3

 就職してすぐに借りた家は、単身者用の社宅だった。特に強制されたわけでもない、そこに僕が住んだのは単に家賃が破格に安かったから、それだけだった。

 会社に入って2ヶ月程は研修に追われた。あちこちの研修施設に週単位で送り込まれる。長いときには2週間以上新入社員は緩やかに拘束された。

 そのときも長い研修──一体何の研修だったかは既に忘れている──から戻ったばかりで、僕は疲れ果てていた。金曜日。明日明後日は休日なのが有り難い。思い切り休もうと社宅として会社が借り上げている1DKのマンションの部屋の鍵を開けようとして、ふと、誰かが訪ねて来たような気がした。

 今日ではなく、少し前。

 僕が10日間留守にしていた間、誰かが、この扉の前にいたのではないか。

 真新しかったドアの下、ちょうど人の足が当たるような場所が小さく凹んでいた。

 じっと見下ろした。

 だが、それがどうした?

 僕は鍵を開けて中に入り、扉を閉ざした。

 誰が来たかなんてどうでもいい。ただとにかく眠りたかった。固く閉ざした扉のように、僕もベッドにもぐりこみ、固く目を閉じてそのことを心の中から追い出した。

 それから2週間ほどが経った夜、会社から帰宅する途中の道すがらに隣室の先輩と出くわした。

『よお、今帰り?』

 大きなスーツケースを引きずる彼は3週間の海外出張から帰って来たところだった。

『お疲れさまです、今回も長かったですね』

『あーもうほんと、参るわ』

 そのまま一緒に近くの居酒屋で夕飯を食べ、アパートへと戻った。それぞれの部屋の前で別れの挨拶を交わし、僕がドアを開けた時、先輩が、あ、と声を上げた。

『久我、おまえ妹いたよな?』

 僕は一瞬何のことか分からずに考え、ああ、と思い当たった。何かの折に互いの家族の話をしたことを思い出す。

『はい、いますよ』

『来てたぞ、その、多分おまえの妹』

『え?』

 先輩は部屋の鍵を開けながら言った。

『俺がちょうど出張に出る時に、ここに女の子が立っててさ、兄ちゃんどこ行ったかって聞くから。おまえ研修中でしばらく帰らないって言っといたんだけど』

 今思い出したよ、と先輩は苦笑した。

『あれからなんか連絡あったか?おまえしたか?』

『あ…はい、連絡、しました』

『そっか。ならいいわ』

 ほっとしたように彼は笑った。

 じゃあお休み、と言って先輩は部屋の中に消えた。

 僕も部屋に入り扉を閉めた。

 その夜遅く僕は実家に電話を掛けた。就職してから初めて…、いや、こちらから電話を掛けたことはそれが初めてだった。

 妙な胸騒ぎがしていた。

 呼び出し音の間、ドアの凹みを思い出していた。

 やはりあれはそうだったのだ。

 妹。

 呼び出し音が途切れ、母の声が聞こえた。僕の心臓は大きく重く鳴り響いていた。

 そして僕はようやくその時、妹がいなくなっていたことを知ったのだった。


***


 指はすぐに離れていった。

 なぜか名残り惜しいと──思い、そんな自分に気がつかないふりをする。

「本当は俺ね、写真見たんだよ」

 じわりと、言われた言葉の意味が僕の中に染み込んできた。

 僕は視線を常盤の指先から上へと辿り、彼の目を見た。

「親父は写真をそのまま名簿に挟んでた。それを俺が封筒に入れたんだ。封をしたのは俺だよ」

「手紙を書いたのも君?」

 僕は温いジントニックを飲んだ。

「まさか…あれは最初から一緒にあったんだ」自嘲するように常盤は笑った。「そこまでしない」

 グラスをテーブルに戻す。濡れたコースターが音を吸い取った。

 僕は常盤にあの手紙を書いたのは妹ではないと言うべきか迷った。だが、やめた。言ってどうなる?

 4年以上も前の事が今更意味を持つとも思えない。

 代わりに、僕はを口にした。

「どうして今日…いてくれなかったんだ?」

 常盤は身じろいで座り直した。体を斜めに向け、足を組む。

 ビールを飲んだ。

「…俺は最初、メモにあった『久我直』っていうのが、この写真の人の名前だと思ってた」

 僕は頷いた。

 そう、そうかもしれない。僕の名前はどちらとも取れる名前だ。幼い時から今まで、実によく間違えられた。幼少期は容姿も相まって女の子のようだったから、特に。

 彼がそう思うのは当然だった。

 テーブルの上の写真の妹を、常盤は指でなぞった。

「だから電話があった時は正直驚いたよ。この人のお兄さんだって言われて」

 乾いた笑いのような、吐息のような音が常盤の口から漏れる。

 どちらでも間違いではない。その気さえあればどっちにだって聞こえるはずだ。

「俺はあんたの声を聞いて会いたくなった」

 常盤は斜めに傾いた顔の目だけをこちらに向けた。

 切れ長の目が、蜂蜜色の明かりの中で黒く光る。

「どんな人だろうって。あんたが気になってしょうがなかった」

 見つめ合う。

「そして怖くなった」

「怖い?」

「気がついたんだよ。…あんたは、本当は妹なんて捜してない」

 だろ?と、常盤は僕の方に身を寄せた。

 顔を近づけ、声を潜めて、彼は言った。

「そんなふりをしてるだけだ」

 黒い目が僕を捉えている。

 その奥底にある考えが、僕には手に取るように分かった。

 僕は微笑んだ。上手くできたかどうか自信はなかった。

「そうだよ。僕は妹を捜しているわけじゃない」

 味のしない酒を煽った。

 喉の奥を焼く苦いものが胸の中を下りていく。

 捜しているわけじゃない。見つけ出したいわけじゃない。僕の中ではもう妹は8年前にいなくなったときに死んでいる。その存在を、その命を、僕は記憶の中に封じ込めた。両親が心身を病み、死ぬ間際まで妹を愛し求めたようには僕は妹を求めなかった。

