9


 橋のところまで、彼女は僕を見送ってくれた。

 日はもう暮れかけていて、西日の中をふたりで歩いていく。陰る光が、彼女の伏せた睫毛の影を長く頬に落としていた。

「じゃあ、もうここで」

 橋の前で僕は茅山の妻に言った。少し後ろを歩いていた彼女を振り向くと、思っていたよりもまっすぐに彼女は僕を見ていた。

 立ち止まる。

「今日は本当に──」

 僕は苦笑して、繰り返される謝罪の言葉を遮った。

「いいんです。僕は大丈夫」

 彼女は何かを言おうとして唇を開いたが、思い直したようにやめた。

「茅山さんは、あなたが思っているようなことはしていないと思う」

 彼女はじっと僕を見上げていた。

 気休めだと分かっている。

 本当のところは誰にももう分からない。秘密は永遠に、死者が持って行ってしまった。

「僕は自分がだから、同じ嗜好の人はよく分かるんです」

 彼女は目を瞠り、それからふっと困ったように微笑んだ。

 美しい人だ。

 僕が女性を愛せていたら、きっと、もっと気の利いたことも言えたかもしれない。

「郁にまた会いに来てください」

 彼女は言った。

 でもそんなことはもうないと、ふたりとも分かっていた。

 僕のポケットの中には、郁が別れ際にくれた小さな汽車のおもちゃが入っている。青いプラスチックの、郁の宝物。

 またきてね、と手を振っていた。

「さようなら」

 と言って、僕は歩き出した。



「ひとり?」

 家に戻ったところで誰がいるわけでもない。

 夜に何をしようと僕の自由だった。

「そう」

「少し話さない?」

 君が良ければ、と控えめに言うのがとてもよかった。

 もちろん悪いことなんて何もない。

 その手の店でその手の相手を見つけ出す。手慣れた仕草で、慣れた態度で。でも控えめに──何かの儀式のように。

「…ん、──」

 知らない手のひらで体中を撫でられる。首筋を辿り、肩の先を包み、腕や胸、脇腹の柔らかなところを触れていく。気持ちがいい。人肌に飢えていた心が震える。こんなにも僕は欲しがっていたのか。

 優しくされるたびに僕はあられもない声を上げた。甘く、墜落するような快感が、波のように何度も押し寄せてくる。

「は、…っ──」

 お互い求めるものはひとつだけだ。分かりやすくて手っ取り早い方法。いくつもある選択肢の中から選び出したのは自分自身だ。別れを悲しむことも会えることの喜びもない。今だけ、今だけを埋め尽くしていく。

 背中から抱き込まれながら耳元で甘い言葉を囁かれた。名前も知らない相手にやるリップサービスに、分かってはいても僕は泣きそうになった。実際泣いていた。どうしようもなく乱れ、我を忘れさせてくれる何かが今の僕には必要だった。

 白く弾けた快感で背を逸らせると、彼もまた僕の中で到達する。長く尾を引く絶頂に脳の中が溶けていくようだ。

 汗まみれでシーツにくずおれた。相手が背に覆い被さってきて部屋の中にふたり分の荒い呼吸だけが満ちていく。

「名前…聞いてもいい?」

 首を振った僕に、彼が苦笑する気配がした。

 知らないほうがいいこともある。

 うなじにキスをされた。

 背中を、まだ熱の引かない彼の唇で辿られながら、このまま何もかも溶けていけばいいと思った。

 


 相手が深く眠りについたころ、僕はベッドを抜け出してホテルを後にした。

 もう終電もない時間だ。通りでタクシーを拾い、マンションまで帰った。

 部屋の中は寒かった。着ていたものを上着以外全部洗濯機に放り込んで着替え、僕は冷え切った自分のベッドにもぐりこんだ。

 目を閉じる。

 押し寄せる虚しさや消えなかった寂しさから逃れるように眠りについた。



 妹が僕のことをお兄ちゃんとは呼ばなくなったのは、僕が大学に入り間もなくひとり暮らしを始めてからだった。

 家を出て最初の夏休みに実家に戻った僕に、妹は言った。

『直、帰ってたんだね、おかえり』

 あまりにもさらりと言ってのけた言葉に、僕はひどく驚いた。

 直?

