8

 平日が終わり土曜日の朝がきた。

 出掛けるまでにはまだ時間があったので、溜まっていた家事をしてしまおうと洗濯をしながら散らかった部屋を片付けた。

 ここ1ヶ月程まともに掃除もしていないせいで、あちこちに本の山が出来ていた。まずはそれらを読んだものと読んでいないものに分け、それを元の位置に戻していく。圧倒的に本の量に本棚が足りないのだが、なぜか本棚が好きではないので──まったく致命的だ──本置き場として買ったアンティークの椅子の上にそれを積み上げていった。なんのことはない、床から持ち上げただけなのだ。

 床が見えてきた。掃除機でもかけるかと見回すと、部屋の隅に放り出されたままだった旅行鞄に目が留まった。

 M市に行った時に使ったものだ。あれから放り出したまま、そういえば中に本を入れっぱなしにしていたのだと思い出した。結局読みかけてそのままだ。

 思い出すと読みたくなり、僕は鞄の中をあさって、本を探した。

 本は内ポケットの中に入っていた。取り出そうとしたとき、何かが一緒に指先に引っ掛かる。

 何だ?

 柔らかい、ティッシュ?

 丸めた──

 摘まんだ指の間からティッシュがほどけ、転がり出た何かが、ことん、と床の上に落ちた。

「──」

 どうして僕は、これを捨てなかったのだろう?

 廊下の奥から洗濯が終った音が鳴った。

 ピンク色のそれは、あの老婆の入れ歯だった。



 この間と同じ路線に乗り、茅山の家を目指した。

 午後の日差しが電車の窓から眩しいほどに入ってくる。

 手の中の本を見るともなしに見つめる。字を追ってはいるが、頭の中は別の事を考えていた。辿る文章は上滑りして、僕の中をすり抜けていく。

 目的地に近づくごとに僕は言いようのない不安に駆られた。

 茅山の遺品の中にあったという僕のもの…

 それは何だ?

 茅山の奥さんはそれを聞いたとき、言葉を濁していた。

『見てもらいたいんです、あなたに』

 窓の外を流れる景色を眺めながら、僕はその事ばかりを考えていた。



 携帯で地図を確認しながら、教えてもらった住所まで歩いて行くことにした。途中、通夜の夜に藤川と通った橋を渡る。

 あのとき、反対側の歩道には常盤の姿があった。

 見間違いだったのかもしれないが、もうどうでもいいことだ。

 ぼんやりと歩きながらそこに目を向ける。

 高校生くらいの男女が笑いながら歩いていて、思わず苦笑した。

 橋を渡り切り、その先の交差点を右に折れる。いくつかの曲がり角に注意しながら進んでいくと住宅街に入った。番地を確認して、何度か行ったり来たりを繰り返して、ようやく茅山の家を見つけ出した。

 二階建ての一軒家だ。玄関の横に小さな庭があり、腰までの柵で囲まれている。柵に這うように植えらえた木香薔薇モッコウバラの枝はきれいに揃えられていた。庭の隅にバケツがひとつ転がっている。

 その青さがやけに目についた。

 玄関の外門につけられたインターホンを押す。

 ややあって、相手が出た。

『──はい』

「こんにちは、久我です」

 ガチャ、とロックが外れた。

『どうぞ、お待ちしてました』と茅山の妻が言った。

 玄関を入ると、小さな子供がたたっと奥から走って来て、僕を見て首を傾げた。目元が茅山に似ている。通夜の時にも見た、茅山の5歳になる息子だった。

「こんにちは」と僕は言った。

「こんにちは」

 僕が笑いかけるとその子もはにかむように笑った。軽い足音がして、茅山の妻が出て来た。

「久我さん」

 彼女は子供の頭を撫でながら、じっと僕を見つめた。

 少し痩せただろうか。通夜で見たときよりもその表情は暗かった。無理もない、まだこんな小さな子供がいるのに。

「すみません、わざわざ」

「いえ。こちらこそご連絡いただきまして」

「どうぞ上がってください」

 促されるまま僕は家に上がった。

 茅山の遺影に線香をあげた後、その奥へと導かれる。

 通されたリビングは子供のおもちゃが散乱していて、足の踏み場もないほどだった。僕の本の平積みと似たようなものか。慎重にそれらを避けながら、僕は勧められたソファに腰を下ろした。

