第4話 私とドラゴン1

「お嬢様、起きてください」



 聞き覚えのある声が、眠っている私の耳に入ってくる。キャシーさんだ。



 「…………ん……もう朝…………?」



 虚ろげな意識の中、掛けられた声に返事をする。



 「朝ですよ。そろそろ朝食のお時間ですよ」


 「……んん……」



 眠気が抜け切れてない体をゆっくりと起こす。



 (…………もっと寝ていたいなぁ……)



 睡眠時間は十分なはずなのに、体質故かベッドの性能故か、体を起こしてもまだ瞼が重い。



 「お嬢様、かなり眠そうなご様子ですね。食堂に向かわれる前に、まず顔を洗われてきてはいかがでしょうか?」


 「うん……そうする……」



 彼女に言われるがままに、私は洗面所へと向かった。


 この屋敷に来て既に3日が経つが、この3日間(正確に言えば昨日の屋敷探検)で屋敷内の部屋の配置を全て記憶したので、洗面所まで迷うことは無かった。


 洗面所に着き、顔を洗う。顔に当たる僅かに冷たい水が、程よく気持ちいい。



 (バシャン……)


 (フルフルフル……)



 水を浴びた犬のように顔を振る。そして蛇口を閉め、タオルで顔を拭く。ここだけ見ると、日本の朝と何も変わらないな。



 「……そう言えば、歯ブラシってどこ? さすがに洗面所には置いてあると思ったんだけど……」



 辺りを見回す。昨日や一昨日は、色々あって歯磨きができていなかったのを思い出したからだ。


 しかし、歯ブラシやそれに近しい物は見つからなかった。



 「…………もしかしてこの世界、歯磨きっていう習慣そのものが無い感じ? いやまさかな……」



 もう一度辺りを見回す。やはり歯ブラシはどこにも無い。


 私はかなり焦っていた。日本にいた頃も歯磨きは欠かさなかったので、歯磨きをしないで過ごすという事が到底考えられなかったからだ。



 「……とりあえず口は濯いでおくか。で、あとでお父さんとかキャシーさんに聞いてみよう」



 口を濯ぎ、足早に食堂へと向かう。


 食堂に着くと、既にお父さんたちを初めとした人達が、食卓に料理を準備していた。


 私は足早のまま、お父さんたちの食卓へと歩いた。食卓には既に、キャシーさんもついていた。


 使用人たちの食卓を掻い潜りながら辿りついた私は、早速キャシーさんに質問をした。



 「ねぇキャシーさん。歯ブラシって、どこかにあったりする?」


 「……おや、そういえばまだお嬢様の歯ブラシを取り出しておりませんでしたね。申し訳ございません。ただ今お持ち致しますので、少々お待ちください」



 席を外そうとするキャシーさんをすんでのところで止める。



 「あ、今じゃなくていいよ。食べ終わった時に出してくれれば」



 ……とりあえず、歯磨きの文化はあるようなのでホッとした。



 「……左様でございますか? かしこまりました、ではその時にお持ちして参りますね」


 「うん、ありがとう」



 その直後、食堂の扉が勢いよく開く。そしてそこには、何やら焦った様子の男性がいた。


 それを見たお父さんが一喝する。



 「何事だ騒がしい。今は食事の時間なのだから、もう少し静かにしてくれ」


 「も、申し訳ございませんラクドリア卿! しかし、どうしても伝えなければならない事がございまして……」



 そう焦る彼の体は高級そうな鎧を身に纏っており、王族らしき徽章きしょうが付いていた。


 彼の様子を見るに、どうやら彼は王国からの伝令なのだろう。



 「それは食事を一時中断してまでも伝えなければならない事か?」


 「はい。とても重要な事でございます」



 食事を中断してまで伝えなければならない重要な事? 一体何だろうか。



 「よしわかった。ひとまずここまで来い」


 「かしこまりました」



 そう言われて伝令は私たちの席まで歩いてくる。



 「アリシア、キャシー、先に食べてましょうか」


 「あ、うん。わかった」


 「かしこまりました、奥様」



 お母さんに言われ、私たちは先に食べ始める。と同時に、伝令が私たちの食卓に到着した。



 「それで、重要な事って何だ?」


 「実は王都に、“ドラゴン”が出没したようで……」


 「ドラゴン!?」



 私は驚きのあまり声を上げてしまった。私の声に、この場にいる全員が呆然としている。



 「あ……ごめんなさい……どうぞ続けてください……」



 申し訳無さを胸に秘め、私は再び料理を食べ始める。



 「……えと、ドラゴンですね。そのドラゴンが王都に出没したようで、王国側から討伐隊を派遣しました。で、そのドラゴンを捜索中、ある兵士がそれを見つけ、勇敢にも1人で戦い、激しい死闘の末に『龍封じの剣』を突き刺し撃退したそうです」