 それだけだ。

「僕はただ妹に言ってやりたいだけだ」

 グラスを煽り酒を飲み干した。

 僕は続けた。

「でも、もう、無理だ」

 掠れた声が出た。

 僕は両手で顔を覆った。

 頼みもしないのに、僕の酒のおかわりを常盤が注文していた。



 もつれるように崩れ落ちた。

 腕に抱き止められ、柔らかな何かに僕は横たえられた。

 暖かい。清潔なシーツの匂い。さらりとした手触りのそれを手のひらで撫ぜる。

「…直さん」

 重い瞼を無理やりに開けると、深い橙色の光の中にいた。視界はぼんやりとして定まらない。ゆらゆらと揺れている。

 空調の音に混じって雨の音が聞こえる。

 雨が降っている。

 ここは…

「常盤くん?…」

 覆い被さる彼が僕の顔を見下ろしている。

 僕の顔の横に手をつき、膝を立て、じっと──

 その影が僕の顔に落ちている。

「俺が分かる?」

 ぼやけた顔の輪郭が声を潜めている。

「うん…?」

 ここは、と尋ねた。

「ホテルの部屋だよ」

「ああ…」

 そうか。

 僕は酔いつぶれたのだ。最後の記憶は地下のバーで6杯目のおかわりを飲んだところで途切れている。

 ぐるぐると目が回る。世界が、僕の周りで勝手に回りだす。

 瞼の上に腕をのせた。

 遠く、どこか遠くから、どく、どく、と何かが鳴り響いている。

 耳を澄ますと、それは僕の内側から聞こえていた。

 体が重い。柔らかなマットレスが泥土のように、背中が沈んでいく。「…何してるんだ?」

 目を閉じたまま僕は聞いた。

 彼は答えなかった。

 途切れることのない雨音が窓の外からする。

「雨が降ってる…」

「うん」

 その言い方がひどく幼くて、僕は思わず目を開けた。

「帰っていいんだよ?…僕なら大丈夫…」

 見上げた顔はぼんやりと影になっていて、微笑んだように見えた。

 何も言わず、大きな手が僕の額にかかる髪を梳くようにかき上げる。肌を掠めた指先がひどく冷たい。

 震えそうになるのをぎりぎりで堪えた。

 僕は目を閉じた。それが合図になったかのように、常盤は僕の髪を撫でた。

 何度も何度も、その指が肌に触れる。

 繰り返される行為に次第に意識がまどろんでゆく。

 気持ちがいい。

 こんなにも気持ちがいい…

 酒を飲み過ぎたせいで、ふわふわと夢と現実の間を僕は漂う。どれだけ時間が経っただろう。

 意識の間に、常盤の声が滑り込んできた。

 そっと彼は囁いた。

「…ねえ」

 夢うつつに呼びかけられる。返事をするのも正直億劫だったが、僕はうん、と返事をした。

「どうして、もう無理だって思うんだ?」

「…何が?」

「妹に言いたかったって…でももう無理って、言ってただろ…?」

 どうして?

 どうしてだろう。

「見つかったら、いくらだって言えるだろ」

 見つかったら。そう、見つかれば。

 でも僕には分かる。兄妹の、どうしようもない絆や、血のせいだなどと言うつもりはない。ただ、どうしてか分かるのだ。理屈なんかではない。言葉では言い表せないことも、世の中にはたくさんある。これもそうだ。そのうちのひとつに過ぎないのだ。

 僕は出来るだけ静かに言った。

「妹は死んでるんだよ。もう──きっと」

 常盤の手が止まり、やがて、また動き出した。

 静寂が訪れて、常盤が言った。

「あんたが殺したの?」

 目を閉じたまま微笑むと、まさか、と僕は呟いた。

「妹を殺したりするもんか」

 常盤の手が僕の頬を滑り、首筋を辿った。体が重なり、のしかかる彼の体がぴったりと僕の体と密着する。体中のあらゆる凹凸を誂えたように隙間なく埋められる。常盤は僕の耳に頬を押し付け、回した腕で僕をきつく抱きしめた。

「なあ…、男が好きなのか…?」

 僕はされるがままになりながらぼんやりと呟いた。我ながらふざけた問いかけだ。男が好きなのか?馬鹿げてる。僕は──そうじゃないか?

 僕こそがそうなのに。

 常盤はその問いには答えない。耳元で僕の名を呼び、形を唇で確かめるように辿っていく。

「どうしてわかったんだ?」

 何を、と常盤が言った。

 何がだろう?

 僕が男を好むことか?

 それとも、妹を捜す優しい兄を演じていたことか?

 彼に魅力を感じていることか?

 そうだ。こんなにも…

「僕が、…」

 言葉は声にならなかった。

 お互いに服を着たままだ。常盤はコートさえ脱いでいない。僕はセーターを着ていた。足先に片方だけ引っかかった靴、上着はどこにいったんだか…

 布越しにも彼の体は熱かった。

 常盤はただ僕を抱きしめていた。

 今日会ったばかりの他人の体温を感じながら、僕は──僕らはそのまま、次の言葉を紡ぐこともせずに、ただ、深い眠りの中へと落ちていった。

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