 ソファは温かかった。

 ついさっきまで、彼女はここで横になっていたのかもしれなかった。

「これあげる」

 小さな手が、恐る恐る座る僕の膝の上に木で出来た汽車のおもちゃを置いた。「これもね」とまたひとつくれる。

「ありがとう。これ、なんていうの?」

「とーますだよ、こっちはねえ、ごーどん」

「そうなんだ?」どちらも青い蒸気機関車だ。丸い顔が付いている。いつも遊んでいるのだろう、角が取れて、あちこちに傷があった。「どっちが速いのかな?」

「あのね、ごーどんだよ!」

 きらきらとした目で子供は僕を見上げ、僕の膝を掴んで揺さぶった。

「僕はナオっていうんだけど、きみは何て名前なの?」と僕は聞いた。

 子供はにこっと笑った。

「イク」

 子供がそう言ったとき、茅山の妻がお盆を手にやって来た。

「郁、手を離しなさい。駄目でしょう」

 お客さんが困っているでしょ、と言われて、郁は渋々といった様子で僕から手を離した。

「お母さん、お話があるから遊んでてね」

 ソファの前のローテーブルに飲み物を置きながら、彼女は郁に言った。林檎ジュースの入ったコップを置くと、郁は僕から離れコップに差されたストローに口をつけた。

「散らかっててすみません」

「いえ、小さな子がいればどこもそうですよ」

 そう言うと、茅山の妻はジュースを飲む郁を見つめながら、ふっと笑った。そしてゆっくりと僕の方を向き、飲み物を勧め、向かいのソファに座った。

「久我さんのことは、杉内さんに聞いたんです」

 ええ、と僕は頷いた。

「主人とは親しかったそうですね」

 杉内さんがどんなふうに言ったのかは知らないが、間違ってはいなかった。

「はい。茅山さんにはお世話になりました。寮も隣だったのでよくしていただいて…」

 そうですか、と茅山の妻は呟いた。

 一瞬、奇妙な間が空いた。

「…ナオさんって、仰るんですか?」

「え?」

 出された紅茶に口をつけようとして、僕は顔を上げた。

 目が合った。

「お名前、ナオさんというんですか?」

 郁との会話を聞いていたのだろう。

 そうです、と僕は答えた。

 ふふ、と茅山の妻は笑った。

「女の人みたい」

 うなじが強張った。

 彼女は目を伏せて、自分の紅茶をひと口飲んだ。

「女の人に間違われません?」

 確かに。

 名前でだけなら何度かそういうことはあった。僕は曖昧に頷いた。

「ええ、まあ…そういうことも、たまに」

「でしょうね」

 明らかに彼女の言葉には棘があった。隠すことのない剥き出しの鋭い棘が。それが彼女の口から解き放たれ、見えない牙となって僕を貫こうとしている。

 今にも──首筋を食い破られそうだ。

 そんなふうにされる覚えはまるでなかった。

「あなたなの?」

 茅山の妻は僕を睨みつけていた。

 その目にははっきりと憎悪が宿っている。

 郁がまた、僕の膝に木のおもちゃを置いた。そのまま僕の足下に座り込み僕の足に寄りかかって遊びだした。

「あなたなんでしょ?」

「何がですか?」

 出来るだけ僕は静かに言った。

「彼にはずっと他に好きな人がいたわ。私に隠していたけど、とっくに気づいてた」

 どく、どく、と心臓が打った。

 嫌な予感だ。この上ないほどの。

「それがまさか男だったなんて…信じられない」

 沈黙。

 その言葉を噛み締める。

 ゆっくりとその意味が、僕の中に染み込んできた。

 郁の温かな体温がふくらはぎに当たっている。一人遊びをする郁の楽しそうな声が僕たちの間に落ちた。

「…どうしてそんな──僕は、茅山さんとはそんな関係じゃありません」

 何を言われているのか僕にはよく分かった。

 この人は、自分の死んだ夫が誰かと関係していたと思っているのだ。

 しかも僕──それも男。

 だが僕には何の心当たりもないことだった。

 僕と茅山さんが?

