2

 男は言った。

「久我さん?」

 僕は頷いた。

 その声には聞き覚えがあった。僕の名前を言うその声は、電話の向こうの声と同じに聞こえた。僕は確かめるように言った。

「常盤さん…?」

 男──常盤高史は滲むように微笑んだ。

 彼は若く見えた。

「そう…ごめんね、ちょっと留守にしてた」

 常盤は僕の側まで近づいて来た。

「電話も出られなくてすみません」

 僕は首を振った。「いえ…いいんです。お会いできてよかった」

「ほんとに」

 ポケットから鍵を取り出し、ガラスドアの鍵を彼は開けた。

「どうぞ、ちょっと散らかってますけど」

 開いたガラスドアの中へと促されて、けれど僕は、なぜか入る気をなくしていた。

 ドアの前で立ち止まった僕を、常盤は暗がりの中で見下ろしていた。

「久我さん?」

 僕は彼を見上げた。

 常盤は背が高い。僕よりも頭ひとつ分は上か。

 僕は常盤の切れ長の目を見て言った。

「あの…もう遅いし、実はホテルにチェックインもまだしてなくて。よかったら、これからホテルのバーで飲みませんか?それか、食事でも」

 泊まるはずのホテルには、地下にバーがあると知っていた。きっと何か食べられるだろう。

 驚いたように常盤は僕を見て、ふっと表情を緩めた。

「いいね、じゃあ、そうしましょう」

 常盤は再び鍵をかけた。

 僕はもらった名刺に記されたタクシー会社の番号に電話をかけた。

 すぐにタクシーはやって来た。

 どこかで待機でもしていたのか、運転手は同じ人だった。


***


 ホテルにチェックインを済ませ、エレベーターで地下へと降りた。

 光量の絞られた照明、濃い飴色の光が満ちたそこは狭くも広くもなく、心地よい空間だった。カウンターには3人の客がいた。ほどよく散らばった5つのテーブル席のどれにも客はいなかった。

 僕たちはテーブル席を選んだ。

 頼んだ飲み物と食事──やはり食事もできた──がやってくる間、お互いに改めて名乗り合う。

 久我直くがなおです、と僕は言った。

「常盤高史です。仕事はさっき見た通り」

 そこで飲み物がきた。

 僕はジントニックを、常盤はビールを。それぞれの前にグラスが置かれる。

 ウェイターが去るのを待ってから常盤は言った。

「久我さんは、お仕事何してるの?」

 僕はひと口飲んでから答えた。

「普通に…サラリーマンです」

「サラリーマンって?営業?」

 常盤もビールを飲んだ。

「いえ、事務職を。デスクワーク専門なんです」

「それっぽいね」

 目を細めて常盤は微笑んだ。

 僕は言った。

「常盤さんは、あの店おひとりでされてるんですか?大変そうだな」

 ふふ、と常盤は声を出して笑った。

「町の写真館なんて忙しくもないよ。俺は後を継いだだけだし、ひとりでも全然やっていける。むしろ家族がいたら養えないかな」

「そういうものですか」

 そうだよ、と常盤は頷いた。

 小さく間が空き、お互い自分の飲み物に集中する。

 そろそろ本題に入らなければ。

「常盤さん」

 彼は僕を見た。

「あの手紙のことなんですが」

「ああ、ですよね。その話をしないと」

 常盤は苦笑した。まるで忘れていたかのように言うが、もちろんそんな事はないのだろう。

「電話でも言ったけど、あれはうちの親父が預かっていたもので、半年前に死んだ後荷物を整理していたら見つけたんです」

 最初に電話をした時聞いた話と同じことを常盤は言った。「顧客名簿の間に挟まってて、あなたの、久我さんの住所と名前を書いた紙と、あの封筒がメモ書きと一緒にクリップで留めてあってさ」

 常盤の口調は時折敬語から親しげに砕けたものになったが、特に気にはならなかった。それが彼の大柄な体格と相まって、窮屈さを感じさせることがない。なんとも一緒にいて楽だと思えた。僕は話す彼を観察した。

 歳は、僕と同じくらいか、少し下。

 ホテルの明るい受付で見た彼は、暗がりで見た時よりもずっと若く見えた。

 僕が想像していたものよりも、ずっと。

 鞄の中から僕は同封されていた写真を取り出した。

「常盤さんは、封筒の中はご覧になってないんですよね」

「もちろん。糊付けされてたし」

 僕は彼の前に、写真を滑らせた。

「電話でも言ったけど、あの封筒にはこれが入っていました」

 妹の写真。多分。

 そのことは先に話していた。

「これ?」

「妹の愛です」

「ふうん」

 常盤は写真を手に取ってじっと見つめた。伏せた切れ長の目が小刻みに左右に動く。

「これが久我さんの妹かあ…あんまり似てないな」

 ウェイターが食事を持ってきた。

 ふたりとも同じものを頼んでいた。スモークサーモンサンド、レモンと揚げたてのフライドポテトがたっぷりと添えられていた。ふたつの皿の真ん中に、小さな塩の瓶とケチャップ、マスタードのボトルが置かれていく。いい匂いだ。

