美濃国騒乱(1)雨中に陣す

 

 ・天文四年(1535年) 七月  美濃国厚見郡 加納守護代館  斎藤道三



「殿!一大事にございます!」


 宮河新五郎が慌てて居室に駆け込んで来る。どうやらとうとう長井弥太郎が起ったか。


「慌てるな。何事だ」

「ハッ!大桑殿からの火急の報せにより、長井弥太郎が五百の兵を率いて関城を出立!それに合わせて御屋形様も枝広から鷺山に移られて、西美濃から中美濃の国人衆に広く檄文を飛ばされているとの由」

「とうとう起ったか。これで儂も堂々と兵を集めることが出来るな」

「はい」


 抜かりはない。西美濃衆はいざという時には儂に味方すると言って来ておる。大桑直元、竹中重元、安藤守就、稲葉良通、いずれも儂の味方をすると固く誓ってくれた。皆が美濃を守る戦をしておる時に守護代に全てを任せて呑気に鷹狩りに興じる守護様にはこれ以上ついて行けぬと申しておったわ。


「中美濃の動きはどうだ?」

「苗木、岩村、明智などは未だ返事を寄越しておりませぬ。おそらく長井弥太郎に味方する可能性が高いかと」


 ふむ、遠山一族はまだ土岐家の威風に従ったわけではない。東美濃の軍勢は今回中立に回るだろうが、それでも敵軍は総勢で二千を超えて来るだろう。


「尾張の動きはどうだ?」

「織田大和守と家老の織田弾正忠が総勢七百を率いて清洲城を出立したとのことでござる」

「よし、新五郎はこれから近江に走り、近江宰相様からの援軍を請え。大原殿の援軍を願いたいとな」

「ハッ!」


 新五郎が慌ただしく駆けて行く。儂も稲葉山城に移るとするか。

 西美濃衆も総勢で二千ほどにはなるだろう。戦力は互角、それに我らには地の利がある。稲葉山城に拠って立てば負けることはない。

 尾張の織田勢は大原殿にお任せしよう。尾張勢さえ動きを封じてくれれば、儂は後ろを気にせずに鷺山館に攻めかかることが出来る。

 近江の軍勢で勝ったとなれば儂が美濃国主となっても近江宰相の影響から抜けられぬようになる。あくまでも美濃の国主を決するのは美濃の軍勢にて行わねばならん。


 外を見ると遠雷が遥か西の空から響いてくる。雨が降るか……。

 長良川が増水すれば川を渡ることも容易ではなくなる。急ぎ西美濃衆を稲葉山城に集めよう。


「誰ぞある!」




 ・天文四年(1535年) 七月  近江国蒲生郡 観音寺城  六角定頼



「近江宰相様にお目通りが叶い、恐悦至極にございます!」

「挨拶はいい。状況は?」

「ハッ!関城から長井弥太郎景弘が出陣、尾張からも織田大和守が七百の兵を率いて後詰に出たとのことにございます」

「わかった。大原中務大輔に兵一千を率いて後詰させる。お主は下がって少し休むが良い」


 心から安堵した様子で宮河新五郎が頭を下げる。休まず馬を駆けさせてきたのだろう。濡れそぼった顔には疲労の色が濃く貼りついている。


 土岐頼芸が動いたのは知っている。昨日俺の元に土岐頼芸からの使者が来ていたからな。六角家と土岐家は重代の縁があるから、土岐家中の内紛ならばともかく守護代との戦ならば自分に味方すると思っていたんだろう。


 甘いな。血縁関係だけで戦国の世は渡って行けない。守護には何よりも頼もしさが必要だ。

 俺が味方するのは斎藤道三だ。


「新助!」

「ハッ!ここに!」


 宮河新五郎を下がらせた後、隣の間に控えていた進藤がすぐに顔を出す。


「土岐左京大夫からの使者はどうしている?」

「今は城内の別室に留めております」

「近江は斎藤山城守に味方する。使者にはそのように伝えて美濃へ帰らせよ」

「ハッ!」

「それと小谷城にも早馬を出せ。大原次郎(大原高保)に兵一千を率いて美濃へ後詰せよとな」

「ハハッ!」


 美濃を斎藤道三が奪い取れば、俺は後ろを道三に任せて心置きなく西に向かえる。道三はあくまでも美濃の自立を目指しているし、俺も別に美濃を直接支配する必要はない。要は足利義晴と対立した時に俺に味方する勢力であればそれでいい。

 せいぜい道三の面目を立てて、後は友好関係を築いていけばいい。


 敦賀には北近江衆から赤尾清綱と海北綱親をそれぞれ一手の大将として金ヶ崎城に派遣した。美濃の騒乱が収まれば蒲生定秀を京方面に戻し、敦賀は大原を中心に軍勢を配置するようにしよう。

 そうなると大原の北近江軍が少し分散してしまうな。誰か大原の配下から新たに組頭を取り立てさせて軍備を増強しないと。そういえば近頃滝川資清の働きが目覚ましいと言っていたな。滝川資清を組頭に取り立てることとしようか。

 甲賀出身の滝川と言えば多分滝川一益の親父か何かだろうし、今から取り立てておいて損はないだろう。


 ふむ。庭の地面を叩く雨の音が緩やかになってきたな。もうすぐ雨も上がるだろう。美濃の騒乱も間もなく決着が付く。雨が上がれば俺も摂津や南山城に進出する準備に入るとするか。




