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「なんか──顔色悪いぞおまえ」
テーブルの向かいに僕が座るなり、藤川が僕の顔を見て言った。
「…そうかな?」
「すげえ疲れた顔してる」
僕は自分のほっぺたを引っ張ってみせる。
「ちゃんと元気だよ」
確かに少し眠れていないかもしれなかったが、体調は悪くない。
「そうかあ?」
「お待たせしましたー!」
個室の引き戸がするりと引かれ、店員が飲み物を運んできた。
それぞれの前にビールが置かれる。
「まあ今日は俺に付き合ってしっかり食え」
「そうするよ」
僕は苦笑した。
土曜日の今日、藤川の奥さんと子供が実家に行くと言うので、僕は藤川に夕飯に付き合えと居酒屋に呼び出されたのだった。出先で連絡を受けた僕は、家に帰るのも面倒だったので、待ち合わせまで適当に時間を潰して過ごした。
予定よりも早く着いたと思ったのに、藤川の方が先に来ていた。どうせすぐ来るだろうと、僕の分の飲み物も一緒に頼んでおく当たり、どうやら行動パターンを完全に読まれてしまっているみたいだった。何を最初に頼むかまで知られているのは、僕が毎回同じことを繰り返している証拠だった。
確かに、馴染んだもののほうが居心地がいい。
よく冷えたビールを飲んだ。
「忙しいのか?」
突き出しの蛸の和え物を摘みながら僕は首を傾げた。
「んー、忙しいっていうより気を遣う。一昨日は上司がクレーム処理で営業と揉めてえらく大変だったし」
あれから2日たった。昨日の出勤日は朝こそ前原はいつも通りだったが、午後の会議後は機嫌が悪そうだった。また何かあてこすられたのか…こちらに当たり散らすような人でもないので、それとなく僕は話を振ったりして彼の気を紛らわせようと努力した。
まあそれも、総務室の女性社員全員に昼ご飯を奢ると取り囲まれ、前原を頼むと懇願されたからなのだが。
まったく…どうして皆ああも団結力があるんだか。前原も部下に慕われて幸せ者だ。
「…それで、僕が上司のご機嫌伺いをしながら備品の発注をやって在庫確認して経費の計算書類と格闘したりして1日が終ったんだけどさ……なに?」
事の顛末を話して聞かせてやると、藤川は肩を震わせて笑いを堪えていた。
「いやーおまえが女子に囲まれて昼飯食ってるなんて想像しただけですげえ笑える…!」
「笑い事じゃないって」
うんざりした声で僕は言った。何が悲しくて女性6人にひたと見つめられながら食事をしなければならないのか。
「おまえ女ウケ良いもんなあ」
「そうとは見られなくて残念だよ」
「ストレートに受け取ればいいんだよ、たかが好意だろ」
「あいにく
6人のうちのひとりが僕に前々から好意を──恋愛的な意味で──持ってくれているのには気づいていた。そういうものにはおのずと敏感になる。隠し事があればなおさらだ。僕はいつもそれとなく彼女と距離を置いて接していたが、さすがに昨日は避けられなかった。彼女は僕の隣に座り、ほかの5人とは違う意味を込めて僕を見ていた。
応えられないものを押し付けられるのは辛い。
だが、だからといって、職場でカミングアウトする気はまるでないが。
「恋人がいるって言っとけよ」
前から僕の相談──という名の愚痴を聞かされている藤川はおかしそうに笑った。
「前に言ったら写真見せてくれって言われたんだよ」
「はははっ!」
「笑うな」
本当に笑い事でも何でもない。彼女がこれ以上僕に興味を持たないようにと願うばかりだ。
「難儀だねえ」藤川が苦笑する。「それでおまえどうしたの」
「どうしたもこうしたも──」
僕は肩を竦めた。
「今持ってないって言ったら、普通写メですよねって一発で嘘だって見破られたよ。それからもう僕が何言っても信じてもらえないんだ」
「そりゃまたすげえな、積極的」
「だから困ってるんだろ」
ふーんと藤川は僕を見た。
「いっそのことさあ、ちゃんと彼氏作ればいいんじゃねえの?」
僕は藤川を見た。探るような目で見られていて、落ち着かなくなる。「そしたらさ、相手にも伝わると思うんだよなあ」
「…彼氏がいるって?」
それはどうなんだ。
「好きな奴いるって言えるだろ」
「いいって」
「どういうのが好みなわけ?」
あやうく料理を喉に詰めそうになり、あわてて水で流し込んだ。
僕は藤川を軽く睨みつけた。こんな話どうでもいい。あらぬ方を向いている会話をどうにか別の方に持って行こうと、言った。
「僕の事はいいだろ。そっちは?忙しいのか」
一瞬の間があって藤川は言った。
「ま、忙しいけどな。暇よりも全然いいだろ」
「そりゃまあ…」
「新規開拓新規開拓って、上から言われるのにもだいぶん慣れたけどさ、実際今さら手つかずのところなんて無きに等しいし…」
藤川は今手掛けている仕事の話をしはじめた。彼は営業開発課に所属している。社交的で頭の回転の速い藤川には向いている仕事だ。僕は相槌を打ちながら時々質問を挟んで、藤川に喋らせた。
人の話を聞くのは好きだ。とても。
自分とは違う人生、考え方。
やがて話は藤川の5歳になる娘のことになった。彼女がいかに活発で目が離せなくて愛らしいか藤川は物真似をして僕に教えてくれる。僕は笑った。いいな、と心のどこかで思っている。でも、僕が手にすることの出来ない存在だ。子供──自分の。
もしも僕が女性を愛せていたら、何が変わっただろうか。
