第2話 俺と少女

目が覚めると俺は、とても豪勢な部屋の、とても豪勢なベッドで寝ていた。


 両脇にカーテンが付いてて、1人で寝るには大きすぎるベッド。そこで寝ていたという事は、ここは貴族の屋敷なのだろうか?


 柔らかい布団に良質な枕、上質な寝具。これだけで、油断していたらすぐウトウトしそうだ。だがそんなわけにも行かない気がした。


 体を起こして、辺りを見回す。大きな窓や鏡、クローゼットなんかを見ただけで、この屋敷が如何にお金持ちかが想像出来る。


 ただこの部屋には俺1人しかいないらしい。


 そして俺は、本当に憑依出来てるのか気になって仕方が無かった。自分の手を見てみてもよくわからない。丁度そこに大きな鏡もあるし、自分の今の姿を見ておこう。


 と思って足を下ろそうとした矢先、部屋の扉が大きく開いた。



 「お嬢様、お身体を拭きに参りましt……えっ!?」



 入ってきたのは1人のメイドだった。タオルと水の入った桶を持ってきてたようだが、私の姿を見るやいなやそれらを勢いよく落としてしまった。



 「ご、ご、ごごご、ご主人様あああ!!!」



 メイドは床に落とした桶なんか気にもせず、慌てた様子で飛び出していった。と言うよりも、一目散に走っていった、の方が正しいか。


 俺にはこの状況がまるで理解出来なかった。ただ、メイドの言う“お嬢様”というのが俺のことを指しているのはすぐにわかった。


 とりあえず俺はベッドから降りて、メイドの落としていったタオルと桶を片付けた。


 濡れた床はまあタオルで拭けばいいでしょ。にしてもこのタオルの触り心地が凄くいい……


 拭き終わった俺は、それから部屋にあった鏡の前に立ち、初めて自分の姿を確認した。


 そこには、まだ10歳かそこいらの、長い金髪が凄く綺麗な美少女が立っていた。顔も凄く可愛い。


 手を挙げてみる。体を捻ってみる。その場でジャンプしてみる。鏡の中の美少女は、ものの見事に俺の動きと一致した。


 鏡に手を触れてみる。鏡の中の美少女も手を合わせる。ここで初めて、俺の体がこの女の子になっている事を実感した。



 「………………あ、ああー。あーあー。あめんぼ赤いなあいうえおー」



 声を出してみる。出たのは男の引っかかるような声じゃなく、しっかりと柔らかみのある女の子の声だった。


 俺、いや私は、女の子になる事が出来たんだ! そう思って私は凄く感銘を受けた。


 私は鏡の前に立ったまま、しばらく自分の姿に自惚うぬぼれていた。


 しばらくして、部屋の扉が勢いよく開いた。そこには先程のメイドの他に、綺麗な婦人と、メイドの言っていたご主人様とすぐわかるおじさんがいた。



 「おおアリシア……本当に、本当に……! 目が、覚めたんだな……!」



 おじさんと婦人は、泣きながら私に抱きついてきた。後ろにいたメイドも、涙を拭っている。


 私はこの状況に酷く困惑していた。詳しい説明が欲しかった。というか、ハグが苦しかった。



 「く、苦しい……一回、離して……」


 「お、おう、すまなかったな、アリシア。でもな、お前と、こうして話せているのが、私は凄く嬉しいんだ……」



 “アリシア”? ああこの子の名前か。へえ、結構いい名前じゃん。



 「……あの、ベッド、入っても良い? 立ったままだと疲れちゃうから、ベッドで話したいな」



 喋り方が不自然にならないように、落ち着いて話す。やっぱり自分の声にまだ慣れない。



 「ああ、構わないぞ。私も、アリシアに話したい事が沢山あるんだ」


 「お母さんたちね、アリシアが起きるのをずっと待ってたのよ。その間、色んなことがあってね……」



 起きるのを待ってた? この子は眠り病にでもなってたのかな。


 で、“お母さん”って事は、こっちのおじさんが私のお父さん?



