暁が燃えるとき
宇土為 名
1
8年前、妹はふいに消えた。
今にして思えば、あれは間違いなく自らの失踪であったし、そうであったと確信できる。今ならば。
そう、今であれば。
しかし当時は違った。
母は狂ったように毎日いなくなった妹を捜した。義父も同じであった。妹に似た人を見かけた気がすると噂で聞けば、それがどんなに曖昧で些細な情報であったとしてもそこに赴いた。
その中でも、警察からの電話、身元不明の年恰好の似た死体の知らせは母と義父を最も苦しめた。腐敗がひどければ結果が出るまでに何日もかかり、その間ろくに眠れず食事も摂らなかった。眠れたとしても悪夢ですぐに目が覚め、母は泣きながら区別のつかない夢と現実の狭間を朦朧とさまよっていた。
そして結果、娘ではなかったと判ると、また電話を待った。掛かってきてほしい、でも、掛かってこなければいい。掛けてきて欲しい。どんなことでも。たとえ、他人の腐った死体であっても。
そのようにして、母は日に日に正気を失っていった。
しかし、本当に一番堪えていたのは、妹と口も利かぬほど仲の悪かった義父であった。義父は正気を保ったまま、狂っていく母の隣で、誰にも気づかれることなく、じわりじわりと毒に侵されるように、その見えぬ内側から弱っていったのだった。
妹から1週間前、手紙が届いた。
***
がたん、と大きく揺れて目が覚めた。一瞬自分がどこにいるのか見失う。
ざわめいている周囲。
暖かな座席。目の前には前の席の背がある。電車、電車の中。
そう、M市に向かう電車の中だ。自分は通路側に座っていた。あちらこちらでペットボトルやスナック菓子や荷物が床の上に散乱している。急停止した衝撃で色々なものが落下したのだ。読みかけて膝の上に置いていたはずの僕の本も、二つほど前の席の通路に落ちている。皆がそれぞれの物を拾おうと立ち上がる中、僕も取りに行こうと立ち上がろうとして、ぐっと腕を掴まれた。
横を見る。
隣の席に小さな、背を丸めた老婆がいた。僕の腕を掴み、薄笑いを浮かべている。
え?
アナウンスが始まった。
「…ただいま人身事故が発生いたしました。お客様に於かれましてはそのまま席でお待ちくださいますようお願い申し上げます。ただいま線路内で人身事故発生、緊急停止いたしました…」
ぐい、と再び腕を引かれた。
「何ですか?」
老婆は見えぬのではないかと思うほど目を細めて、笑みを浮かべて言った。
「悪いけどもねえ、あんたこれ、洗ってきてもらえんかねえ?」
「…何ですか?」
僕はもう一度繰り返す。
老婆はティッシュにくるんだ何かを差し出した。
「今ので落ちてしもうて」
およそ老婆とは思えぬ力で、僕の手にそれを押し付ける。
僕は手のひらの中で丸まった、ぐしゃぐしゃの幾重にも重ねられたティッシュを、指先で摘まんで開いた。
湿っている。
入れ歯だった。
蛇口から飛び出るしぶきがシャツの袖口を濡らした。入れ歯は上顎の総入れ歯で、手の中で洗うたびカタカタと鳴った。
見知らぬ土地のどことも知れぬ場所で、他人の入れ歯を洗っている。見知らぬ土地、見知らぬ場所、…手が止まった。
あの老婆には見覚えがない。
駅の窓口で渡された切符は通路側で──
隣はずっと空席ではなかったか?
それで…何だ?