 目を丸くした僕に悪戯が成功したような笑みを妹は見せた。

 その夏から、妹は僕のことを直と、名前でしか呼ばなくなった。

 懐かしい夢を見た。

 そうだ。だからこそ僕は確信したのだ。

 あれは妹が書いたものではないと。

 あの手紙は別の誰かが──妹を知らない誰かが、妹のふりをして書いたものだ。

 手紙を出した本人か、それとも。

 それとも?

 夜明け前の薄闇の中で寝返りを打った。

 起き上がるにはあまりにも早すぎた。


***

 

 僕が前に住んでいた独身寮は今も変わらずにあった。

 建物の壁は少しくすんだ色になってはいるけれど、それだけだ。入口にある椿の木も懐かしい。

 久しぶりに足を運んだ。

「こんにちは」

 管理人室の小窓を小さく叩くと、奥にいた老婦人が気づき、おや、という顔をした。それからぱっと思い出したように驚き、笑顔になった。

「久我くん、まあどうしたの」

「近くまで来たので」

 管理人室のドアが開き老婦人が僕を招き入れる。

 彼女は僕がここに住んでいた頃からの、この独身寮の管理人だった。

「一緒に食べようと思って」

「わっありがとう!お茶淹れようね」

 僕が買ってきた洋菓子──見た目で和菓子が好きだなどと思ってはいけない──果物がふんだんに盛り付けられたケーキを目にして、老婦人──森野もりのさんは嬉しそうに言った。寮の近くにあるケーキ屋のもので、僕もとても好きだ。甘すぎないのがいい。

「元気にしてる?少し痩せたんじゃないの?」

「そうですか?自分じゃあんまり…」

 小さな二人用のテーブルにつき、頬を両手で撫でていると、森野さんは僕を見て笑った。

「ちょっとシュッとしたかしらねえ、元々すらっとはしてたけど」

 淹れたてのコーヒーとケーキがテーブルの上に並べられる。テレビはついていたが音はかなり絞られていて、静かで六畳にも満たない小さな空間にBGMとして流しているだけのようだった。小窓の内側のカウンターには、カバーを外したボロボロの文庫本が一冊、伏せて置かれている。

 ここは彼女の城だ。

「相変わらず美味しそうね、ひとりじゃあんまり食べなくて最近は行かなくなっちゃった」

「今日は桃とマスカットですよ」

 週ごとに盛られる果物が変わるこのケーキは店の名物で有名だった。

「さあいただきましょう!」

 いただきます、とふたりで笑いながら言い、フォークを刺し、掬って食べた。果物の甘さだけでクリームにはまるで甘さを感じない。一緒に食べることで甘さが補填される。変わらない味に嬉しくなった。

「美味しいわあ」

「うん、美味しいですね」

 日曜日の昼下がりの穏やかな時間。ここにいたときもよく彼女と一緒にこんな時間を過ごしていた。好きな店が同じだったので、店でよく鉢合わせるうちに仲良くなったのだった。彼女は僕の祖母と言ってもいいくらいの年齢だった。