 人間とドラゴンがタイマン勝負した所で、普通はドラゴン側に軍配が上がるのに、命知らずな人だなぁ、と感じた。



 「いい話じゃないか。それのどこが重要な事なのだ」


 「それがですね、そのドラゴンの逃げ込んだ先が、丁度この屋敷の周辺地域なようです。いくら『龍封じの剣』が刺さっているとは言えど相手はドラゴンですから、最悪の場合この辺りで暴れるやもしれません」



 この近くにドラゴンがいるの? それって普通にやばくない?



 「ですので、私はこうしてクーゲルバウム家の皆様へ注意勧告及び避難指示、そして王国からの討伐隊の軍備拡張のしらせを持って参った次第でございます」


 「なるほど……ありがとう、心に留めておくよ。しかし、私たちは避難するつもりは無い。アリシアの記憶がまだ戻っていない中場所を移すのは本人のストレスになりかねんし、何よりうちには、戦いのエキスパートが私を含めかなりいるのでな」


 「しかし……」


 「何、心配は要らんさ。ここにいる精鋭達ならば、ドラゴンなんざ相手にもならないだろう」



 ……お父さん、意気揚々としてる所悪いんだけど、それ大体死亡フラグです。なんて口が裂けても言えない。


 話を聞きながら、私は静かにグラスの水を口に運ぶ。



 「お嬢様、お水をお注ぎ致しましょうか?」


 「いや、いい……」



 再びお父さんたちの話に耳を傾ける。



 「と言うのも、戦闘のプロフェッショナルがこの屋敷には沢山いるんだ。負ける要素なんか微塵も無い。仮に負けたとしても、私は死なんよ。私にはまだ、家族皆で平和になった世界を過ごすという夢があるから、死ぬわけには行かないんだ」



 誰かこの人の死亡フラグラッシュを止めて! いい加減止めないと、この人このまま死ぬよ!


 呆れ返っていた私を見たお母さんが、そっと声をかけてきた。



 「お父さんたちなら大丈夫よ。きっとドラゴン相手でも生き延びられるわ」


 ねぇこの人たち無意識系の馬鹿なの? 頼むからこれ以上死亡フラグを助長しないでくれ……


 そうこうしている内に、お父さん以外の全員は朝食を食べ終わった。キャシーさんがそそくさと片付け始めている。



 「あなた、早く朝食を召し上がるのよ。私は出かけてきますから」


 「あれ、お母さんどこに行くの?」


 「商売のお話とか、社交パーティとかに行くのよ。でも、アリシアにはまだ早いわね」



 公爵婦人って、一日中屋敷にいるわけじゃないのか。初めて知ったな。



 「それじゃあ私、出かける準備をしてくるわね」



 と言ってお母さんは食堂から出ていった。それを見計らってか、伝令も軽く会釈をして食堂から出ていった。



 「……なぁキャシー、悪いが私の朝食は保管しておいてくれないか? 朝食は帰ってから食べることにする」


 「かしこまりました、旦那様」



 そう言われたキャシーさんは、お父さんの朝食を全てどこかに持っていった。


 結局、お父さんは朝食を殆ど食べないまま席を立ったようだ。



 「お父さんもどこか出かけるの?」


 「仕事だよ。公爵として、ちゃんと仕事をしないといけなくてな」



 公爵の仕事……何をするのか全く見当がつかない。しかし私は、その中身まで聞こうとはしなかった。


 親2人が出かける。となると、だ。



 「じゃあ剣術も魔法も、今日は教えられないの?」


 「魔法がどうかは知らんが、剣術なら教えられそうな奴が使用人に1人いるな。彼の剣の腕はずば抜けているから、彼なら私の代わりになるはずだ」


 「彼?」



 また私の知らない名前が出てきそうな気がする。というか、ただでさえすごいお父さんの、その代わりになれる使用人とは一体……


 するとこの話を聞いていたヘンリーさんが、静かに会話に入ってきた。



 「失礼します。剣術の彼に御用があるのでしたら、わたくしの方からお呼び致しましょうか?」


 「ああヘンリーか。ぜひそうしてくれ」


 「では失礼します」



 ヘンリーさんが会釈をする。



 「ねえお父さん、その彼って一体どういうひt……あれ」



 そう言うや否や、ヘンリーさんはいつの間にか姿を晦ましていた。



 (速っ……)



