再会の雨音

hamapito

再会の雨音


 どうして、手を伸ばさなかったのだろう?

 離れてしまったその手を、わたしから伸ばせば間に合ったのかもしれないのに。

 でも、わたしはその場に立ち尽くしたまま追いかけることさえできなかった。

 ただ人波に紛れて小さくなっていく彼の後ろ姿を見送ることしかできなかった。


 どうして、あの時……



 手の甲がぶつかった。

 一瞬だけ触れた体温に、思わず大げさなほど手を引っ込めた。

 振り返った彼と目が合う。

 胸元まで引き寄せられたわたしの手を見つめ、彼は何も言わずに静かに笑った。

 少し寂しそうに。

 少し照れたように。

 そんな彼の表情に、わたしの固く握り締めた手から力が抜けていく。

 指先を冬の冷たい風がかすめる。

 ゆっくり、ゆっくり、開いた手を少しずつ、少しずつ、彼の方へと伸ばしていく。

 彼はただじっとわたしの手が近づいてくるのを待っていた。

 もう少しで、彼の頬に触れそうな距離まで来ていたわたしの手は、不意にその動きを止めた。

 中途半端に伸ばされたわたしの手の上で小さく雫が弾ける。

 いつのまにか体を包み込む重い空気。

 彼の先に見える雲で覆われた空。


「雨……?」


 そう呟いたわたしの声ごと引き寄せるように、彼が止まっていたわたしの手を掴む。

 一瞬の躊躇いもなく、そのまま彼は雨音に急かされるようにわたしに背を向けて走り出した。

 引き寄せられた上半身に引っ張られるように、わたしの足も動き出す。

 次第に強まる雨に体は冷えていくのに、掴まれた手の先から伝わる熱によってわたしは寒さを感じなかった。

 足元で跳ね上がる雨も、アスファルトから立ち上る香りも、ぼやける視界も、わたしの意識を逸らすことはもうできなかった。

 わたしはただ、その繋がれた手を見つめたまま走る。

 彼がどこへ向かっているのかも、どこを目指しているのかも、何もわからない。

 わからないけれど……不思議と不安はなかった。

 わたしの冷たい手を包み込む、温かくて大きなこの手があれば、わたしはそれだけでいいのだから。

 彼の足が止まる。

 振り返った彼にぶつかるようにして、わたしの体も止まる。

 雨は、私たちの体ではなく、頭上に張り出した屋根の上で音を鳴らす。

 見上げた視線の先で、前髪を濡らしたままの彼が笑った。

 その瞬間、わたしの心臓がまるで今動き始めたばかりかのように突然にその存在を主張し始めた。

 体の中で響き渡る鼓動に押されるようにして、わたしは繋がれたままだったその手を初めて自分から握り返す。

 白く吐き出される彼の吐息がふわりとわたしの額に触れた。

 繋がれた手がゆっくりと熱を帯びていき、わたしも彼も、もうその視線を逸らすことができない。

 辺りの音をかき消すように奏でられている雨音の中、わたしの口から言葉がこぼれる。

 あの日伝えられなかった想いが、あの場所に置き去りにしてしまった気持ちが、溢れて止まらなかった。

 やがて、手からだけ伝わっていた彼の体温がわたしの体を包み込む。

 柔らかく懐かしい香りに、全身から力が抜けていく。

 温かな彼の腕の中で、重なる2つの鼓動に混じるように、彼の声がわたしの耳に優しく降ってくる。


   *


 それは、あの日の続き。

 あの日振り返ることのできなかった自分を変える言葉。

 どうして振り返らなかったのだろう。

 どうして言わなかったのだろう。

 そう何度も思い返しては後悔に飲み込まれた。

 こんな思いはもう二度としたくない。


 だから、今度は……


 繋がれた手から、抱きしめた腕から、あの日感じることのできなかった彼女の体温が流れ込む。

 彼女の存在を確かめるように、俺の体には自然と力が入る。


   *


 そんな二人を途切れることのない雨の音が包み込む。

 それはまるで二人の再会を祝福するようにいつまでも優しく響いていた。



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