誰かがそばにいてくれただろうか。
僕は今まで誰かと真剣に付き合ったことはない。男同士で、秘密裏になど、リスクが大きすぎる。
だからいつも情動を持て余すときには一夜限りと割り切った人を相手にした。その手の店で、その手の人を見つける。手っ取り早くお互いが求めるものだけを貪って、名前も聞かず、次の約束もない。朝になる前に家に戻り、ひとりで眠る。もう何年もそうしてきた。ずっと、これからも。
誰かひとりに愛情を傾けるには、僕は、多くのものを諦め過ぎていた。
「ああ、そうそう」
店員に酒のおかわりを注文し終えた後、藤川が思い出したように言った。
「おまえ茅山さんとは社宅で隣同士だっただろ」
「そうだけど…?」
急な話の変わりように少し驚く。
藤川は皿の上に残っていた唐揚げを片付け、メニューを手に取った。目で何か頼むかと問われて僕は首を振った。腹はもういっぱいだった。
「もう少し食えよ」
強引にメニューを突き付けられて、適当に軽めのものを指さした。ちょうどよく飲み物を持ってきた店員に藤川は何品かオーダーをして──まだ食べるのか?──来たばかりのグラスに口をつけた。
「こないだ茅山さんの葬儀に行った部長が、ほら、おまえも知ってる杉内さんな、茅山さんの奥さんからおまえの事聞かれたって」
「え?」
僕は通夜には行ったが葬儀は行かなかった。藤川もそうだ、葬儀は行っていない。会社から代表で何人か行くことになったと聞いていた。
後日また落ち着いたころにでもふたりでお参りに行こうと話していた。
藤川の言う杉内さんとは、僕がいた頃の営業部の係長だった人だ。やはり総務部だった僕とは、何かと面識のあった人だ。通夜の席にもいて、久しぶりに話をしたばかりだった。
「久我さんって親しくされていた方いましたか、とか何とか──なんか茅山さんの遺品の中に『久我』って名前の入ったのがあったみたいだな」
「…僕の?」
「杉内さんがおまえだろうって、俺に聞いてきてさ」
何の事だろう。
何か茅山さんに貸したりしただろうか?
まるで覚えのないことに首を傾げていると藤川は笑った。
「鍋でも貸したんじゃねえ?」
「まさか」と僕は笑った。
茅山さんの部屋に入ったことなど一度もない。僕の部屋には、どうだっただろう?
それでも何かを彼にあげたり貸したりしたという記憶は僕の中にはなかった。
藤川が言った。
「そのうち奥さんから連絡あるかもな。返したいみたいなこと言ってたらしいから」
「ふうん…」
曖昧に僕は頷いた。
***
家に帰り着き、暗い玄関の中に入った途端に、
寂しい。
こんなことは今までなかったのに。
僕も歳を取ったんだろうか。
明かりをつけるのも面倒で、脱ぎ捨てたコートをソファの背に放る。暗いリビングのテーブルの上に、飲みかけたままのコーヒーカップ。底に1センチ程コーヒーが残っていた。最後まで飲まずにいるのは悪い癖だ。シンクに流して洗い、流れ落ちる水を入れて飲んだ。
冷たい水が火照る体の中を通っていく。
無意識に携帯に手を伸ばしそうになって、コートのポケットの中だったと思い直した。それは既に僕の習慣になっている。
馬鹿だな、もう──忘れないと。
耳に付いて離れない声を首を振って追い払おうとする。でも。
それはいつまでも消えていかない。
いつまでも。
僕はどうしてしまったのだろう。
たった、たった一度じゃないか。
それだけだ。
なのに、寂しくて寂しくて──
焼けるように苦しい胸の中が爛れ落ちていくようだ。
こんなにも誰かを恋しいと思ったことがない。
藤川に言われたことが甦る。
──ちゃんと彼氏作ればいいんじゃねえの?
簡単に言うなよ。
──どういうのが好みなわけ?
笑える。
本当に僕は馬鹿だ。突き放したのは自分だったくせに。最初からそうだと信じ込ませたいとしていたのに結局は自分がそう思っていたいだなんて。
女の声に自分でも驚くほど動揺した。
やはり彼は、僕に引きずられただけに過ぎないのだ。
きっとそうだ。
カップをシンクの中に置く音がやけに大きく響いた。
「…は…、──」
誰もいない暗がりの中で、僕は自嘲するように息を吐いて笑った。
***
茅山の奥さんから連絡が来たのは、週が明けて水曜日の事だった。
僕は仕事中で、慌てて総務室を出て、人の通らない廊下に行った。
『…久我さん?あなたが?』
電話口に出た僕を彼女は疑わしそうに確認した。
僕はそうだと言った。
同じ会社に勤めていた頃、独身寮で隣同士だったのだと話すと、彼女は納得したように頷いた。
藤川の話の通り、夫の遺品の中にあなたのものがあるから返したいとの事だった。送ってくれればいいと言う僕の提案は却下された。
『出来ればお会いして確認してほしいんです』
確認?
僕は眉をひそめた。
何のだ?
電話の向こうでは子供の声がしている。
続く沈黙に、返答を待たれているのだと感じ、僕は言った。
「…分かりました。じゃあ、土曜日にお伺いしても?」
『はい』
彼女はどこか張り詰めた声で返事をした。
続けて住所を言われ、僕はそれを復唱する。
先日の通夜の会場とそう離れてはいない場所だった。時間を午後にしたのは僕のほうだった。
『では土曜日に、お待ちしています』
何かの受付のように冷たい声音だった。
茅山の妻がそれだけを言うと、電話は切れた。
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