 「それで、何から話したものか……何せアリシアとこうして話せるのが久しぶりだからな……」


 「そうね……何から話そうかしら」



 何となくだけど、状況はわかってきた。でもまだ根本的な事は何もわからないのに変わりは無い。こうなったら……



 「……っ! 頭が、痛い……」


 「お、おい! 大丈夫か!!」


 「大丈夫?! アリシア!!」


 「だ、大丈夫……ありがとう……」



 勿論これは演技である。実際に頭は痛くなんかないし、元から大丈夫なのだ。


 ネカマと言い、演技研究と言い、まさかこんな所で役に立つとは思いもしなかった。


 とりあえず、情報を引き出す為に演技を続けることにする。



 「それよりも……ここは、どこ……? 貴方たちは、誰……? 私は一体……?」


 「そんな!? アリシア、私たちの事、覚えてないのか!?」


 「……? ……ごめんなさい……記憶が、全然無くて……」



 勿論これも演技である。私が水野爽だった時の記憶はバッチリ覚えている。しかしこの世界についての知識や見聞が無いのは事実である。


 多分、私を心配しているのはお父さんとお母さん、それに使用人なんだろうが、推測で事を進めるより事実確認をした方が遥かに良い。


 まあ、記憶が無いってことでこの人たちは悲しむかもしれないけど。



 「……もしかして貴方は、私のお父さん……?」


 「ああそうだ! アリシア、お前のパパだよ!!!」


 「……お母さん……?」


 「ええ、そうよ!!!」


 「やっぱり、そうなんだ……でも、私、お父さんたちの名前、思い出せないし、自分の事もわかんなくて……」


 「ああっ、なんてこと……!」


 「クソ、後遺症がこんなに厄介だったとは!」



 後遺症? やっぱり私、病気になってたのかな。と言うより、怪我?



 「……私に何かあったの…? あと、私って、一体誰なの……?」


 「………………お前、記憶が、無いんだな。じゃあ、全部話すしかないのか」


 (……ゴクリ)


 「……まず、お前の名前はアリシア・クーゲルバウム。私ラクドリア・クーゲルバウムと、お前の母さんヴェルミア・クーゲルバウムから生まれた、私たちの娘であり、クーゲルバウム家の次期当主だ」


 「クーゲルバウム家……?」


 「私たち貴族の持つ家柄の名前だ。パパは侯爵だから、結構な力があるんだ」



 こうしゃく? それって、どのくらい凄かったっけ。



 「で、アリシアの誕生日は2月17日、年齢は10歳」


 「うん、それで、私に何かあったの……?」


 「………………2年前の話だ。家族全員で、この近辺にあるウルレオ山にピクニックに出かけた時……私たちは、峡谷沿いにある小さな野原で昼食を取っていたんだ。一足先に食べ終わったお前は、花を取りに行くと言って崖の方へ走っていった。その時、強い突風が吹いてきてな。風にあおられたお前は、足を滑らせてそのまま崖下に……」


 「……!」


 「すぐに王国屈指の魔術師たちに回復魔法・蘇生魔法をかけてもらって、王国屈指の医療技術でなんとか一命は取り留めたんだがな……それ以来、今日までお前は目を覚まさなかったんだ……」


 「………………」



 驚愕の事実に私は絶句していた。そんな悲しい事故がこの子の身に起きていたなんて……!