 ・天文四年(1535年) 七月  美濃国安八郡墨俣  織田信秀



 ここ数日雨が降ったり止んだりしていたが、また雨が降りそうな気配がしてきたな。野分(台風)でも来ておるのだろうか、風が妙に生暖かい気がする。


「殿!清洲城より川尻与一殿(川尻重俊)が見えられました!」


 近習が一礼して下がって行くと入れ替わりに具足姿の川尻与一が入って来る。大和守からの使者か。

 やれやれ、戦の采配については儂に任せておけばよいものを。


「弾正殿!いつまで墨俣でグズグズしておられる!長井勢は既に井ノ口に陣取って稲葉山城に攻めかかる構えを見せておりますぞ!尾張勢も早う井ノ口に入って城攻めにかかられよ!」

「間もなく六角軍の後詰が西美濃にやって来ましょう。今ここを動けば我らは長井の盾として磨り潰される役目を負わされることになる。我らがこの地で六角軍を引き付ける故、長井殿は心置きなく稲葉山城を攻められるようにと使者を遣わしておるところでござる」

「しかし、我らも井ノ口に進軍せねば、戦の後に井ノ口の一部を奪い取ることが出来ぬぞ!」


 やれやれ、何故儂が身銭を切って大和守の領地を奪い取ってやらねばならんのだ。やりたければ自らの軍勢だけでやればよかろう。


「それはお断り申す。我らは六角軍を牽制するのが役目。戦はあくまでも長井殿にお任せするのが筋というもの」

「それではここで援軍を出した意味が……」

「六角の後詰を牽制するだけで長井殿には充分すぎる援護となりまする。どうしても領地が欲しければ戦の後に土岐左京大夫殿や長井弥太郎殿と談判されればよろしい。ともかく、某はこの地で六角を牽制致します」


 歯ぎしりを残して川尻与一が本陣を出て行く。どうしても行きたければ大和守の軍勢二百を率いて行けば良いのだろうに、儂が居ない戦は不安でもあるのだろう。馬鹿々々しい限りだ。


 ううむ。また雨が降って来たか。

 先日からの雨で長良川の水も増えておる。少し川から陣を離すか。


「本陣を移す!準備せよ!」




 ・天文四年(1535年) 七月  美濃国厚見郡 江口郷  大原高保



 何とか尹目良川を渡って長良川まで出て来たが、この様子では川を渡ることは出来んな。水量が増えているし、昨日から再び雨も降り出して来た。


「やれやれ、ままならん雨だな」

「やむを得ません。この地で陣を張りますか?」


 滝川久助(滝川資清)が気づかわしげに聞いてくる。兵達も何とか雨を凌げるようにしてやらねばならんか。


「そうだな。この付近の寺で陣を張らせてもらえるところが無いか探してきてくれ。この雨だ。兵達も出来れば屋根の下で休ませたい。周辺の民家も借りられる場所が無いか見てくれ」

「ハッ!」


 久助が徒歩で駆けて行く。雨の中でもあ奴はよく働くな。


 ……ふむ。遠くに見えるあれが稲葉山城だな。

 遠目に見ても急峻な山に立つ堅固な城だ。遠くから鬨の声と思しき地鳴りに似た響きが聞こえて来るが、長井勢の攻めかかる音だろうか。この雨だ。長井弥太郎も城攻めには苦労していよう。


 織田弾正忠は南の墨俣に布陣したと言っていた。我らも長良川を渡らずにこの地で様子を伺う方が賢明か。兄上からは織田との戦は無用と申し伝えられたし、斎藤道三も長井弥太郎の軍勢は自力で何とか出来るだろう。我らはこの地で変事に備え、万一稲葉山城が危機となれば後詰をする形で良いか。

 それに、今無理に川を渡ろうものなら急流に流される者も出るかもしれぬ。


「雨足が強くなって参りましたな」

「うむ。厄介なものだ」


 雨森弥兵衛が隣に馬を進めて来る。この雨さえなければ進軍ももっと円滑にできただろうに。


「とりあえず、兵達に休息を取らせよう。この雨だ、炊事などは出来ぬだろうが、とりあえずほしいいを使わせて腹を満たしておけ。久助が戻れば陣を移すぞ」

「ハッ!」


 兵達が各所に散って銘々休息を取り始める。雨足が随分強くなってきた。気が付けば篠突く雨で先ほどまで見えていた稲葉山城も霞んでしまった。

 丁度良い木を見つけて雨宿りをするが、それでも木の葉を通して叩きつけるような雨が降って来る。


 まったく、忌々しい雨だ。天候だけはどうにもならぬな。

 この分では鎧下地から小袖の中まで濡れそぼってしまったな。早く乾かさねば風邪を引いてしまうかもしれん。


 久助はまだか。遅いな。


「殿、何やら聞こえませぬか?」


 雨森弥兵衛が遠くに視線を巡らしながら耳を澄ませる。そういえば雨の音に混じって鬨の声が大きくなってきた気がするな。

 この雨の中でも攻めを増やすとは、長井弥太郎はそれほどに焦っておるのか。


「長井はこの雨だと言うのに必死になって戦を仕掛けているようだな。雨が上がるまで待てば良いだろうに」

「もしかすると、我らの着陣前に戦を決めたいと思っているのかもしれません」

「だとすると、長井は想像以上に戦下手だ。稲葉山城は急ぎ働きで落とせる城ではないぞ。あれほど急峻な山であれば一度に攻め上れる人数も限られているだろう。急いで攻めても易々と落とせる城ではない」


 しばらく雨宿りをしているとかすかにではなくはっきりと鬨の声が聞こえて来る。

 何か妙だな。もしやすると長井がこちらに矛を転じたか、それとも織田が裏切って儂に攻めかかって来ておるのか。


「誰ぞある!物見を……」

「殿!」


 六番組頭の南郷四郎三郎が慌てて駆けよって来る。何かあったか。


「南郷!どうした!」

「お逃げください!」


 ……何?


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