天文の近江大乱(1)

 

 ・天文三年(1534年) 七月  近江国蒲生郡 観音寺城  蒲生定秀



「出陣の用意を急がせろ」


 京から戻った御屋形様から招集が掛かり、通常の評定衆に加えて某と大原中務大輔様(大原高保)、北河又五郎殿(北河盛隆)それに進藤殿や浅見殿、京極様、梅戸様らも顔を揃えた大評定の場で陣触れが出された。今回の目的は京の法華一揆を駆逐することらしが、それにしては陣立てが大きすぎる。

 南北近江の番役一万八千は最低限の兵員を残して全軍出動し、北伊勢からも兵三千を出す。さらに今回は各地の郷村からも兵を出させるとのお下知だ。まるで近江一国を空にして軍勢を催す規模ではないか。法華との戦はそれほどの陣立てを要するほどの戦になるのであろうか。


「御屋形様、郷村の収穫はこれからが本番にございます。今郷村の人手を抜けば今年の収穫は厳しい物になりましょう」

「それは覚悟の上だ。今年の年貢は全村で免除とし、糧食の不足する村には各地の備蓄蔵からこの冬を越す糧食を出す。国人衆の収入への補償も同様だ」

「陣触れの通りならば総勢で七万もの大軍になります。法華門徒相手にいささか動員し過ぎではありませんか?」

「今回は戦だけが目的ではない」

「というと?」


 進藤殿の意見に御屋形様が一旦言葉を切る。

 一座を見回す顔は真剣そのものだ。一体何を申されるのか。


「京を焼く」


 キョウヲヤク?

 言葉の意味が染みて来ない。何を申された?キョウを焼く……京を焼く!


「御屋形様!それはあまりにも無法でございます!何よりも京の民草には何の罪もないのではありませんか!」


 思わず立ち上がってしまった某を御屋形様が表情を消した目で見る。

 怖い……御屋形様とはこのような目をされるお方だっただろうか。


「法華宗を京から根絶やしにするためだ。七万の軍勢のうち五万は焼き払った後の京の再建に当たる普請役だ。戦をするのは常備軍の二万だけとする」

「しかし、戦に巻き込まれる民草は……」

「京の町には事前に避難勧告を出す。法華宗に同心せぬ者はすぐに京を立ち去るようにとな。従わぬ者は焼かれても文句はないものと見做す」

「お答えになっておりませぬ!悪しきは法華坊主のみ!法華寺院を破却すればそれで……」


「控えよ!藤十郎!」


 尚も言い募る某に進藤殿から叱責が飛ぶ。見回せば他の皆も神妙な顔をしている。

 何故そのような顔が出来る?京を焼くなどと無法なことをすれば御屋形様の御名に疵が付くことにもなるだろう。


「新助殿!しかしそのような無法を行えば御屋形様の御名に疵が……」

「控えろと申しておる!良いから座れ!」


 再度叱責されて渋々座る。皆は平気なのか?これがどれほどのことか分かっておらぬのか?

 淡々と出陣の日を告げられた御屋形様は冷たい目のまま奥へ戻られる。皆が平伏するが、何故そうも唯々諾々と従うのだ。このような無法はお止めするのが忠義ではないのか。

 それに、某には女院様(勧修寺藤子)と交わした約束もある。そのような惨状を目にされれば女院様がどれほど悲しまれるか……。



「藤十郎。お主には御屋形様のお心がわからぬか?」


 御屋形様が退出された後に進藤殿が話しかけてくる。御屋形様のお心?


「御屋形様はこのような決断をせんで済むように様々に政略を巡らし、法華宗を抑えようと努力して来られた。全ては一向一揆の惨劇を繰り返させぬため。だが、事ここに至っては京を全て焼き払い、改めて宗門の介入する余地のない京を作り直すしかないと思し召しなのだ。そのためには鬼畜とそしられようと、天魔と非難されようとも断固として実行すると決断されたのだ。

 お主の言う通り、これを行えば御屋形様の御名は悪鬼羅刹として史に刻まれよう。それすらもお覚悟の上でのことなのだ。

 我ら家臣たる者がそのお心をわからずして、何とする」


 ……。


 見回せば皆が神妙な顔で頷いている。それが分からなかったのは某だけか。


「申し訳ありませぬ。浅はかなことを申し上げました」

「詫びるのであれば儂ではなく御屋形様にだ。それに、そなたの心も御屋形様は分かっておられよう。今はお下知に従い、精一杯働くが良い」


 ……情けない。御屋形様のお側近くに居ながら某にはそのお気持ちが見えていなかった。

 あれほど快活だった御屋形様があのように冷たい目をされるには、それだけの葛藤があったはずではないか。新助殿の言う通り、我らできるのは御屋形様を信じて付いてゆくことだけだ。




 ・天文三年(1534年) 七月  山城国 京 清涼殿  近衛稙家



 六角の軍勢が山科と瓜生山に布陣した。いよいよ戦が始まるか。

 麿もさすがに身震いがしてくる。よもやこの身を戦場に置くことになろうなどとは思いもしなかった。父上は公方や尚子と共に瓜生山に逃れているし、今も続々と京から無辜の民が逃げ出している。もはや京洛には法華一揆しか居らぬはずだ。法華一揆ももはやこれまで。


 朝議の場にも沈黙が横たわる。戦を目前に控えれば気楽に話をしている時ではないということか。この内裏や麿に近しい公家の家には六角家から警護の兵が付くことになっているとはいえ、それでも不安は尽きぬ。戦なのだから何が起こるかは誰にも分からぬ。