 ということは、この子は一度死んだけど、肉体的にはまだ生きているから、そこに私が憑依した形になった、という感じか。うーむ。



 「じゃあ、私、一度死んだんだ……」


 「ああ……。だから、私たちは、ずっと、お前が目を覚ますのを待っていたんだ。いつか絶対に目が覚めると信じてな……」


 「………………」



 お父さんやお母さん、それにメイドたちの味わった絶望は察するに余りあった。話を聞いてて私は、何だか虚しくなってきた。



 「……そんな事が、起きてたんだね」


 「……他に知りたい事は無いか? 何でも教えてやるぞ」


 「……ごめんなさい、私、本当に何も憶えてないの。ここがどういう所なのかもわからないし、ここでの一般常識も……」


 「何も憶えてない? どのくらい憶えてないんだ?」


 「全部、かもしれない……」


 「私たちとの思い出は?」


 「憶えてない……」


 「私たちから魔法を教わったのも、忘れたのか?」


 「……魔法? 魔法って、何……?」


 「なっ……!?」



 再三言うようだが、これも演技である。アニメ好きな私が、魔法とは何かぐらい知ってるし、今更言われなくてもわかってる。


 しかし、この世界における魔法がどんなものかは知らない。お父さんたちの驚きぶりから察するに、この世界での教養の1つなのだろう。



 「魔法を知らない……? いやまさか、そんな事あるわけがないだろう……?」


 「ええそうよ。そんな事あるわけがないわ」



 そんな事があるんです。


 お父さんたちは顔に作り笑いを浮かべ、お互いに顔を合わせていた。



 「なあアリシア、『浄水生成クリエイト・ウォーター』だ。今ここで、『浄水生成クリエイト・ウォーター』をしてみてくれ。お前水魔法に適性があっただろう? 久しぶりにお前の『浄水生成クリエイト・ウォーター』が見てみたい」


 「えっ」



水魔法、ということは、他にも色々な属性の魔法があるということ。適性、つまりその系統の魔法を上手に使いこなせる……ということなのだろうか。


 いや問題はそこじゃない。私はそもそも魔法のやり方すら知らないのに、いきなりやれと言われても……



 「……どうやるの?」


 「どう、と言われてもな。いつもみたいに手を合わせて魔法を唱えるだけじゃないか」



 その“いつも”を私は知らないんだって!


