童子

 

 ・享禄三年(1530年) 四月  山城国 京 女院屋敷  蒲生定秀



 室内に端座していると奥から女院様のお成りが告げられる。

 平伏の姿勢で床を見つめていると、やがて上座のあたりに人が座る気配があった。


「面を上げなされ」


 ゆっくりと顔を上げると、人の好さげな老婆が座っている。

 老婆などと言ってはいかんな。仮にも帝の御母堂様であらせられる東洞院殿ひがしのとういんどの(勧修寺藤子)だ。


「そなたが藤十郎か。なんともはや、父御ててごに似て勇ましい顔をしておじゃるな」

「恐れ入りまする。祖父や伯父には似ずに武辺しか知らぬ武骨者でございますれば」

「ほほほ。今の世はその方が求められておじゃる。武士もののふとしての誉れは朝廷にも聞こえておりますよ。なんでも『今藤太』と呼ばれておらっしゃるとか」

「世上の噂に驚き入っております。まさか藤原秀郷公になぞらえられるとは……」

「ほほほ。そも、蒲生は俵藤太殿の後裔じゃ。先祖の名を受け継ぐとはこの上ない誉であろ」

「恐れ入りまする」


 思わず顔が熱くなる。このお方の前では自分が童に戻ったような気になってしまうな。

 幼き頃に優しく心を包んでくれたお袋様のようだ。

 なんとも温かさに満ちたお方だ。


「此度の帝への忠勤にも感謝いたします。様々な物を届けて下されたとか」

「いえ、ほんの形ばかりにて恐れ多いことでございます」

「妾が鮒を好んでおるということも良く知っておじゃるな」

「父や祖父から女院様が鮒を好んで食されると聞き知っておりました故。今年の鮒は格別に出来が良うござる。楽しんでいただければ幸いにございます」

「ほんに楽しみなこと」


 女院様がゆったりと微笑みながら視線を外に移す。

 良い天気だ。塀の外からは物売りが大声で呼ばわる声も聞こえるな。


「そなたや少弼(六角定頼)のおかげで京の民もひと時の平和を楽しんでおる。まして近江は少弼の力で永の平和が保たれていると聞く。

 この乱世にあって、なんともうらやましきこと……」


 女院様も京の騒乱に心を痛めておられるか。

 無理もない。度重なる戦乱で朝廷も窮乏し、先代の後柏原天皇は亡くなってから四十日間葬儀を行う事が出来なかったと聞く。

 夫の遺骸が無残に打ち捨てられている様を女院様はどのような思いで見ておられたのだろうか……。


 やがて女院様がこちらに向き直ると、背筋を伸ばして威儀を整えられた。

 こうしておられると国母としての威厳を充分に漂わせておられる。温かさと厳しさを併せ持つ不思議な女性だ。


「詮無きことを申しました。

 此度の蒲生の忠勤に対し、帝も何か報いねばなりません。何か望みの向きはあるかえ?」

「はっ。叶いますれば、左兵衛尉への任命をお願いいたしたく」

「左兵衛尉……それでよいのか?そなたの伯父は刑部大輔の任に当たっておった。蒲生家の当主ならば五位相当の任を受ける資格はある。

 左兵衛尉と言えば七位相当でおじゃるが……」

「構いませぬ。父が任じて頂いていた左兵衛尉の官位を継ぎたく思います」


 父の官位も左兵衛尉だった。今の俺にはそれ以上の任を望むほどの力は無い。まずは父と同じくらいに御屋形様の役に立つ男にならなければ。

 女院様もゆったりと頷かれる。


「相分かった。ならば、望み通り左兵衛尉の任に推挙しましょう。合わせて従五位下の官位を与えるように申し添える」

「従五位下……それは……」

「五位の位を受ければ、そなたは左兵衛大夫を名乗れましょう。父の官位を継ぐというのなら、それが高郷の官位でおじゃろう」

「……有難きお計らいにて」




 ・享禄三年(1530年) 四月  阿波国三好郡芝生城  三好元長



 ……ふむ。

『望み共、ことごとく相叶えられるべく候。はやはや罷り上り候え』か。

 六郎様(細川晴元)はよほどに困り果てていると見える。


 儂の後に京を任せた木沢長政は六角弾正にあっさりと攻略されたようだし、播磨の道永(細川高国)と対峙していた柳本弾正忠(柳本賢治)は何者かに暗殺されたようだ。

 まあ、十中八九道永の手配りであろうな。


 筑後守(三好政長)では道永はともかく六角を抑え込むことなどできまい。

 六角弾正は恐るべき相手だ。まともにぶつかっても勝負はいいところ五分だというのに、まずもってまともに勝負に持ち込ませてくれん。

 奴が動く時は勝利を確信した時だけだ。朝倉宗滴の末路がそれを物語っている。


 今回のことが六郎様への薬になってくれればよいが……

 天下人自身が裏切りを行えば、配下の者はますます容易に裏切りを行う。今の摂津国人衆を見ればそのことは明らかだろう。

 やはり初志を忘れず、左馬頭様(足利義維)をこそ将軍位に据えることを目標としなければ天下に信義を示すことなどできぬのだ。


 ……まあ、頃合いか。

 今ならば六郎様も儂の言を聞き入れて下さるだろう。



「殿、失礼いたします」

「おう、大和守(篠原長政)か。入れ」


 襖が開いて大和守が入って来る。

 相変わらずひょろりとした体つきだ。最近本人も気にしてか髭を蓄え始めたが、どうにも髭がまばらで威風堂々という風には見えん。

 むしろますますひょろりとした印象を与えてしまう。こやつも難儀な体に生まれたものだな。