 「よし、後のことは剣術の彼に任せよう。そろそろ私は出かけるよ」


 「え、あ、え? 行ってらっしゃい……?」


 「ああ、行ってくるよ。ちゃんと良い子にして待ってるんだぞ」



 と言いながら私の頭を撫でる。


 そんな子供じゃないんだから、と言おうとしたが、よくよく考えればこの体は子供の体型だったな。すっかり忘れてた。


 私の頭を撫でた後、お父さんはゆっくりと食堂から出ていった。


 そしてこの場には、私1人だけがぽつんと取り残された。


 周りにいた使用人たちは皆食べるのが早いのか、私が食べ終わった頃には既に2,3人程しか見かけなかった。


 改めてがらんとした食堂を見回す。食堂全体の雰囲気は明るいものの、どこか寂しい雰囲気が漂う。


 しばらくして、キャシーさんがまだ開けていない歯ブラシを片手にして戻ってきた。



 「お嬢様、先程は申し訳ございませんでした。わたくしの注意力が欠如していたが為に、この様な事態を引き起こしてしまって……」


 「いや、別に気にしてないよ。だって私、2年間ずっと寝てたんでしょ? それなら、私の歯ブラシが無いのも納得だからさ」


 「……本当にお優しいのですね。ありがとうございます」



 こちらこそ、と私はお礼を言い、歯ブラシを受け取った。そして洗面所に向かおうとした時、不意にキャシーさんが私を呼び止めた。



 「? どうかしたんですか?」


 「あいえ、大した事ではございません。ただ、執事長からこのような伝言を承っております」


 「伝言?」


 「はい。執事長は、『剣術の彼は、今日は屋敷にはおりませんでした。アリシア様のご期待に沿う事が出来ず、大変申し訳無い』と申しておりました」


 「あぁそう……まあでも、伝言ありがとね」


 「いえいえ、物のついでに頼まれただけですので……」



 毎度思うのだが、その“剣術の彼”とは一体誰なのだろう。せめて名前で呼んでほしい。



 「……そういえばキャシーさんって、その“剣術の人”の事、知ってるの?」


 「……そういう方がいらっしゃる、程度には存じております」


 「あーじゃあその人の事何も知らないんだ」


 「はい。しかしわたくしだけでなく、他の使用人の中にも彼の詳細を知る者はほぼいないかと。話によると彼は、あまりご自身の事を話されないようで。それに、彼の声を一度も聞いたことが無いと言う使用人も中にはいるぐらいですから……」


 「へえ……その人の特徴って、どんな感じなの?」


 「聞いたところによると、彼の目は細長で黒目、髪は長髪で整っており、また無愛想な感じとのことです」



 無口だけど剣の達人、それで細長い黒目に整った長髪か。私の頭にはどこぞの超有名な怪盗グループの内の一人が思い浮かんだ。


 またつまらぬ物を切ってしまった的な。


 あっ、あっちは刀の達人か。まあどっちも似たような物でしょ。



 「うん、教えてくれてありがとう」



 お礼を言った私は、再び洗面所へと向かった。


 洗面所に着いてすぐに今まで先延ばしになっていた歯磨きを丁寧に行った。




 歯磨きを終え自室に戻り、そのままベッドに倒れた。そして、暇だなぁ、と一人呟いた。



 「なんでこの部屋には本が無いんだろうなあ……あ〜暇だ……」



 この部屋には、全身の映る鏡、お洒落な掛時計、大きなクローゼットに大きなベッド、横幅の広い勉強机、デカいカーペットぐらいしか無く、本棚や本はどこにも見当たらない。



 「この世界にはスマホとかゲームとかねーもんな……せめて本さえあればな……」



 と言った瞬間、ある事を思い出す。



 「待てよ……本? そうだ本だ! あの人の部屋にだったらいくらでもあんじゃん!」



 あの人の部屋、すなわちアリシアのお父さんの部屋である。


 最高の閃きを得た私は居ても立ってもいられなくなり、すぐさまお父さんの部屋へと向かった。


 部屋の前に着き、扉を開けようとノブを回す。


 が、扉は開かない。どうやら鍵がかかっていたようだった。



 (ガチャガチャ)