 僕にとっての身内のような人だ。今でも時々電話で話をしたりする。最近は忙しさに足が遠のいてしまって、訪れるのは実に一年ぶりだった。

「あ、そうだ──こないだ、手紙をありがとうございました」

 僕がそう言うと、森野さんはいいのよ、と笑った。

「あれくらい大したことないわよ、ちゃんと着いて良かったわ」

「助かりました。ちょっと大事な手紙だったので」

「あー、そうか。今日はそのお礼で来たんでしょう」

 ふふ、と言われて僕も素直にそうです、と言った。

 それもあったが、なんとなく今日は誰かと話したかったのだ。ひとりではいたくなかった。

「久我くんは律儀ねえ、本当」

 僕はいつか──もしかしたら、妹から連絡が来るかもしれないと予感していた。

 ずっと、生きていると。

 だから、この場所をよく知っている妹が、僕に何かを知らせてくるその時の為に、ここを出て行くとき森野さんにお願いしておいたのだ。

 もしも僕宛に手紙や葉書が来たときには新しい住所に転送してほしいと。

 それが間違いではなかったと思った。

 そうでなければあの手紙は僕の元へは届かなかっただろう。

 きっと。

「結婚しないの?」

 うーん、と僕は考えるふりをした。

「あんまりモテないから無理かな」

「それはないわよ。久我くんかっこいいもの」

 なぜか憤慨したように言う彼女が可愛くておかしい。

「妹さんもすごく自慢してたし。愛ちゃんだった?元気にしてる?」

 どきりと心臓が跳ねた。

「え──はい、元気です」

 僕がここに入った時、当時高校生になったばかりの妹が遊びに来ていたのを森野さんに紹介したことがあった。

 けれど森野さんには妹が失踪したことは言っていない。

 思えば僕の個人的な話は、深い意味でしたことはなかった。

「よく来てたわよね、愛ちゃん。可愛くって、もういくつになった?」

「24です」

 うんうん、と森野さんは頷いた。

「久我くんがいないときも部屋で待ってて、おばちゃんってお菓子持って遊びに来てくれるの嬉しかったわ」

「そうなんですか、妹が?」

 それは意外だった。妹は割と人見知りをするタイプだったのだ。

「そうよ。人懐っこかったもの、他の社員さんともすぐ顔見知りになって仲良くしてたし、あ、ほら、久我くんのお隣の──」

「茅山さん?」

 僕の口から思わず、その名前が出た。

 そう、と森野さんは言った。

「茅山くんとも久我くんが来てからすぐに打ち解けてね。一番仲良かったのよ。茅山さんも可愛がってたわ、自分の妹みたいだって」

 そこまで言って彼女はふっと表情を暗くした。

「ああ…そういえば、茅山くんのこと聞いた?亡くなったのよ」

「はい…こないだ、同期と通夜に行って来ました」

「残念よねえ、まだ若いのに」

 目を伏せて悲しそうに森野さんは呟いた。

 新しく飲み物を淹れるために立ち上がろうとする彼女を僕は止め、小さな簡易キッチンに立った。

 小さなシンクの前にたくさん並ぶ紅茶の缶やコーヒー豆の入った瓶の中から、紅茶にしようとひとつ選んだ。

 コンロにケトルをかけて待つ間、背中越しに森野さんと話をした。森野さんの来年中学生になる孫の話、家で育てている甘夏の木のこと、体の不調、膝が最近痛むこと、仲の良いお嫁さんの笑い話、寮にいる人の笑い話。湯が沸き、カップを温めティーポットに湯を注いで茶葉を落とす。茶葉が湯の中で踊る。砂時計を引っくり返す。染みついたひとつひとつの手順。森野さんに相槌を打ち、声を立てて笑いながらも、僕の心は別のところにあった。

 ──来てたぞ、多分おまえの妹。

 

 それはどういうことだ。

 入寮してすぐに僕は妹に──規則違反だったが、部屋の合鍵を渡していた。それは実家で義父や母との関係が悪化していた妹の避難場所として、いつでも来れるようにと思ってのことだった。

 妹は頻繁に来ていた。僕が研修中で留守にする時も。あまりに来すぎるので、少し叱ったこともあった。

 あのときも、そうだ。

 あの10日間の研修の前にも喧嘩をして…

 森野さんの話が嘘なわけはない。

 妹が寮の人たちと仲が良かったというのなら、茅山と一番仲が良かったというのなら、なぜ。

『おまえ妹いたよな?』

 なぜ、茅山はあんな言い方をしたのだろう。

 茅山が海外出張に出るその日に鉢合わせたというふたり。

 砂時計の砂が落ち切り、カップに紅茶を注いだ。

 何かがカチリと、僕の中で音を立てた。

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