「六郎様から文が参ったと伺いました」

「うむ。これだ」

「拝見いたします」


 大和守が真剣な顔で二度三度と書状に目を走らせる。

 表情が一切変わらない。交渉事などでは腹の底を読ませないというのは有利かもしれん。

 儂は駄目だな。すぐに顔に出てしまう。


「某には随分勝手な言い草に見えますが……」

「そうよな。自ら追い出しておいて困ったから手を貸せというのだからな」

「では、此度も」

「いや、そろそろ動こうと思う」


 大和守が不審な顔をする。こやつはまだ六郎様を信用しておらぬか。


「恐れながら六郎様は童と同じです。今手を貸したとて、状況が落ち着けばまた殿を遠ざけられるのではありませんか?」

「その恐れはあるだろう。それ故、此度は讃岐守様(細川持隆)にも参陣をお願いする」

「讃州様ですか……。まあ、それならば……」


 大和守も讃岐守様には心を許しておるな。

 六郎様の御弟君ではあるが、讃岐守様は英邁の資質をお持ちだ。まだ十五歳だというのにその御器量は六郎様を凌ぐものがある。

 まこと、長幼が逆であったならばと残念でならぬ。そのような思いも詮無き事ではあるが……


「いずれにせよ、このまま左馬頭様を阿波で逼塞させておくわけにもいかん。いずれは再び畿内に戻らなければならぬというのは大和守も同意しておっただろう。

 その時が来たということだ」

「承知いたしました。軍勢はいつでも動かせるようにしてあります」

「よし。では供を致せ。まずは勝瑞城に参って讃岐守様に拝謁を願う」

「ハッ!」


 さて、此度は六角はどう動くか……

 いずれにせよ、まずは道永を再び打ち負かさねばならんな。六角との勝負はそれからだ。




 ・享禄三年(1530年) 五月  近江国蒲生郡観音寺城  六角亀寿丸



「そうです。背中に意識を集めて両腕を大きく左右に開きます」


 弓がしなって両腕に重みが増す。思わず手が震えそうになるがそこを堪えて弓を保たなければいけない。


「顎を引いて。そのまま的を見据えて右手をゆっくりと離します」


 目線を的に注ぎ、言われた通りに右手を離すと、呪縛から放たれたように矢が力を得てまっすぐに空中を進む。やがて見据える先の的に命中する。


「お見事です。その感覚をお忘れなきように。あとは鍛錬を繰り返すだけです」

「わかった。また稽古を見てくれるか?」

「もちろんでございます。若君は弓の才をお持ちのようですな。某が師より受け継いだものを全てお教えいたしまする」

「そう言ってくれるとありがたい」

「ははは。ですが、慢心は禁物ですぞ。今はまだその才は磨かれておりませぬ。これからその才をどのように磨いていくかは若君の鍛錬次第」

「わかった。肝に銘じよう」



 吉田上野介(吉田豊稔)の稽古を終え、軒先に腰かけて汗を拭う。

 まだ午の刻(正午)には間があるはずだが、随分と汗をかいてしまった。もうすぐ梅雨の季節だな。


「亀寿丸。精が出ますね」

「これは母上。ありがとうございます」


 母上が瓜を持ってきてくださった。井戸で冷やした瓜は甘くて美味い。火照った体には冷たさがより一層美味く感じる。


「うふふ。誰も取りませんから落ち着いてお召し上がりなさいな」

「ははうえー!わたしもー!」

「あら、取る子もいましたね」


 妹の初音がドタドタと駆けて来る。

 まだ五歳だから仕方ないが、相変わらず落ち着きがないな。


「初音!もっと静かに歩け!」

「あら、童はあのくらい普通ですよ。亀寿丸も、まだ十歳なのですからもっと童らしくしていいのですよ」

「母上、お言葉ですが十歳です。私は一日も早く父上のお役に立てるようになりたいのです。

 父上は今公方様を奉じて京に上っておられる。武家としてこれほどの栄誉はありますまい。

 大変なお役目を果たされている父上を少しでもお支え致したく思います」

「あらあら、随分立派な事を言うようになって」


 母上は母上で相変わらず私が何を言ってもコロコロと笑っておられる。

 まだ童と思われているのだろうか。私はもう十歳になる大人だ。

 弓だって引けるようになった。……童用の小弓だが。

 童扱いはやめてほしいものだ。


「その御父上様から文が参りましたよ」

「えっ!」

「うふふ。そんなに嬉しそうにして。やはりまだまだ父上に甘えたい盛りですね」

「ち、違っ!これはつい!」


 母上にからかわれるとどうしても赤面してしまう。顔が熱い。


「それで、父上は何と?」

「間もなく近江に戻られるそうです。ですが、戻ったら今度は伊勢へ参られるとか」

「そうですか……」


 また戦に行かれるのか……。

 私も早く一人前になって一日も早く父上のお役に立てるようにならないと。


 ……ん?


「初音。その瓜何個目だ?」

「んーっと……三個目!」

「私はまだ二個しか食べてないぞ!私が先だ!」

「やだー!わたしがたべるのー!」

「これこれ、喧嘩してはいけませんよ」


 例え母上の言うことでもこれだけは譲れん。

 この瓜は私のものだ!


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