 まあでもしょうがない。お父さんの言われた通りにしてみるか。


 手を胸の前に合わせ、水よ出ろ! と念じてみる。何も起きない。



 「ク、『浄水生成クリエイト・ウォーター』……!」



 口に出してみる。勿論何も起きない。



 「……お父さん、何も起きないよ?」


 「なっ…………そんな馬鹿な!!! アリシア、お前本当に、魔法を忘れてしまったのか!?」



 この光景を見たお父さんやお母さん、それにメイドですら、驚き、困惑していた。お母さんはそのまま泣き出してしまった。


 だってできないんだもん。しょうがないじゃん。


 しばしの沈黙の間、お父さんが口を開ける。



「………………一度、私たちには気持ちの整理が必要みたいだ。明日から、また話そうじゃないか。アリシア、今日はもう寝た方がいい……」



 言われて初めて気づいたが、窓の外はすっかり闇に覆われている。



 「うん、そうする。でも私、お風呂に入りたい」


 「ああ、浴場か。場所も憶えてないか?それならキャシーに案内してもらおう」


 「キャシー? キャシーって、もしかしてそこにいるメイドさん?」


 「そうだ。で、彼女ならお前の体も洗ってくれるだろう」


 「案内だけで大丈夫だよ。体は自分で洗える」


 「そ、そうか……」



 いくら体が小さいからって、体を洗うくらいは自分でできるのだが、貴族のお嬢様は体を洗ってもらうのが普通なのだろうか。


 ベッドを降り、扉の傍にいるメイドに近づく。



 「じゃあ、えっと……キャシーさん? それとも、メイドさんって呼べばいいの……?」



 急に話しかけられたからか、メイドは困惑した表情を見せる。と思いきや、すぐに表情を変え優しく語りかけてくる。



 「え? あ……あー、そうですね。お嬢様の好きなようにお呼びください」



 先程の驚きぶりとはうって変わり、今は落ち着いた様子を見せている。メイド故の性質なのだろうか。メイドって難儀なものだなあ。



 「だったらキャシーさんって呼ばせてもらうね。キャシーさん、私をお風呂に連れてってほしいな」


 「はい、どうぞこちらに……」




 そうして私はキャシーさんに手を引かれるままついて行き、洗面所に到着した。


 籠を用意して、服を脱ごうとする。



 「お洋服、脱がすのをお手伝い致しますよ」


 「大丈夫、自分ででき……あれ、脱げない」



 貴族のお嬢様の服装は一般人とは違い、紐やチャック等至る所がめんどくさい仕様になっている。



 「んぎぎ……脱げなぃ……んんーっ!!」


 「お嬢様、無理ですよ。お洋服を1人で脱ぐなんて事できません。どうぞ、わたくしどもを頼ってください」


 「うう……それじゃあ、お願いします……」



 紐を解いたり、チャックを下ろす動作は完全に手馴れていた。下着だけになるのに、10秒もかからなかった。



 「あ、ここから先は自分で出来るよ」


 「かしこまりました」



 それに比べ、下着を脱ぐ私の手はキャシーさんとは正反対だった。下はともかく、上を脱ぐ手は見てわかるほどぎこちなかった。


 まずこの異世界で身につけるべきは、魔法でもこの世界の知識でもなく、「女性服の正しい着方」だなと酷く痛感した瞬間だった。


 あ、あと化粧の仕方も身につけないと。女子って大変。


 こうしてなんとか服を脱いだ私は、期待を胸に浴場の扉を開ける。


 クーゲルバウム家は名のある貴族家らしく、それを表すかのように浴場も相当広く作られていた。学校の体育館ぐらいの大きさはゆうにありそうだ。



 「ひ、広い……」



 貴族の浴場を初めて目の当たりにした私は、驚きを隠すことができなかった。


 こうなるとこの家の敷地がどのくらいあるのかも気になるところではある。



 「ではお嬢様、こちらにどうぞ」



 キャシーさんはいつの間にか、私の体を洗う為に軽装になっていた。リンス類も用意している。


 異世界のお風呂文化というのはどのようなものかと興味を持っていたが、基本的な事は日本とほとんど変わらないようだ。


 まず、蛇口を捻って、シャワーで汗を流し、ソープとかで体を洗う。シャンプーを使って髪を洗い、あとは泡を流してお風呂に浸かる。あがったら、再びシャワーで流す。


 にしてもこの世界に蛇口やシャワー、リンスなんかが存在するのか。まあリンスやシャンプーの入った容器はガラス瓶だけど。そしてちゃっかり、石でできた風呂椅子もある。


 この世界ってプラスチックは無いのか。


 そんな事を考えながら、私はキャシーさんの前の椅子に座る。目の前の大きな鏡が私の肩を映している。



 「お背中をお流し致しますね」


 「あ、待って。体は自分でやりたいから、髪の方をやってほしいんだけど……」


 「よろしいのですか? では、タオルと石鹸溶液、水桶を渡しておきますね」



 なんだろう。お風呂の文化まで日本と似ているものだから、私は本当に異世界に来たのか疑問に思えてくる。


 鏡越しにキャシーさんが私の髪を洗っている。それをじっと見つめる私。


 貰った特典の通り、【一度見たスキルを習得できる】のなら、一流の腕を持つメイドさんから髪を洗う技術をコピーするのが手っ取り早い。多分覚えられると思うけど。



