丸の頭に烏帽子を被せる。襟足の髪も髪留めの針で綺麗にまとめ、しっかりと髷を結い上げてある。
元服の時に髪留め針を差すことは故実にはない作法だと山科言継からたしなめられたが、せっかくの晴れ姿なんだから襟足まで綺麗にまとめた方が見栄えが良いだろうと言って押し切った。
うん。やはりこの方が見栄えが良いじゃないか。襟足からアホ毛が飛び出してちゃせっかくの晴れ姿も台無しになる。
写真でもあれば記念に一枚といきたいところだな。実に凛々しい若武者だ。
傍らで篠原長政が鼻をすする音が聞こえる。篠原も千熊丸の元服には感慨もひとしおだろう。一生に一度の晴れ姿をしっかりと目に焼き付けておくといい。
「うむ。凛々しい若武者だ。これで孫次郎殿も一人前だな」
「ありがとうございまする。宰相様には数々の御恩を頂き、感謝の言葉もございません」
「何、俺が自ら進んでやったことだ。だが、これからは己の力で足元を固めて行かねばならんぞ。俺も援助は惜しまぬが、あくまでもこれからのそなたを決めるのはそなたの努力だ。力を尽くすが良い」
「ハッ!」
初々しく頭を下げる、左右には篠原長政や堀田源八など堺から付き従ってきた三好旧臣に加え、亀寿丸や六角家臣の姿もある。
亀寿丸は先月に上洛して足利義晴を烏帽子親にして元服を済ませ、六角四郎義賢を名乗っている。足利家の通字である『義』の
通常偏諱を与えるのは通字以外の字になる。義晴であれば『晴』の字を下さるのが普通だ。『義』の字を下さるというのは、それだけ六角を重要視しているという証でもある。
義賢の妻は山科言継の妹の国子をもらうことになった。山科国子は近衛稙家の猶子とし、近衛国子となって嫁ぐことになる。年が明ければ京の近衛屋敷から観音寺城に輿入れしてくる手はずになっている。
一つ頷いた後、俺は上座に戻って書きつけていた紙を取り出す。烏帽子親となったからには偏諱を与えるのが通例だ。四郎が義賢となったので俺も祖父久頼から続く『頼』の一字を与えることとした。
紙には大きく『頼長』と書いてある。子供の命名みたいで気恥ずかしいが、これが千熊丸の新しい名となる。
「俺の偏諱を与える。これよりは三好孫次郎頼長を名乗るが良い」
「有難き幸せ」
「娘を頼むぞ、婿殿。近頃は随分しおらしくなったようだが、知っての通りあ奴はじゃじゃ馬だ。乗りこなせる者は婿殿しか居らぬだろう」
「ハッ!」
俺の言葉に少し顔を赤くした孫次郎が軽く頷く。元服に合わせて孫次郎には娘の初音を嫁がせることにした。期待の表れでもあるし、初音にとっても見ず知らずの相手よりも良いだろう。
初音も輿入れすると聞いてからは途端にしおらしくなったしな。まったく、思春期の娘というやつは好いた男の言うことは素直に聞くらしい。
「早速だが、孫次郎殿には京の西に割拠する西岡衆の制圧を頼みたい。西岡衆を取り込み、摂津を六郎より奪回する足掛かりとされよ。そのために兵五千を貸し出し、蒲生左兵衛大夫を補佐に付ける。
俺は残念ながら近江を離れることは難しい。蒲生と連携して御父君の旧領を回復されよ」
「ハハッ!ありがとう存じまする」
「うむ。期待している」
三好頼長も篠原長政らも顔つきが一気に引き締まる。
京の三井から木沢長政が大和に進出したと報せがあった。畠山の旧領である大和を回復し、その後に南山城に進出する布石だろう。
こちらとしても手をこまねいているわけにはいかない。北近江軍の再編はまだ途中だが、南近江軍は動かせる。西岡衆を降した後は蒲生を南山城に進軍させ、三好頼長は淀川北岸を摂津方面に進む。木沢長政だけじゃなく細川六郎とも真っ向からぶつかる布陣だ。