 扉が開かない事を知った私は、深く落ち込んだ。



 「……マジか……」



 肩を落とし、ため息をつきながら自室へと戻る。


 再びベッドに倒れ、小さくため息をつく。そのまま私は、暫く寝転がりながら思案に耽っていた。


 すると突然、こんな事が気になるようになった。



 「……そういえばこの部屋の窓の外、見た事ないけどどうなってんだろ」



 そう思った私は窓の方へとゆっくり歩いていき、そして思いっきり窓を開けた。


 開けた途端、一陣の風が部屋の中へと舞い込んでくる。初夏を感じさせるような、爽やかな風だ。


 私は風を受けながら、手摺の方へと歩み寄る。


 窓の外には、少し広いバルコニーに一人用の椅子や机が置いてあり、目の前には広大な森が、眼下には庭と思しき草地が広がっていた。



 「……あの森も、もしかしてうちの敷地だったり?」



 そんな事を考えていると、私は目の前のあの森に興味が湧いてきた。



 「……いっそあの森を探検するのもありかもしんないな。どうせ家の中に居たってやること無いし」



 と言って、しばらく考え事をした。



 「…………よし、ここに居ても暇なだけだし、ちょっと行ってみるか」



 そう決意した私の足は、既に部屋の扉へと向かっていた。



 「あでも、道に迷ったりしたら、さすがにシャレになんないよな。あと怪物モンスターとかも出るかもしれんし、そういう意味では剣かナイフは持って行きたいな」



 しかしその願望はすぐに疑問に変わり、足も止まる。



 「でもキャシーさん、ナイフ貸してくれるかな? 『これは危険な物ですので、お嬢様にはお貸しできません』とか言いそう。で剣も、保管場所がどこかわかんないしな……」



 屋敷の中で剣の保管場所を知ってそうな人……お父さんと、例の剣術の達人ぐらいだろうか。



 「……一応、ヘンリーさんに聞いてみるか。でもどこにいんだろ」



 そうして再び扉に向けて歩き出す。


 さて、この無駄に広い屋敷の中からヘンリーさんを見つけ出すのに、一体どれくらいかかるだろうか。


 と思って扉を開けた矢先、その扉の向こうに丁度ヘンリーさんがいた……わけではなく、普通に執事の1人が歩いていた。


 私はその執事に質問をする。



 「すいません、ヘンリーさんがどこにいるかわかりますか?」


 「執事長ですか? この時間なら、男性使用人室で事務を執っていらっしゃると思いますよ」


 「そうですか、ありがとうございます」



 執事に軽く会釈をし、男性使用人室に向かう。


 それにしても、あのヘンリーさんが事務の仕事をするなんて……執事長って大変なんだな、と思う瞬間であった。


 それから屋敷内を歩き回り、私は男性使用人室の前に着いた。扉の質素な感じから察するに、更衣室のようなものなのだろう。


 扉をノックし、中からの声を待つ。


 するとしばらく経った後に扉が開き、ヘンリーさんが出てきた。



 「おやアリシア様、どうかなさいましたか?」


 「あの、ヘンリーさんに質問がありまして。剣がどこに保管されているか、ヘンリーさんはご存知ですか?」


 「2階奥の倉庫にございますが……何故に剣が必要なのですか?」



 今まで言ってなかったことだが、この屋敷は2階建てになっている。


 この男性使用人室や食堂は1階、両親や私の部屋は2階にある。階の行き来は、屋敷中央の大階段と屋敷両端の小階段を使って移動し、その階段には、使用人たちが動かすワゴンを考慮して階段脇にスロープが設けられている。