眠りの中から激しく放り出されたせいで、どこか僕の頭は混乱している。何か夢を見ていた気がしたが、欠片も思い出せない。夢の残滓はたった今、流れる水とともに排水溝に吸い込まれてしまったようだ。
大した夢でもなかったのか。
どうだろう。
顔を上げるとそこに僕がいた。洗面所の鏡に映る僕は、頬がこけて顔色が悪く、朝出掛ける前よりもずっと歳を取ったように見える。オート蛇口の水が止まった。
「大丈夫ですか」
横に乗務員と思われる男が立っていた。「気分が悪いですか?」
いや、と僕は言った。
「ちょっと、これを」
そう言って、手の中の入れ歯を見せた。乗務員は意外だというように僕の顔を見て、それからまた入れ歯を見て──僕を見た。
「あなたのじゃないですよね」
もちろんそうだ。
「隣り合わせた人ので…急ブレーキで落ちたらしくて」
乗務員は、ああ、と頷いた。
「ところで」と僕は言った。「ここはどのあたり?」
「ちょっと前にFを通り過ぎてすぐでしたから、ここ、…」
取り出した小さな路線図を指で辿る。「今はUの手前180メートルほどですかね」
「人身事故?」
アナウンスの内容を確認する。
「ええまあ」と乗務員は言った。「自殺のようで」
席に戻る途中、再びアナウンスがあった。
「大変ご迷惑をおかけしております。当列車は人身事故発生のため停車しております。復旧に全力を尽くしておりますので、今しばらくお待ちください…」
僕はまた洗面所の方へと引き返し、人で溢れかえっているデッキに出た。デッキの中では皆携帯で予定変更を伝えている。僕もそうしなければならない。
携帯の連絡先に入れてあった相手の自宅に電話を掛けた。呼び出し音が鳴る。4度目で留守番電話に切り替わった。
「ただいま留守にしています。発信音の後にメッセージをどうぞ」
腕時計で確認した時刻は15時18分。約束は16時半だった。到底間に合うとは思えない。
僕は用件を早口で言った。
「あの、今日お伺いすることになっていた
電話を切った。この連絡先は相手の自宅兼仕事場だ。
初めて連絡をした時、相手は携帯を持っていないと僕に告げた。自宅に伺ってもいいかと聞くと快く了承してくれた。そして、ウチはちょっとわかりづらい場所にあるから、迎えに行くので駅に着いたら連絡をしてくれと言われた。
それならば誰なりといて電話に出てくれてもよさそうなものだったが、まあそんなものだろう。一人暮らしかもしれない。トイレに行っていたとか、聞こえなかったとか?
まあいい。僕はポケットに携帯をしまった。
チェックインするはずのホテルにも連絡を入れようかと思ったが、やめることにした。僕の後ろには電話を掛けるために集まった人々がいつの間にか列をなしていた。
とりあえず入れ歯を返さなければ。
僕は人をかき分けて席に戻った。
しかし、老婆の姿はなかった。
僕の座席の上に落ちていた本が置かれていた。
約2時間後に運転は再開されたが、ついに老婆が戻ってくることはなかった。
僕の手の中には不必要な入れ歯が残された。
19時過ぎ、僕はM市の駅に着いた。プラットホームには駅前のロータリーが見下ろせる場所にぼろぼろになった古いベンチが置いてあり、誰かが捨てていったこの町の広報誌が雑巾のように捩じられ捨てられていた。風にバタバタと音を立てる観光の色あせたのぼり。階段を降り、改札を抜けて、ロータリーへと出た。
そこで携帯を取り出し、もう一度僕は電話を掛けた。
コール4回で繋がる。
「ただいま留守にしています。発信音の後にメッセージをどうぞ」
同じか。通話を切る。電車の走行が再開された時、すぐに掛けたのだが、そのときも留守電だった。それからずっと、10分おきぐらいに掛けているが、繋がる気配はまるでない。そんなに長いトイレもないだろう?これは本格的にすっぽかされたか…
僕はため息をついて携帯をコートのポケットに入れた。3台縦列に停まっているタクシーの、先頭に歩み寄る。
近づくと、すっと後部ドアが開いた。
「どちらまで?」
僕は住所を告げた。そう、相手が電話に出ないのなら、こちらから行ってしまえばいいのだ。なにも諦めて帰ることはない。長い時間をかけて辿り着いたのだ。
それに本当に、トイレに籠っているのかもしれないし…
***
母と義父が再婚したのは僕が10歳、妹が2歳になったばかりの夏だった。
実の父親は妹が生まれてすぐに飲酒運転の車にはねられて死んだ。場所は外灯のない田舎道、道の両側にびっちりとどこまでも田んぼが続き、それと並行して田に水を引くための側溝があり、実父ははねられた後、その側溝に落ちて死んでいた。
のちに溺死であったと聞かされた。
***
降ろされたその場所はしんと静まり返っていた。
「どうします?引き返すなら…?」
いや、と僕は言った。
「いいよ。少し待ってみます、ありがとう」
タクシーの運転手はちらりと僕を見て、代金を受け取った。
「じゃあ帰りは足がなかったらまた呼んでくれれば、来ますんで」そう言ってタクシー会社の名刺をくれた。
「ありがとう」
そして走り去った。
昔は商店街だったのだろう。通りは同じような作りの店舗が、いや、元店舗か──が並び、そのどれもがシャッターを下ろしていた。時間が遅いからというわけでもなく、店舗として使われていないのだ。いくつかの店舗のシャッターには張り紙が残されている。色あせて、破れてはいるが、かすれた文字は読み取れた。
長年のご愛顧ありがとうございました。
どの張り紙も同じ文面だ。
僕は目的の家に近づいた。留守なのは一目瞭然だ。
どの窓にも明かりはない。
そこにだけはシャッターが下りていなかった。通りに面した入口の重そうな両開きのガラスドアは固く閉ざされている。中は真っ暗だった。表の看板には『ときわ写真館』とあった。
ときわ。常盤…間違いない。
僕はコートのポケットから封筒を取り出した。
表には僕の名前と住所が。裏を返す。そこには差出人の名前があった。
この『ときわ写真館』の主人だ。
1週間前、この封筒の中に妹の手紙と写真が入れられ僕の元へ送られてきたのだ。
1週間前。
仕事から帰り、郵便受けを開けると、ダイレクトメールや様々なチラシに混じってそれはあった。部屋の鍵を開け、湯を沸かしている間に、僕は暫くその封筒を眺めた。
常盤高史という名に覚えはない。
住所はK県。行ったこともない場所の見知らぬ人が、なぜわざわざ僕に手紙を寄越す?