 ごゆっくり、と言い置いてウェイターはカウンターの中に戻って行った。

「妹は8年前に失踪したんです」

 ポテトを摘みあげた常盤の手が宙で止まった。じっと視線が合う。絡みつくように、思わず見つめ合い、視線を逸らしたのは僕の方が先だった。

「僕とは8つ離れてました」

「久我さん、今いくつ?」

 僕もポテトを摘まんだ。

「32です」

「年上なんだ、俺は先月29になったばかりだけど…」常盤は摘まんだポテトを口に放り込んだ。「…じゃあ、妹さんは、いなくなったとき…16?」

 僕は頷いた。

「ええ、僕は大学を卒業して就職したばかりで、家を出ていて…」

 知ったのは少し後だった。1ヶ月ぐらい、両親は僕にそのことを隠していた。

 そう言うと、常盤はビールを飲み干し、バーテンダーにおかわりの合図を送った。彼は僕を見たが、僕のグラスにはまだジントニックが半分以上残っていた。僕は首を振った。

「両親はすぐに警察に届を出して必死に捜したけれど、見つかりませんでした。去年7年が経ったので、僕が死亡届を出したんです」

「久我さんが?」

「両親はもう死んでいるので」

 彼は小さく鼻を鳴らした。

「──久我さんさ」常盤が言った時、おかわりがテーブルに置かれた。「敬語やめない?俺の方が年は下だよ?」

 堅苦しいのは苦手なんだ、と常盤は笑った。

「ええと…、じゃあ、──常盤くん?」

 運ばれてきたばかりのビールに常盤は口をつけて、言った。

「じゃあ俺は、直さん、でいい?」

 僕は笑った。「いいよ」

「それで、常盤くんは、妹に見覚えはない?」

 さっき写真を見せた時の反応で、その確率はゼロだろうなと思いつつ、僕は聞いてみた。

「うん、ないな」

「そうか。君のお父さんは、ほかに何か残してはいなかった?」

 常盤はサンドイッチを齧りながら頷く。

「何も…ただ、直さんから電話もらった後、俺も少し調べてみたよ」ごくりとビールで流し込んだ。「顧客名簿と注文書とか、親父の交友関係とか、当たってみたんだけど、久我愛って名前はどこにもなかった」

「そう」

 僕はグラスに口をつけた。特に落胆したわけではない。そうだろうなと、心の中では思っていた事だった。

 僕はなにも、妹を見つけ出したいわけではなかった。

 小さくため息をつくと、常盤がごめんね、と言った。

 僕は苦笑した。

「常盤くんが謝る事じゃないよ」

「でも送ったの俺だから」

 ふと思い出したことを口にする。

「そう言えば、お父さんが残していたメモ書きって何が書いてあったんだ?」

「ああ…」

 常盤はカーキのモッズコートの内側に手を入れて、自分の財布を取り出した。随分と使い込んでいる黒い革の折り畳み財布の札入れから、白い紙を引き抜く。

「これだよ」

 差し出されたそれを僕は受け取った。

「持ち歩いてたのか?」

 常盤は笑んだ目を向けただけで何も言わなかった。皿の上のサンドイッチに齧りつく。僕もそうしたかったが、すでに食欲は失せ、紙の方に意識は行っていた。

『預かり、2016年6月24日、連絡済み』

 そして僕の名前と住所…これは以前のものだ。僕は一度引っ越していた。常盤の出した手紙は、転送されて来たものだった。

 追記。

『2017年7月までに送付すること』

 それだけだった。僕はもう一度読んだ。

 だが、読み取れるものなどそこには何もない。あるとすれば、日付ぐらいか…

 2016年6月24日

 今から3年も前の日付けだ。

 写真の中の妹──8年分歳を取ったと思ったのは、僕の勘違いか…

 目線を上げると、常盤がじっと僕を見ていた。

 淡く暗く影を落とす目元。よく見れば端正な顔立ち。瞳の色は溶けたチョコレートのように──

 僕は自分の考えにはっとした。

「直さん」

 呼びかけに僕の肩が小さく跳ねた。

 酒のせいだ。

 言い訳ならいくらでも出来る。

「どうしてって、聞かないの?」

「え?…」

「どうして俺がそれを見て直さんに送ったのか」

 探るような目をきっと僕はしていただろう。

 それを面白がるように常盤は僕を見つめ続けた。

「どうして俺が今日いなかったのか」

 ポケットから携帯を取り出し、テーブルの上に置いた。

「今日が来るって分かってるのに、どうして留守にしたかって…聞かないの?」

 僕は携帯をじっと見つめた。

「携帯持ってたんだね」

「今どき持ってないやつなんていないよ」

 くす、と常盤は笑った。

「おかわりもらおうか?」

 僕は首を振った。

 グラスの中の酒は温く、味がしない。

 びっしりとついた水滴が敷いたコースターから溢れ、テーブルを濡らしている。

 胸の奥がざわめく。

「聞いたら教えてくれるのか?」

 問うた僕に、常盤は薄く笑って、僕の指を撫でた。

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