 まあ、だから何だって言われると、何も言い返せないが。



 「自主練がしたくて。それで剣を探していたんです」



 これは嘘。



 「それにいついかなる時も、どこから襲われるかもわからないので、最低限剣は持っておこうかなと」



 こっちは本当。



 「成程、そうでございましたか。では、お気をつけて」



 ヘンリーさんにお礼を言い、私は倉庫へ向かった。


 倉庫の中はきちんと整理されており、一目で物の場所がわかるような感じだった。中には骨董品や美術品のような物もあった。


 私はその中から少し小さい剣とその鞘を手に取り、屋敷の外へと駆け出した。




 外に出た私は、バルコニーから見えた森に向けて一目散に走っていた。きっと、興奮と期待が私を急かしていたのだろう。


 森の入口に着くと、まず中の暗さに驚いた。太陽はまだ真上には昇っていなかったが、それにしても朝とは思えないぐらい暗かった。


 かろうじて木漏れ日が森の中を照らしているので、右も左も分からないという事は無さそうだが、それでも不安は拭えない。



 「怖っ……何コレ……」



 思わずそう呟く。



 「まあ何でもいっか」



 状況を受け入れた私は剣を抜き、右手側にあった入口の木の幹に大きくX字の切り込みを入れた。更にその交点に向けて少し強力な『凍結フリーズ』を解き放った。


 一見すると何の意味も無い行動のように思われるが、勿論ちゃんと意味がある。


 いくら敷地内の森と言えど、迷う可能性は十分にある。なら、迷わない為の手段として目印を付けながら進むのが一番良いだろう。


 その方法が、【右手側に目印を等間隔に付けながら進む】である。何故右手側か、と聞かれたら、帰るのが楽になるから、と私は答える。帰る時は目印を左手側にしながら進めばいいだけだからだ。


 ちなみにこの方法は、入り組んだ洞窟や迷路なんかでも使うことができる、覚えておいて損は無いテクニックでもある。


 ゆっくりと森の中を進み、等間隔に右手側の木に印を付けていった。


 特に行く宛があったわけではないが、実際探険というのはそういうものだと私は思っている。




 しばらく森の中を進むと、気がついた時には既に辺りは明るくなっていた。木漏れ日の量でも増えたのだろうか。


 もう昼なのかなとか思ったがそうではないらしく、どうやらいつの間にか木があまり密集していないエリアに入っていたようだった。


 それでも私は歩を止めず、周りに注意しながら進んだ。勿論目印を付けながら。


 すると私は突然、何かにぶつかった。ずっと周りだけを見ていたものだから、肝心の前方向の注意力が散漫になっていたのかもしれない。



 (ドンッ)


 「痛っ……何だこれ?」



 巨大な岩かなんかにぶつかったのだと思い、私はぶつかった物の感触を確かめる。


 表面は光が乱反射しているのか、不規則に照っている。触り心地はザラザラでゴツゴツ。色は赤味がかった黒?で、例えるなら酸化した血のような色だった。



 「……岩じゃないよな……何だこれ」



 不意に上を見上げる。特に理由は無いが、敢えて言うならなんとなくだ。


 上を見上げた私は、“それ”を見て戦慄し、言葉を失った。


 巨大な目に、鋭く光る眼光。また鋭いのは眼光だけでなく、牙も鋭かった。それに長く太い角。


 ――“それ”はドラゴンだった。私はドラゴンと目が合ってしまったのだ。それに私が触っていたのは岩なんかではなく、そのドラゴンの足だった。


 ドラゴンは、ずっと私の方を睨んでいた。荒く深い呼吸をしながら。


 状況を理解した私は気付いた時には既に半歩後ずさっており、早口で謝ってもいた。



 「ごごごごごごごご、ごごめんなさい!!!! ドラゴンさんだって知っていればぶつかったりしませんでした!! いやそもそもこんな所にドラゴンさんが居ると知っていれば近づきすらしませんでした!! 確かに私からぶつかったのが悪いんですけど、でもこれは不可抗力みたいなものd」


 [おい、貴様]


 「ひゃ、ひゃい!!!!」



 ドラゴンの低い声が、私の頭の中に直接響いてくる。


 この瞬間、私は死を覚悟した。あ、終わった……と。



 [貴様、人間だな?]


