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教興寺の戦い(4) 勝者と敗者への応援コメント
なんてこった、歴史が変えども平蜘蛛はついぞボンバーマンの毒手から逃れなかった……
時間稼ぎへの応援コメント
主人公は歴史に詳しいはずなのに、どうしてありもしない期待を抱いてしまうのでしょうか。本願寺はそのまんまで、堺も実際に石山本願寺を支援し、信長の降伏命令を拒絶しましたし。子どもたちの未来のために舐めた態度をやめ、覚悟を決めたはずなのに、なぜまだそこまで悩むのか……古い体制に挑戦するというのは、そういうことでしょう。
そもそも、今までも大きく期待を裏切られたものを数えるだけでも、宗滴の襲来(個人的にはあれマジ怖かった、ヤンキーを怒らせたくないですね)、甚太郎の裏切り、朝廷の朝廷のどっちつかずの姿勢、そして本願寺の件が挙げられるでしょう(朝廷と自社は予想通りとも……)、また期待したくなる要因一つも見えねえんですけど、主人公、ポジティブの権化かな。
第三次六角征伐(7) 経済圏への応援コメント
銭不足のことも牙符と関連して、定頼が転生した影響で説明できるとは恐れ入ります、ここまで一番うまい伏線でした。
第三次六角征伐(6) 朝倉宗哲の意地への応援コメント
景紀よりは甚太郎でしょう……
編集済
側室への応援コメント
老獪で活動的な近衛稙家も若い頃はこんな感じだったんですねえ、なんだか新鮮です。
良く考えたら戦国もののクライマックスは大抵厳島か桶狭間からのような気がして、その頃の三条家はすでに大寧寺の変で当主が没したから断絶状態だったんですねえ。
作者からの返信
ありがとうございます!
三条実香は法華宗と大変仲がよろしかったようで、天文以前の法華宗全盛の頃は法華信徒の武士に横領された荘園のアガリについて、公家が三条実香に相談に行ってる様子が日記に残っています。
また、後奈良天皇が生活費の足しにと宸筆(天皇直筆の書)を売っていたというのは有名な話ですが、実際に法華門徒の要望に応じて法華経の奥書に一筆加えたりもしていたそうです。そうした「法華の銭」の仲介者として三条実香は絶大な権力を持っていました。
もっとも、三条実香は法華宗と近づきすぎたようで、天文法華の乱で法華宗が京を追放されると三条家も力を失い、変わって近衛家が力を持つようになっていきます。公家の世界でも栄枯盛衰は世の常と言う感じですね。
箕浦河原の合戦(3)への応援コメント
自分から攻めておいて負けたら逆恨みとは流石戦国クォリティ。
横関商人への応援コメント
肉食に関しててっきり定頼がちょっとしたバッシングを浴びると思いました、意外とゆるいですね。
作者からの返信
コメントありがとうございます!
この時期もこの後の江戸時代も、民間での肉食自体はさほどの忌避感は無かったように思います。
法華宗と一向一揆の争った享禄の一揆では、春日山の鹿が一揆勢に食いつくされたと大乗院雑記にありますし、江戸時代にも近江での肉牛の肥育はされていました。彦根藩から徳川将軍に「牛肉の味噌漬け」が滋養強壮の薬として献上されていますし、差出人は不明ながら近江西宿村の伊庭鍋五郎宛に「牛肉五匁用立ててくれ」と依頼した手紙も残っています。
また、明治政府がアメリカから肉牛の種牛を輸入しようとした際、益田孝は「アメリカの牛肉なんぞ不味くて固くてクソだ。牛肉はやはり神戸牛に限る」と自叙伝で述べています。
なんだかんだ言って、日本人も昔から四つ足の獣肉を食べてたのは間違いないと思いますよ。
武名轟くへの応援コメント
恥ずかしながら浅学で知りませんけど史実でも定頼はこんな戦術を採ったんですか?
メフメト2世のコンスタンティノープル攻めで使ったオスマン艦隊山登りみたいでロマンを感じます!
作者からの返信
コメントありがとうございます!
摂津から五段帆の大船を陸路で近江に運んだのは史実通りです。鷲尾隆康という公家の残した『二水記』という日記に、「クノリ城を攻め落とさんがため」に六角四郎が合計三隻の船を細川から申し下されたという記述があり、実際に牛車で曳かれた船を五条油小路まで見物に出かけている様子も記述されています。
ただ、その後六角や織田がこの戦術を採っていないことからして、陸路を運ぶ際に船体にかなりのダメージがあった物と思われますので、相当な無茶ではあったのだろうと思います。
言い換えれば、それほどの無茶をしなければ落とせないほどクノリ城(=水茎岡山城)が堅固な水城だったということでしょう。
法華宗への応援コメント
何をするにも行き当たりばったりでスッキリ感がない
第二次六角包囲網(9)河内の雄への応援コメント
この朽木じいちゃん好き
第一次六角包囲網(2)強訴への応援コメント
猫セラピー。
川中島合戦(1) 貞吉の御馬揃への応援コメント
秀吉さんと近江商人の皆様との接点が生まれるのでしょうか?
作者からの返信
コメントありがとうございます!
果たして接点が生まれるのでしょうか……()
続きにご期待下さい!
第一次六角包囲網(4)和議への応援コメント
面白いです。官途名で会話が行われるのは良いものですねえ。地名コーチは廃業します。
作者からの返信
コメントありがとうございます!
ご指摘助かってますよ!
当時の雰囲気を出したくて官途名や仮名で呼んでますが、読みにくくないかなといつもハラハラしてます。
面白いと言っていただけて励みになります!
天文の近江大乱(5)金ヶ崎城陥落への応援コメント
この章では、海津大崎に着岸する事を六角承禎は目指していますが、昭和11年に県道が開通するまで、菅浦と海津の間は湖岸沿いには道路がなかったそうです。(参考:http://haisentn.blog41.fc2.com/blog-entry-659.html)。大変面白く読ませていただいており、このような事を申し上げて大変申し訳なく存じます。末筆ながら、ご健筆をお祈り申し上げます。
作者からの返信
おわああああああ!
海津湊の間違いでした!ご指摘ありがとうございます!
修正しました!
篠原大和守長政への応援コメント
いつも大変面白く読ませていただいております。
「久御山の陣」と使っておられますが、久御山町公式サイトhttp://www.town.kumiyama.lg.jp/contents_detail.php?frmId=374によりますと「昭和29年10月1日、久世郡の御牧村、佐山村の二村が合併して久御山町が誕生しました。」と言う事で、昭和期の合成地名であることが、判明します。歴史系で使うには、不適当に思われます。
末筆ながら作者様のご健勝ご健筆をお祈り申し上げます。
作者からの返信
ご指摘ありがとうございます!
調べた所仰る通りでした。ついでにこの辺りは乙訓郡ではなく久世郡でしたね。諸々修正しました!
府内崩れへの応援コメント
意図してのものであれば申し訳ございませんが、最終行と、最終行の9行前
「まったく、あのお方の無茶には慣れたと思っていたのだが……な。」が繰り返されているのは消し忘れではないでしょうか?