 ありえない。僕と彼の関係は、寮で隣同士だったというだけ、それもずいぶん昔のことだ。僕が転職してからは会ったことはなかったはずだ。彼とは、先輩後輩というだけだ。時折飲みに行き──それもふたりきりではなく──、確かに親しくはしていたが、家には上がったことさえない──なのに、どうして。

 そもそも彼は女性を愛する人だ。僕とは違う。僕はそうだが、彼は──大体、結婚し子供まで授かった人だ。

 彼女は一体何を根拠に…

「関係が、ないですって?」

 ハ、と茅山の妻は呆れたように笑った。

 自分の言った言葉に感情が昂ったのか、大きな瞳に涙が滲んでいた。

「じゃあこれはなんなんですか」

 彼女はポケットの中から何かを取り出すと、それをローテーブルの上に投げつけた。僕に出されたティーカップの縁に当たり、添えられていた小さなスプーンが、カチャッと跳ねた。

 ジッパー付きのポリ袋の中に茶色い革の名刺程の大きさのものが入っている。角が擦り切れて革はボロボロで、長く使い込まれた物のようだった。

 カードケース?

「──」

 ふと、それに見覚えがある気がした。

 どこにでもありそうなものだが…

 僕はそれを手に取り、ひっくり返してみた。

「あなたでしょ、それはあなたのものだわ」

 息が止まるかと思った。

 べったりと付いた赤黒い染みは、血だ。

 パスケースだった。裏側はビニール素材のクリアな窓になっている。元々はICカードを入れていたのだろう。だが今は、その部分には切り取られた写真が入っていた。

 薄い血の染みの向こうで、、笑っていた。

 これは──僕だ。

 そうだ。

 どうりで見覚えがあるはずだ。

 これは僕が、買ってやったものだ。

 高校入学のお祝いに。

「これを握りしめて主人は死んでた。死ぬ直前にわざわざ私に電話を掛けて来て、もう駄目だって言って死んだ!あれは事故なんかじゃない、これがどういう意味か分かる?あの人は自殺したのよ。もうどうにもならない、許してくれって、ただ、ただそれだけ、それだけのために、誰にも知られたくなかったのに、秘密にしておきたかったのに!」

 何の事だ。

 彼女の目から涙が溢れてこぼれた。

 こぼれた涙がテーブルに落ちた。

 立ち上がり僕を見下ろすその目はまるでゴミでも見るかのように虚ろだ。

「ずっと誰かを思ってたのは知ってたけど、でも郁が生まれてからはそんな事もなくなって、やっと落ち着いてきて、なのに何日か前からおかしくなった。変な手紙が来て、口も利かなくなって、それであの人は死んでしまった」