 「は、はいそうです!!!!」



 私はきっと、喰われるか踏み潰されるんだろうな。あーあ、こうなるんだったら、もっとこの世界を満喫してみたかったな。


 しかし、私の答えに対するドラゴンの返答は意外なものだった。



 [貴様に1つ、頼みたい事があるのだが]


 「…………へっ?」



 この時の私は、まさしく鳩が豆鉄砲を食らったような、そんな感覚だった。



 [いや何、そう難しいものではない。我の背に刺さった、このつるぎを抜いて欲しいのだ]


 「つるぎ…………?」



 ドラゴンの背中に目を向けると、1本の剣が真っ直ぐ刺さっていた。深く刺さってはいないようだが、浅く刺さってもいなさそうだ。



 [そうだ。我の手では、このつるぎに届かんのだ。だからこそ、此処に来た貴様ならこのつるぎを抜く事ができるであろう?]



 まさかドラゴンから刺さった剣を抜いてくれ、なんて頼まれるとは。ある程度死やら怪我やらは覚悟していたつもりだったが、これは想定外だ。


 ……ん? 剣の刺さった、ドラゴン?


 ふと、朝にしていたあの話を思い出す。そしてその内容を踏まえて、恐る恐るドラゴンに質問する。



 「……あの、もしかして貴方は、王都に出没したドラゴンさんですか……? 『龍封じの剣』を刺されたという……」


 [『龍封じの剣』かどうかは知らぬが、人間の街に出向いたのは確かに我だな。その一件に関しては、誠に迷惑を掛けたと思っている]



 “迷惑を掛けた”? 一体どういうことだろうか。



 [しかしそうか、我に刺さったこのつるぎは、龍封じの魔法がかけられていたのか。成程それなら我の力が出せないのも納得だな]



 勝手に1匹で話を進めないでほしい。



 「あの……一体どういうことですか……? “迷惑を掛けた”とは……?」


 [ふむ、そうだな。その辺も踏まえて、少し我の話でもするとしよう……貴様も立ったままでは疲れるであろう、一先ず何処かに腰を掛けると良い]


 「あ、ありがとうございます……?」



 そう促されて、私は近くの手頃な岩に座った。とりあえず、持ってきた剣はここに置いておくか。


 あれ? このドラゴン、実は凄く良いドラゴンなのでは? それとも私をただ欺いているだけ?



 [あまり小気味良い話ではないが聞いてくれ……我の名はラヴィダ、生命を司る龍である。司る、と言っても大したものではないがな]


 「ラ“ビ”ダさんですか? それとも、ラ“ヴィ”ダさんですか?」


 [“ヴィ”であるが、我は別に呼び方など気にはせん]


 「いやでも、ちゃんとした名前で呼ばないと失礼ですから……それで、ラヴィダさんは何故王都に?」


 [人間の作るいに来たのだ。だが少々失敗・・してしまってな]


 「酒? 買う? 失敗?」



 私にはもう何が何だかわからなかった。



 [まるでわからない、という顔をしているな。無論その感情は至極当然のものだ]


 「私の考えている事が、わかるんですか?!」



 心を読まれたような気がしてドキッとした。がどうやら違ったらしい。



 [わかるも何も、既に顔に出ているではないか。貴様のその顔を見れば、貴様は今困惑しているというのが容易に読み取れるぞ]


 「あっ、そうだったんですね……すみません」


 [謝る必要など無いではないか。ともかく、これから我は貴様の疑問を晴らしてやる]



 このドラゴン、普通に優しいんだが。私の知ってるドラゴンは、もっと荒くれ者のイメージだったんだが……



 [貴様は今こう思っているのだろう? 『ドラゴンは人を襲う』と。その点は否定せぬし、事実我々ドラゴン種はそういう輩なのだ。だがドラゴン種の中でも、我は違う]


 「違う? 何がですか?」


 [我は人間は襲わない。むしろ我は、人間が好きなのだ]


 「人間が好き、なんですか?」


 [そうだ。我々ドラゴン種の殆どは、己よりも力の弱い種族を見下し、そやつらの命なんぞどうでも良いと考えている。同胞は皆、人間の事は都合の良い食糧でしかないと思っているのだ]


 「じゃあ、ラヴィダさんは生命を司っているから、人間を襲わないってことですか?」


 [いや違う。それは全く関係無い]



 関係無いのかよ! と叫びたい気持ちをぐっと抑え、再び質問をする。



 「ならどうして……?」


 [まず理由の1つに、人間の肉は不味い。我は人間を1度食べた事があるのだが、あれは本当に酷かった]



 仏肉って不味いんだ……



 [ショックを受けているようだな。ならその訳を教えてやろう。人間の飼う家畜が全て草食なのは何故だ? その肉が美味だからだ。狩猟で狗を狙わず兎を狙うのは何故だ? その肉が美味だからだ。肉食の獣が草食の獣を追うのは何故だ? その肉が美味だからだ。ここまでの流れを見てわかるように、草食獣肉は美味で、肉食獣肉は不味い。これが世界のことわりなのだ]



 なるほど……と私はいつの間にかその雑学に感心していた。言われてみれば、確かにそうかも?