考えても答えが出るわけでもなく、僕は結局封筒を開けた。
キッチンに立ったまま、シンクの横の調理台に中の物を出した。
白い便せんが一枚ひらりと落ちた。
僕は折りたたまれたそれを開いて読んだ。
お預かりしていたものをお送りします。
遅くなってしまい、申し訳ありませんで
した。
ときわ写真館 常盤高史
便せんにはそれだけ書いてあった。
お預かりしていたもの?
封筒の中にはもうひとつの封筒が入っていて、堅く封がされていた。開封すると、その中にはL判の写真が一枚、便せんが一枚入っていた。
写真を取り出した。
一目見てそれが何だか分かった。
心臓が妙な具合に捩じれるように痛んだ。
妹だ。
色褪せた写真に写ったそれは、確かに妹に見えた。
8年、8年だ。
妹は、8年分歳を重ねている。
妹は笑っていた。
どこかの肩まである灰色の壁を背に、半分だけ体を捩るようにこちらに向けて、微笑んでいる。
穏やかだ。その笑顔はとても慈愛に満ちていた。
青空。髪が風に揺れている。強い風だったのか、妹の頬に、乱れた髪が流れていた。
背後の壁には丸い穴が開いていて、そこから向こうの景色が覗き見える。
青い、水の表面。
海か、あるいは湖か?
どくどくと、鼓動が耳の奥で鳴り響いていた。
僕は手紙を読んだ。
兄さんへ
私を随分と捜したことでしょうね。
でももう長い時間が経ち、私の記憶も薄
れてきたのだと思います。
私に今でも会いたいでしょう。
私も兄さんに会いたい。
もしも会えるなら、今度は兄さんから、
私に会いに来てください。
私はもう帰れないので。
兄さん?
僕はもう一度読み直す。
もう一度、そしてもう一度。
ゆっくりと、ゆっくり、噛み締めるように。
そんなに長い文面ではない手紙のどこかが奇妙だと思った。
もう一度。
もう一度。
そうして確信した。
これは妹ではないと。
妹の名を騙る誰かが、妹の写真とともに送って寄越した、あるいは寄越そうとした、性質の悪い冗談だと。
火にかけたケトルがけたたましく鳴った。
僕は携帯を取り出し、K県のときわ写真館を探し出した。
そして、常盤高史に電話を掛けた。
「はい」
程なくして電話は繋がった。
僕はガラスドアの脇にある、壁の呼び出しブザーに手を伸ばした。古い機械だ。家の玄関にあるのと同じそれを僕は押した。
どこか奥の方で音が鳴っていた。
仕事場の奥が住居なのだろう。
音が止んだ、もう一度。
音が鳴る。
誰も出てくる気配はない。静まり返った店舗の奥にも、誰もいないようだ。
もう一度だけ押し、10秒待った。
何の反応もない。
僕は深く息をついた。明日出直すか…ポケットからもらったタクシー会社の名刺を取り出した。
そろそろホテルに行ったほうがいいだろう。
ふと──その時、誰かに呼ばれた気がした。
「…
振り返る。
通りにひとつしかない外灯を背に、男がひとり立っていた。
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