 「……キャシーさんって、髪洗うの上手だよね」



 沈黙に耐えかねた私は、露骨に話題を作った。



 「いえいえ、滅相もございません。わたくしなんてまだまだ未熟、修行中の身ですから」


 「謙遜しなくていいよ。上手いのは事実だし」


 「……お褒めに預かり光栄です、お嬢様」



 といった感じではあるが、鏡を堂々と凝視できる口実は取り付けられた。これなら、いくら見ていても不自然にはならない。


 それにしても、キャシーさんの髪を洗う技術は本当に素晴らしかった。彼女なら美容院でもやっていけるのではないだろうか。


 鏡の中の彼女を見ていると、涙を流しているようにも見えた。もしかしたら、鏡に付いてた水滴がそういう風に見えただけかもしれないけど。


 でもきっと、彼女は泣いていたに違いない。そう思えるくらいに、私は確信していた。


 私が目覚めるまでの2年間、彼女は植物状態だった私の体をずっと拭き続けてきたのだろう。それが今は、生きた私の体を洗っている。


 やっぱり、嬉しかったんだな。愛されてたんだな。と、改めて実感した。



 「お嬢様、髪を洗い終えましたよ。……あら? お嬢様、まだお身体を洗われておりませんでしたか。わたくしがお手伝い致しましょうか?」


 「あ、ごめんなさい。キャシーさんがあまりにも髪を洗うのが上手いから、見惚れちゃった」



 まあ実際は髪洗いの技術を学ぶ為にずっと見ていたわけだが。



 「それじゃあ、背中をお願いしようかな」


 「かしこまりました。痛かったらお申し付けください」



 それにしてもこの体、本当に小さいなあ。成長期の最中といったところだろうか。


 それに、肌に触れるタオルや泡の感触から、本当に自分が女になったっていうのが未だに信じられない。


 体についた泡を洗い流すと、私はキャシーさんに1つの質問をした。どうしても気になってた事が一つだけあったからだ。



 「そういえば、キャシーさんも魔法が使えたりするの?」


 「そうですね。簡単な下級魔法程度なら、わたくしでも扱うことができます」


 「……わたくし“でも”? それって、どういうこと?」


 「元々私わたくしたち侍女は、幼い頃から貴族の方々に仕えておりました。その為、魔法を始めとする教養や学問等を身につけて来なかったのです。しかし下級魔法程度であれば、要領さえ掴めばどなたでも使うことが可能になりますよ」


 「へえ、そうなんだ」



 下級魔法か。まあ覚えておいて損は無いかな。もしかしたら、応用次第では強いスキルになるかもしれないし。


 こうなったらもうどんな下級魔法があるのか聞かずにはいられない。1つだけと言ったな。あれは嘘だ。



 「ねえ、下級魔法には何があるの? 今できる?」


 「お嬢様、侍女の使う魔法なんて覚えなくていいですし、覚える必要もございませんよ?」



 この話をした途端、急にキャシーさんの声色が変わった。今までの優しい感じではなく、威圧感のあるような低い声になっている。



 「それに、わたくしどもの魔法はそもそも利用価値が薄いものばかりなので……」


 「えー、いいじゃん。私が知りたいんだよ」


 「ダメなものはダメです」


 「教えてよお」


 「貴女様みたいな高貴なお方が、侍女の使う下賎な魔法なんぞ覚えるべきではございません」



 しばらくお互いに譲らない状態が続いた。そして、先に折れたのはキャシーさんの方だった。



 「……どうしても教えてくれないの?」


 「……はあ、そこまで仰られるのであれば、また後日お見せ致しますね……」


 「よっし!」



 小声で、小さくガッツポーズをした。魔法を習得する機会を手に入れられたのが嬉しかったのだ。



 「お嬢様? 何か、仰られましたか?」


 「あ、ううん、なんでもない。なんでもないよ。ありがとね」


 「?」



 危ないところだった。今は貴族のお嬢様なんだから、もう少し品行を良くしないと。



 「では、わたくしはこれで失礼致します。私は外でお待ちしておりますので、どうぞごゆっくりなさってください」


 「うん、本当にありがとう」


 「いえいえ、お嬢様の身の回りの世話をさせてもらえることこそが、わたくしのこの上ない至福でございますので……」



 そう言ってキャシーさんは、軽く会釈をして浴場から出ていった。


 キャシーさんも出ていった事だし、さて……


 鏡に映る自分の姿をまじまじと見つめる。洗っている時は座ってたから肩から下が映っていなかったけど、これくらい大きな鏡なら立てば全身は映りそうだ。


 立って自分の姿を確認する。そこには、成長期の少女の裸体がはっきりと映っていた。


 いくら少女の裸体とは言え、異性の体であることに違いは無い。それだけで、男子高校生にとっては刺激が強すぎる。しかもかなりの美少女ときた。



 「……綺麗な体…………だけど、やっぱりなんか……あれだよな……」



 ずっと見ていると、やはり恥ずかしくなってくる。それとは裏腹に、私の右手は自然と胸へと伸びている。



 (ふにっ)