 [人間は雑食だが、肉を食べる事の方が比較的多い。そうした点に於いて事実上人間は肉食であるから、人間の肉は不味い]


 [そ、そうなんですね……それで、他の理由というのは……?]


 [もう1つの理由、それは我が、人間の作る料理や娯楽が好物だからだ。特に人間の作る酒は誠に美味でな、たまに酒を買いに人間の街まで出向く事がある。おっと勘違いしないでほしいのだが、我はきちんと人間の定めた法に則って、人間の使う硬貨を持参して買っているぞ]


 「……ということは、ラヴィダさんは今回もお酒を買おうとした所を、王都の人に見られたと……?」


 [うむ、全くもってその通りだ。だが決してこの姿のまま買いに行った訳では無い。我は普段は、『人化』を使って買い物をしているのだ]


 「……人化? 人間になれるってことですか?」


 [そうだ。我のように強い力を持つドラゴン種は皆、この『人化』を持っているのだが、今の所これを使っているのは我のみだな]



 ここまでの話の内容を聞き、ようやく具体的な全体像が浮かび上がってきた。



 [しかし先の件に於いては、『人化』をいざしようとした矢先に、人間にこの姿を見られてしまってな]



 あー、うん。なんとなくそんな気はしてた。



 [無論我はドラゴン種であるから、人間達からすれば畏怖の対象であろう。つぶさに兵士の1人が来て、この龍封じの魔法がかけられたつるぎで応戦してきた。元々我は人間と争う為に来たのでは無いが故、軽く“あしらって”いたんだが向こうが中々の猛者でな、痛手を負ってしまったのだ。我が身を案じて撤退しようとした所に、このつるぎを刺されてしまった、という訳だ]



 “あしらって”とかのレベルじゃないよね。多分だけど、その戦った兵士って重症だよね。「死闘の末に」って伝令の人言っちゃってるからね。



 [この森へは自然療養で来ていてな。我の力は封じられているが故、せめて体力だけでも戻しておきたかったのだ]


 「なるほどそういうことだったんですね……ちなみに聞きますけど、そのお金の出処というのは一体……」


 [そんな物、人間の盗人から巻き上げているに決まっておるであろう。盗人から金品を取り上げた所で誰も悲しまないと、買い物へ出向いていた時に人間の兵士から聞いていたのでな]


 「あー……なるほど……」



 私も、お金が無くなったら盗賊からたかろうかな。もっとも、そうなることはしばらく無いだろうけど。



 [さて、長話が過ぎたようだな。そろそろ刺さったつるぎを抜いてはくれまいか]



 この短時間の間に、このドラゴンは良いドラゴンだというのがわかった。これなら、剣を抜いてあげてもいいかもしれないが、しかしそう上手くは行かない。



 「わかりましたけど……私の力では、その剣を抜くのは難しいと思いますよ……?」


 [それもそうか。ふむ……いや最悪、傷口を広げてでも抜いてくれればそれで良い]


 「本当に良いんですか……? いやでも、仮に剣が抜けたとしても、そこから更に血が出ますよ……?」



 ここでちょっとした豆知識を1つ。刃物が体に刺さっている時よりも、実は抜いた後の方が命を落とす確率が高い。


 と言うのも、そのままの状態でいれば刃物が蓋の代わりとなって、出血を抑えることができる。しかしそれを抜いてしまうと、傷口から一気に出血し死に至ることもあるのだ。



 [その様な事をよく知っておったな。だが我にその心配は無用だ]



 半ば不安ではあるが、ラヴィダさんの言葉を信じることにする。



 [さあ、頼んだぞ人間]