いよいよ三好元長の旧領を回復する戦いが始まるな。三好頼長にとってはこれからが本番だ。頑張れよ、孫次郎。
・天文五年(1536年) 一月 山城国 京 西院小泉城 三好頼長
洛中を小泉城まで進軍してきたが、京の民は我らを見て怯えたような顔を見せていた。
無理もないか。宰相様が京を焼き払われてまだ二年と経っていないのだ。焼け出された者達も大勢居ただろうし、六角の旗を掲げた軍勢が都大路を進めば人々は戦の記憶が蘇るだろう。
三井殿の慰撫によって少しづつ京も落ち着きを取り戻しているということだが、これからは京で戦をする事の無いように我らが京の盾となって戦わねばならぬ。
「孫次郎殿、緊張しておられるのか?」
「左兵衛大夫殿、某は初陣なのです。緊張も致しましょう」
「ははは。そうでありましたな。ですが、某には眩しゅうござる」
「……眩しい?」
「左様、京の民草の怯えた顔をご覧になられましたか?」
「はい。やむを得ぬこととは言え、まだ焼き討ちされた記憶が生々しいのでしょう」
「左様。未だ京の民草は京を焼き討ちした御屋形様のことを忘れてはおりませぬ。しかし、京の民草をこれ以上怯えさせてはならぬと御屋形様は仰せでした。六角の旗はどうしても二年前の焼き討ちを思い起こさせてしまう。ですが、三好家の三階菱であればまた民の受け取り方は違うだろうと」
「某が、民の不安を取り除く役目を?」
「いかにも。それが御屋形様が孫次郎殿に西岡を治めさせようとする真意にございます。これよりは京の西が戦場となりましょう。京の民草にとって三好の旗は王城鎮護の旗となり申す。いつの日か孫次郎殿が京の守り神として民衆から歓呼の声で迎えられる日を某も楽しみにしておりますぞ」
何やら気恥ずかしいな。儂が京の守り神などと……。
しかし、ここまで心遣いを下さった宰相様の御恩に報いる為にも儂は父の遺領を回復せねばならん。芥川城を奪回し、河内十七箇所を取り戻し、越水城を回復する。そういえば、越水城には千満丸が戻っているのだったな。
「大和守(篠原長政)。越水城の千満丸とは繋ぎは付けられたか?」
「いえ。何度も文を送ってはいるのですが、今もって返書が参りません。あるいは千満丸様のお手元にまで届いておらぬのやも……」
「届いていない?」
「千満丸様の御側には三好孫四郎(三好長逸)と芥川孫十郎が補佐に付いていると内池甚兵衛殿から伺いました。孫四郎か、孫十郎か、あるいはその両者によって文が握りつぶされているのかもしれません」
「何故だ?何故そのような真似をする?」
「申し上げにくいことではありますが、越後守(三好政長)にとっては若……いえ、殿の御帰還は決して喜ばしいことではありません。御父君の旧領は今越後守が差配しておりますれば、殿に返すのが惜しくなったとしても不思議はないかと」
ふむ。千満丸が儂の消息を知れば必ずや文を寄越すはずだ。恐らく大和守の言う通りなのだろう。
六郎だけでなく越後守とも戦をせねばならんか。三好は昔から一族内での内訌が激しいが、儂も一族内で戦わねばならんとは辛いことだ。
河内十七箇所を回復した暁には、千満丸と手を取り合って三好の旗を摂津に立てよう。父を殺された無念は千満丸も同じだ。細川六郎にも心ならずも従っているのだろう。
目的が一つ増えたな。千満丸を六郎から取り戻す。冥土の父が悲しまぬよう、必ずや千満丸を取り返して見せる。
「では、各々方。よろしいか?」
蒲生殿の一言で軍議が始まる。
西岡衆は先年の法華一揆に協力した者達だが、降る者は許して自勢力に取り込むが良いと宰相様は仰っていた。