「太政大臣三条実香様が参られました」


 申次の言葉に続いて三条相国が朝議の場に姿を現す。慌てているな。そもそもは法華の横暴を許したのは三条相国の罪だ。今更何しに来たというのだ。


「主上!恐れながらお願いがございます。何卒六角に兵を退くように勅を賜りますよう」

「相国殿、無駄でおじゃる」


 麿の言葉に相国がキッと睨んで来る。だが麿とて負けるわけにはいかん。この事態を招いたのは相国の責任だ。


「何が無駄じゃ!六角は京洛を全て焼き払うと触れをだしておるのだぞ!そのような暴挙を許して良いものか!」

「ならば何故法華寺院に兵を召し放つよう申されなんだ。少弼とて望んでこのような挙に出ているわけではおじゃらぬ。全ては法華の横暴をこれ以上見過ごせぬと思い定めてのことでおじゃる。

 法華坊主の横暴を止めなんだは相国殿の罪におじゃりますぞ」


 相国が麿から再び御簾の向こうに視線を移す。麿と言い争う余裕も無くしておるのか。


「申し上げるのも恐れ多きことながら、六角の挙を許せばこの内裏すらも戦火に巻き込まれる恐れもおじゃりましょう。帝の御身を守るためにも何卒勅を」

「無駄でおじゃると申し上げておりましょう」

「貴様に話してはおらぬ!麿は主上に申し上げておるのだ!」

「此度の六角の戦は主上もお認めになったこと。この内裏にも六角の兵が警護に就くことになっておじゃる。全てはもはや手遅れでおじゃります」


 相国の顔から表情が抜け落ちる。九条関白も逃げ、この朝議の場には麿の息のかかった者しか居らぬ。そのことに今更ながら気づいたようだ。

 そのような場合ではないが、つい愉悦を感じてしまう。あれほど勢威を欲しいままにした相国が、今や打つ手も無く呆然と麿を見ておるのだ。盛者必衰とはまことに真理よな。


「相国殿も早うお逃げになった方が良いのではありませぬか?六角は三日の間に逃げぬ者は法華に同心したと見做すと触れておじゃりましょう。このまま京に居残っては相国殿のお命が危くなりますぞ」


 ハッと顔を上げた相国が悔し気に麿を睨んで退出してゆく。少し溜飲が下がったな。

 だが、勢力争いはこれで充分。この戦をこれ以上朝廷の勢力争いの場とするわけにはいかぬ。何よりも民草の被害を出来得る限り最小に収めるように、少弼が行き過ぎることがあれば麿が止めねばならん。それが麿が内裏に残って帝の御側に侍る理由だ。


「近衛。まことに定頼は民草の被害を最小にするのであろうな」

「ハッ!麿にはそのように約しております。もし少弼が行き過ぎることがあらば麿が少弼を止めに参りましょう」


 その場合は戦場を突っ切って六角陣に向かうことになる。麿も命を懸けねばならん。やはり胴が震えて来る。つくづく、武士とは怖い生き物よな。




 ・天文三年(1534年) 七月  越前国敦賀郡 金ヶ崎城  朝倉景紀



 慌てた様子で浅井備前守(浅井亮政)が室内に入って来た。


「郡司様!御屋形様より陣触れが為されたと伺いました!まことに戦を始めるのですか?」

「備前守。聞いた通りだ。六角は七万の軍勢を催して京へ進軍したと聞く。おそらく近江や美濃の変事への備えは少なかろう。今こそ機は熟したということだ」


 こちらも急ぎ兵を整えて高島郡に攻め込まねばなるまい。朽木の動きを制限して北近江を奪回する。いよいよ浅井の働きに報いてやれる時が来たのだ。


「美濃も……では、大野郡司様も」

「左様。美濃にも土岐次郎殿(土岐頼武)を奉じて戦を仕掛ける。六角の身動きが制限されている今、六角の味方を全て討ち果たす」

「まさに好機到来という訳ですな」


 浅井備前守もニヤリと笑う。

 六角も迂闊だったな。全軍を持って京に上るなどと正気の沙汰ではない。余程に法華宗を警戒したか……。

 だが、我が朝倉への警戒を忘れていたようだな。頼みの朽木も此度は儂が高島郡から動かさぬ。


 我が兄ながら御屋形様も恐ろしいお方だ。六角との和議を律儀に守り続ける姿を頼りないと思いもしたが、その裏で虎視眈々とこの時を待っておられたのだからな。


 若狭は今もって徳政を求める郷村を抑えるのに苦労しておるし、小浜代官の粟屋右京亮(粟屋元隆)は度重なる丹波への出兵に不満を募らせておると聞く。朽木の婚姻は当てが外れたな。


「儂は兵三千を率いて朽木を抑える。備前守は五千の兵を与える故北近江を奪回するが良い」

「某が五千もの兵をお借りしてよろしいのですか?」

「かまわん。朽木の兵はせいぜい三千。それに此度は朽木を打ち破ることが目的ではない。同数の兵があれば充分よ。北近江を奪回した後にお主も儂の軍に合流し、兵を揃えて朽木を討つ」

「かしこまりました。必ずやご恩に報いてご覧に入れまする」

「期待しているぞ」


 願わくば蒲生藤十郎と六角弾正をこの手で討ち果たしたいものだが、此度はそこまでは難しいかもしれぬな。

 だが、六角を南近江に封じ込めればそれも時間の問題。此度こそは京に全軍を振り向けた六角の失策だ。


「出陣はいつになりましょうか?」

「出陣は七月二十三日とする。六角が京に攻め入ると呼号している日だ」

「なるほど。法華との開戦と同時に六角は窮地に陥るということですな」

「そういうことだ」


 六角定頼、蒲生定秀、そして朽木稙綱


 我が義父朝倉宗滴を虚仮にしたことを心から悔いるがいい。

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