 私は岩から降り、ラヴィダさんの体を登る。ヘンリーさんから体術(の身体操術)を教わっていたおかげで、ラヴィダさんの体を楽に登ることができた。


 ラヴィダさんの背中は不安定ではあるものの、ギリギリ立てなくはない程度だった。私はバランスをとり、刺さっている剣に両手を掛ける。


 足に力を込め、ありったけの腕力で剣を思いっきり引っ張る。



 「……ぐぅ……ぐぐぅぅ……んんんーー!!」



 剣は動く気配を見せない。私の力が足りないのか、それとも余程固く締まっているのか。


 一度私は剣から手を離し、ラヴィダさんに質問をした。



 「……あの、本当に傷口を開いても良いんですか……?」


 [問題無い。許可する]


 「…………わかりました」



 意を決した私は再び剣に手を掛ける。今度は引っ張りながら、刃の方へ交互に倒そうとする。


 すると僅かながらに剣が動いたので、これなら行けると感じた。また更に一連の動作を繰り返していく。この間ラヴィダさんはただじっと耐え続けていた。


 そうしていく内に、剣は大分緩くなってきた。このまま勢いを着ければ抜けそうだ。



 「……ドォ……ッリャアアアアアア!!」


 (スポン)


 血を浴びた剣が、ようやく出てきた。


 (ドサッ)



 しかし剣は抜けたが、勢いあまって尻餅を着いてしまった。


 いたたた……と尻を擦りながらラヴィダさんの体を降りる。



 「ラヴィダさん、剣抜けましたよ!」


 [そうか、誠に感謝する]



 抜けた剣を見たラヴィダさんは、少しホッとしたように見えた。まあ、ドラゴンの表情自体はあまり変わってなさそうだけども……



 [これでようやく、我が力を使うことができるな……『超回復メガ・ヒール』!]



 その時、不思議な事が起こった!


 ラヴィダさんが詠唱すると、なんと見る見る内にラヴィダさんの傷が癒えていったではないか。


 体中にあった傷は、10秒もしない内に完全に消えてしまった。



 [……ふぅ]



 まるで傷付けられたこと自体が無かったかのように、ラヴィダさんの体はすっかり治っていた。



 【魔法:『超回復メガ・ヒール』を習得しました】



 あっ、そういえばすっかり忘れてた。目の前で魔法を見たから、自然と覚えちゃうんだった。



 [よし人間、今貴様が手にしているそのつるぎを、我の目の前まで持ってくるのだ]


 「えっ……? こ、こうですか?」



 そう言われて私は、持っていたこの『龍封じの剣』を差し出す。



 [うむ、それで良い]



 ラヴィダさんは、差し出された剣を咥えた。そして次の瞬間、驚愕するような事が目の前で起きた。



 (バッキッ!!)


 「!?」



 なんと、ラヴィダさんが咥えていた剣を噛み砕き始めたのだ。



 (バキッ……ボキッ……バキッ…………ペッ!!)


 (カランコロン……)



 『龍封じの剣』は粉々になり、変わり果てた姿で地面に転がった。


 私には一瞬、何をしているのかが理解できなかった。



 [よし、これで我の力は完全に復活したな。礼を言うぞ人間]


 「えっ、あっ、どうも……?」



 どうやら『龍封じの剣』にはある程度ドラゴンの力を吸収する効果を持っているようで、これを破壊するとドラゴンは完全に力を取り戻せるらしい。



 [……そうだ人間、貴様今時間はあるか?]


 「時間ですか? まぁありますけど……」


 [なら丁度良い。我の鍛錬に付き合ってはくれまいか]


 「……え? 鍛錬?」


 [久しく体を動かしていなかったのでな、体が鈍くなっておるのだ]



 つまりリハビリみたいなものか。



 「んー……わかりました、鍛錬に付き合います……ただ私が一方的に蹂躙される未来しか見えませんけど……」


 [その点は問題無い。我には『人化』があるが故、貴様と同等な戦力になるであろう]



 流れ的に考えるのであれば、多分私はこれから『人化』を目の当たりにするのだろう。しかし私は人間なので、恐らく特典の力をもってしても『人化』は習得できない気がする。


 『人化』が必要な場面と言えば、私が魔法で獣や龍に変えさせられ、そこから人間に戻る時に使うのだろうが、はたしてそんな限定的な場面がこの先訪れるのだろうか。



 [だが、その前にまず場所を移さねばな。ここでは狭すぎる。貴様も着いて来い]

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る