 自分の胸を軽く揉む。



 「……ああやっぱり、柔らかいな……」



 この時の私…俺は新鮮な気持ちでいっぱいだった。男子が持つ、至極当たり前な感情である。



 「………………ああダメダメダメ! これから俺は女として生きていくんだから、少しは女子の体にも慣れとかんといかん!!!」



 鏡の自分を見ていると、一瞬ここには載せられないような事をしようかと思ったが、理性がそれを止めて俺を冷静にした。


 そしてそのまま誤魔化すように、足早に湯船へと向かった。


 ……さっきの独り言、キャシーさんに聞かれてないよな……? いや、聞かれてない……はず。



 (ちゃぷん)



 そっと体を湯船に浸す。入ってすぐに、心地良さを感じてきた。



 「………………はあ」



 静かに吐息を漏らす。と同時に、色々な事が頭を巡る。


 異世界に来た実感は無いが、俺が女の子になったのは確かだ。それだけで、期待と共に不安が押し寄せてくる。



 「……俺、この先やっていけんのかなあ?」



 温まっていた俺の口から自然と不安が零れた。本当に強くなれるのか、というのもあったからかもしれない。


 にしても、女の子の可愛い声なのに男らしい話し方をしている事がとても奇妙に思えた。凄く今更だけど。


 そういえば、さっきお父さんがこんな事を言っていたのをふと思い出した。



 「お前は魔法に適性があっただろう?」



 あの時は、ただ何となく聞いていただけだったけど、もしかしたらこれも実はネフティス様の謀らいだったのでは?


 と言うのも、俺の元の名前は“水野爽”。それっぽい漢字を宛てると“水の相”。いかにも水属性っぽい感じの名前だ。


 もしネフティス様が俺の名前も加味して憑依先を決めてくださったのだとしたら、この名前を付けてくれた親に感謝だな。


 水魔法、かあ。水流・氷・泡とかかな?



 「……水魔法に適性があるんだったら、この風呂の水も操れたりすんのかな……」



 俺の憑依先になったこの子、つまりアリシア自体が水魔法に長けていたのだとしたら、もしかしたらまだその余韻がこの体に残っているかもしれない。


 もしそうなら、やってみたい事がある。


 右手に念を込め、そして……



 「………………唸れ水流! 轟け渦潮! 今目の前に、その姿を顕現せよ! 『浄水龍ウォーター・ドラゴン』!!!」


 (ビシッ)