 そこまで言って、彼女の体から力が抜けていく。

 どさっと、放心したようにソファに座り込んだ。乱れた髪が涙で濡れた頬にまとわりついている。

 気がつくと郁が僕の足にしがみついていた。母親の声に驚いたのだろう。僕は見上げてくる郁を見た。安心させようとして髪を撫でた。

「触らないで──郁に、触らないでください」

 けれど彼女はそこから動かなかった。

 僕を睨みはしたが引き剥がそうという気力はないようだった。

 僕は言った。

「茅山さん、これは、僕のものじゃない」

 テーブルの上のパスケースを眺める。

 隅の方にかすれた刻印がある。よく見なければ判らないほどに消えかけた英字で──KUGAと。

 それを買った時の光景が、僕の目の前をよぎった。

「これは僕の、妹のものだ」

 中に入っている写真は、妹がその記念にとふざけて僕を撮ったものだ。

 まだ、妹が家を出る直前の、穏やかな日だった。

 庭に咲いた花の、満開の、真っ白な辛夷こぶしの木の下で。

 ──直、ちゃんと笑ってよ。

「僕が買ってやったんです」

 そう、毎日使うものだからと、少し奮発して丈夫なものを選んだ。色は愛が決めた…

 茅山の妻は僕を見ていた。

 何かをじっと探るように。

「妹は8年前に失踪して、今もまだ見つかっていない。どうして妹のものを…なんで、茅山さんが──」

 最後の方はひとりごとのようになった。彼女は僕を見つめたまま首を振った。分かるわけがない、そうだ、誰にももう分からない。分かるのは本人だけだ。

 だが、茅山は死んだのだ。

 彼女が縋るように言った断片的な言葉が頭の中で回りだす。

 ただそれだけのため、ただ、それだけのため──

 それだけとは、何だ?

「どうしてあなたは茅山さんに他に思う人がいると?彼は…最後に、あなたに何を…?」

 茅山の妻は首を振った。

 僕にくっついていた郁が、ぱっと離れ、彼女の胸に飛び込んでいく。

「分からないわ。でもずっと──結婚してからも、それだけよ」

 小さな体を彼女はぎゅっと抱きしめた。

「あのとき、あの人は混乱していて、私も訳が分からなかった」

 僕は頷いた。

「ほんとうに分からない…こんな、なにもかも…私はこの写真を見て──この人だと」

 僕たちは黙り込んだ。

 茅山の妻が混乱するように、僕も混乱していた。

 なぜ茅山が妹のものを持っていたのか。しかもそれを握りしめたまま死ぬなど、どう考えても普通ではない。

 嫌な予感が脳裏を横切った。

 僕はそれをすぐに追い払った。今はまだ考えたくなかった。

「変なことを言って…私、私…ごめんなさい」

「いいんです」

 僕はもう冷めてしまった紅茶を飲んだ。冷たい。でも、それがかえって心を落ち着けていく。

 流れた涙を彼女は手のひらで拭った。

 玄関が開く音がして、誰かの声がした。郁が母親の体から離れ、おばあちゃん、と廊下の方へ走っていく。

「母です。今、来てくれていて」

「そうですか」

 よかったと、僕はほっと息をついた。この場に僕たち以外の人が現れたことにではなく──少しはそれもあるが──彼女の傍に、寄り添ってくれる誰かがいることが。喪失を分かち合ってくれる誰かの存在は大きい。母親ならば力になってくれるだろう。

 僕の時には誰も、寄りかかれる人はいなかった。

「母にもこんなことは言えなくて…本当に何もかもが突然で…あの人は急におかしくなって」

 急に、という言葉に僕は何気なく聞いた。

「きっかけなどは何も?」

「手紙が──」

 涙を急いで拭いながら、さっきも言いましたけど、と茅山の妻は言った。

「あの人が死ぬ少し前に手紙が来て、それで少し様子がおかしかったんです」

 手紙。

 僕の中で何かが、カチッと音を立てた。

 噛み合った。

「今どき手紙なんて珍しいから、覚えていたんです」

「その手紙って…」

 彼女は俯いたまま首を振った。

「分かりません。どこを探しても見つからなかった。もうあの人が処分してしまったんだと思います」

 ──手紙。

 指先が冷たくなる。

 ひとつの答えを僕は予想した。

 声が震えないように、これで最後だと、僕は聞いた。

「それ、どこから来た手紙でしたか?」

 彼女は思い出そうとした。考えに沈み、無意識に自分の指を噛んでいる。

 リビングに買い物袋を提げた彼女の母親が入ってきた。僕を見て、少し驚いたようだったがにこやかに会釈をしてくれた。

 僕も、考え込む彼女の方に意識を向けたまま、頭を下げた。

 彼女が顔を上げて僕を見た。

「どこかの写真屋さんからでした。普通の封筒にお店の名前が──手紙は、その中に入っていて…」

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