今後の儂の手足となる者達が居れば良いのだが……。
・天文五年(1536年) 一月 山城国乙訓郡 西岡 松永久秀
「兄上!六角から文が参ったと聞きました!」
「六角からではない」
「何です?」
「六角ではない」
弟の甚介が不意を突かれた顔をする。まあ、小泉城周辺には六角が五千の兵を率いて陣取っているというから無理もないが、此度の使者は六角からではなかった。
「六角ではないとすると、誰からです?」
「驚くなよ。三好孫次郎様からだ」
「孫次郎様?」
「亡き筑前守様の遺児だ」
「兄上、馬鹿を言ってはいけない。筑前守様の遺児ならば越水城に居られるはず。ましてや六角と共に現れるなどということがあるはずは無いだろう」
「そのあるはずの無いことが起きているからお主を呼んだのだ」
訳が分からぬという顔をしおって。甚介は真面目で素直な男だが、いかんせん世の中のことに頓着せぬところがある。もう少し上手く世の中を渡って行かねば儂らのような木っ端の商人崩れなど生きていくことは難しいぞ。
「しかし、三好は摂津を治める細川六郎様の忠臣の一族だ。何故京から三好の使者が来るんだ?」
「それは分からぬ。あるいは偽物かもしれん。だが、この際本物であろうと偽物であろうとどうでもいい」
「???」
分からぬか。やれやれ、しようがないのう。
「良いか、大事なのは
「だからどうした?近江宰相が認めても細川六郎様が認めなければ……」
「いや、いずれは細川六郎様の三好様と対決すると見ている。六郎様は公方様と和睦し、六角と表面上は仲良くしているが、裏では木沢を使って近江宰相に盾突こうとしていると儂は見ている。
つまり、いずれは六角の三好様と六郎様の三好様はどちらが本物か雌雄を決せざるを得なくなろう」
「それと儂らとどういう関係が?」
「だから、今から六角の三好様に取り立てられれば、六角の三好様が勝った暁には儂らは摂津で一郷くらいはもらえるかもしれんじゃないか。六郎様の三好様には今更入り込む隙間は無いが、六角の三好様はこれから家臣を取り立てて行かねばならんのだぞ?」
「なるほど!つまり今から六郎様の三好様に取り入っておくんだな?」
「違う。六角の三好様だ」
「六角が六郎で、三好様が三好様で……」
「ええい、孫次郎様だ。良いか、今より我らの主は三好孫次郎頼長様だ。覚えておけ」
「わかった。とにかく六郎様に……」
「六郎様は忘れろ。儂らの主は三好孫次郎様だ。ほら、言ってみろ」
「儂らの主は三好孫次郎様だ」
「そうだ。それだけ覚えておけばよい。やれやれ、要らぬ汗を掻いてしまったわ」
まだ不思議そうな顔をしておるな。まあいい。こやつももう少し長じれば世間のことが分かるようになるだろう。
それにしても、このような好機が向こうからやって来るとはな。西岡では語り草よ。大山崎の油座の下働きをしておった松波の峰丸殿が、美濃に渡って取り立てられ、今やその子は美濃の守護代様だとな。いや、嘘か真か遂に美濃の国主様に収まったという噂もある。
松波に出来て松永に出来ぬ道理はない。儂と甚介は三好孫次郎様に取り立てられ、一国とはいかずともいずれは一郷を領する武士になってやる。この縁はうだつの上がらぬ儂らに降って湧いた好機よ。取り逃がしてなるものか。
「ともかく、急ぎ戦支度をしろ。今すぐにでも小泉城に馳せ参じるぞ。西岡衆でいの一番に駆けつけるのは松永兄弟だ」
「わかった!すぐに支度する!」
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