 右手を思いっきり前に突き出す。これだけ聞けば、なんとなくありそうな感じの魔法詠唱だ。実際にこんな魔法があるのかどうかはさて置きとして。


 浴場内に声が反響する。水面を見ても何も起きない。もちろん手から何かが出てきたわけでもない。



 「……まあ、そりゃそうだよなー。ははは」



 ほんのちょっとだけ期待してたのにっ。あくまで、ほんのちょっとだけ、だけど。



 「ああでもあれかな。『浄水生成クリエイト・ウォーター』をメチャクチャ強くすれば、『浄水龍ウォーター・ドラゴン』も使えるようになるのでは?」



 確かに、この貰った特典を上手く使えば、『浄水生成クリエイト・ウォーター』から『浄水龍ウォーター・ドラゴン』を作り出せそうな気がする。



 「……よし、じゃあこの世界での最初の目標は、【『浄水龍ウォーター・ドラゴン』を覚えること】だな!」



 異世界の最初の目標を掲げて、意気揚々とする。



 「……元々あったら、そっち覚えればいっか。さて、と……」



 そろそろ風呂からあがるとするか。いつまでもキャシーさんを待たせるわけにはいかないし。


 キャシーさんに俺の……もとい私の独り言を聞かれてなければいいけど。


 浴場から出る前に、私は声を調える。



 「お嬢様、お風呂はいかがでしたか?」



 浴場の外に出ると、着替えを持ったキャシーさんが待っていた。



 「うん、凄く良かったよ。それで、キャシーさんに聞きたい事があるんだけど……」


 「はい、何でしょうか?」



 どうしても気になって仕方が無かった。聞かなければはずかしめを受ける事も無かったんだろうが、それでも聞かずにはいられない。



 「あの、その……中から、声、とか…………聞こえてたりとかは……」


 「中からですか? いえ、特に何も聞こえませんでしたけれど、それが何か……?」


 「あ、ううんなんでもない! そっか聞こえてなかったんだ……! ………………本当に、何も聞こえてない?」


 「はい、本当に何も聞こえませんでしたが……」


 「よかった……!」


 「?」



 危ないところだった。もし聞かれていたら、私は恥ずかしさに耐えられず、そのまま家を飛び出していたかもしれない。



 「……変なお嬢様ですね。では、髪とお洋服を……」



 そうしてキャシーさんに髪をとかしてもらったり、着替えを手伝ってもらったりして時間が過ぎていった。


 勿論、洗面所の鏡越しにキャシーさんの髪とかしの技を習得したのは言うまでもなく。


 一通り終わるとわかる、髪や服の綺麗さ。ここまで来ると、キャシーさんさすがとしか言いようが無かった。



 「終わりましたね。ではお部屋に戻られましょうか」


 「何から何までありがとね。本当に」


 「いえいえ。何度も申すことでございますが、お嬢様の身の回りの世話をさせてもらえることこそが、わたくしのこの上ない至福でございますから」


 「そっか、そうだよね」



 やっぱり、メイドって難儀なものだなあ。


 そう思いながら、私はキャシーさんに手をひかれながら自室へと戻っていった。


 というか、あれ自分の部屋だったのか。いやいくらなんでも自分の部屋にしては広すぎるでしょ……


 この家どれだけ金持ってるんだよ、ほんとに……はあ。



 「……お嬢様、先程わたくしが部屋に零した水を拭いてくださったのは、もしかしてお嬢様ですか?」


 「え? あ、うんそうだけど……」


 「誠に申し訳ございません、お嬢様。そして、私の代わりに拭いてくださってありがとうございます」


 「謝らなくていいよ。しょうがない事故みたいなものなんだし」


 「……お嬢様はお優しいですね、本当に……」



 メイドってこう自責の念でも強いのだろうか。




 そうこうしている内に、部屋の前まで戻ってきた。10歳の体からしたら、この部屋の扉はかなり大きく見えた。



 「着きましたよ、お嬢様」



 既にお父さんたちの姿は無い。もうそれぞれが自分の部屋にでも戻ったのだろう。



 「それでは、お布団のご用意を……」


 「あ、それは大丈夫。自分で出来るよ」


 「左様でございますか。ではお嬢様、おやすみなさいませ。失礼します」


 「うん、おやすみ〜」



 私が寝ていたベッドに再び入る。それを見届けてからか、キャシーさんがパチッ、と部屋の電気?を消す。一瞬にして辺りは暗闇に包まれ、部屋の扉は閉じた。


 そうして私は横になり、ベッドについた天井を見つめ、思索にふける。


 思い返せば、今日だけでも色々な事が起きたなあ。


 トラックに轢かれ、ネフティス様に会い、女の子として転生する。


 ……うん、文面だけで見ると、とてつもなく意味が不明だな、これ。


 深く考えててもしょうがない。とりあえず今は、目を瞑って眠る準備をしよう。そして、明日からの生活に備えよう。



 「あっ……凄い……このベッド、すぐ寝れs………………スゥ」

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