哀願
竜は奏の部屋の窓から庭に降り立ち、再び駆け出した。
奏が出産をする部屋は分かっている。母屋の一室だ。
頭の中に地図を描く。
裏庭を通り抜け、池のある庭を抜け、動物を入れておく古屋を通り抜け。赤子の泣き声を聞く。
「おいお前、そこで何をしている!」
母屋の監視をしている男が竜を見かけ近寄ってくる。だけど止まるわけにはいかない。時間がないのだ。
重々しく佇んでいた雲はついに雨を降らせた。はらはらと、屋根に雨粒が当たる音がする。……奏のところへ、彼方のところへ早く行かなければ。
「止まれ! 竜!」
竜は心の中で謝りながら、持っていた袋を振り上げる。
袋は男の額に当たった。鈍い音がして、男はその場に蹲る。
竜は駆け出した。男が血の流れる額を手で押さえながら、大声を上げた。
どこだ。奏様。どこにいるんですか。
竜は我武者羅に走る。足を止めない。
やがて赤子の泣き声がより大きく聞こえる部屋にたどり着いた。竜は扉を勢い良く開く。
部屋は物置部屋だった。部屋の一角に布を敷き、その上に青白い体が横たわっている。奏のそばには、産婆と、奏の赤子を抱きしめている若旦那の姿があった。
3人は同時に振り返り竜を見る。2人は驚きに目を見開き、1人は嬉しそうに目を細めた。
しかしその眼差しはすぐに険しさを取り戻す。
竜の背後から大勢の足音がやってくる音が聞こえたからだ。
奏は出産の疲れを癒せないまま、息も絶え絶えに叫んだ。
「竜! こいつだ! こいつの懐に鍵がある!」
奏は若旦那を指さした。
竜は若旦那に飛びかかる。その痩せ細った体は若旦那ほどの体躯であれば簡単に振り払えるはずだが、若旦那は唖然とした表情で竜を見つめ動かない。ただ子供を抱きしめるだけだ。
いち早く驚きから立ち直ったのは産婆だった。彼女は手を伸ばし、竜を引き止めようとした。しかし伸ばした手は竜に届かなかった。宙を引っ掻いて地に落ちる。
竜の背後で老婆の倒れる音がした。竜が驚いて振り向くと、そこには驚きの光景が広がっていた。
出産時に使っていたのだろう水桶から水が溢れている。それはひとつの生き物のようにぐねぐねと躍動し、老婆の首に絡みついている。まるで蛇のようだった。
竜は奏を見つめた。奏は先ほどより顔を青くさせながら、「早く鍵を」とだけ呟いた。
竜は鍵を探す。探しながら、気がつけば奏に話しかけていた。
「奏様」
返事はない。それでも良かった。それは竜にとって独り言のようなものだったから。
「俺、奏様に謝らなければならないことがひとつあります」
「……」
「奏様は覚えておいででしょうか。あなたが熱にうなされていた日のことを。あの日あなたは俺を呼んで、昔話を言い聞かせたんです。そして、俺に言ったんです。”辛いことがあった時、彼方にこの話を言い聞かせててやってほしい” と。ですが俺はその約束を守るつもりはありません……それは、あなたが彼方様にかけてあげるべき言葉ですから」
指先が細長いものに触れた。竜がそれを取り出すと、それは紐にかけられた1本の鍵だった。
竜はそれを握り締め立ち上がる。そして部屋を去る前に一度奏を振り返った。
「彼方様を連れて、またここに戻ってきます。一緒に外に出ましょう」
***
竜は彼方のいる地下牢に向かって走り出した。走りながら、妙だと思った。
屋敷内が妙にひっそりとしている。それに、竜を追いかけていたはずの男たちの姿が見当たらない。何故かは分からない。だが、理由について考えている暇はなかった。
明かりも持たずに地下牢へ続く階段を駆け下りる。
「彼方様!」
竜は名前を呼んだ。すると、少しの間を置いて「りゅう兄?」と、掠れた声が聞こえる。それはまるで泣きはらした後のような声だ。
「彼方様! ご無事ですか?」
「りゅう兄! りゅう兄!」
彼方は嗚咽を漏らしながら、何度も竜の名前を呼ぶ。竜は彼方に近づこうとして、床に転がっている何かに躓いた。
「これは…………っ!?」
竜の足が踏んだのは人間だった。暗い部屋では誰が倒れているのか分からない。しかし既に息絶えているのは確かだ。
竜の脳裏に、先ほど奏が産婆の首を絞めた時のことを思い出す。
もしこれを奏がやったのだとしたら。
それに、屋敷内が妙にひっそりとしているのも奏の力によるものだとしたら。
この屋敷には今、何人の死体が転がっているんだ。
それまで感じなかった血の香りが鼻を擽った。幻臭なのか、それとも現実か。
竜は吐き気に襲われ、口元を手で覆う。思わずその場に蹲りたくなったが、ここで止まっている場合ではない。
竜は彼方の牢屋に近づき_____その間にも幾人もの体を踏みそうになった_____牢屋の鍵穴に鍵を当てる。
鍵の開け方はあまり詳しくない。しかし記憶の中にある動作を思い出しながら、見様見真似で鍵を動かす。
やがて、がちゃりと音を立てて鍵は開いた。錆びたような音を立てながら牢屋は開く。
「りゅう兄……」
「彼方様。立つことは出来ますか?」
彼方は自分の足を見つめ、力なく首を振った。
竜は彼方に背中を向ける。
「俺の背中に乗ってください。出来ますか?」
「……うん」
竜の背中に、子供1人分の重みがかかる。竜は足に力を入れて立ち上がった。
足が震え、崩れ落ちそうになる。そんな自分を律して、一歩一歩、歩き出す。
階段を上がって外に出る。竜が来たおかげか雨は止んでいた。竜は彼方を抱えながら長い牢屋を歩く。
「……彼方様。俺が良いと言うまで目を瞑っていてください」
視界の隅に時折、男の死体が映る。それは仕立ての良い服を着ていたり、ぼろの布切れを身につけていたりする。外傷がないものもあれば、頭から血を流して倒れていたり顔の原型が残っていないほどに殴られている者もある。
これら全てを奏がやったとは思えない。だとしたら、先ほどの暴動が悪化してしまったのか。
監視はどこに行った? どうして母屋にまで奴隷の死体が入り込んでいる? 奴隷は本来母屋には立ち寄れないはずなのに。
奏様は無事なのか。
竜は奏がいたはずの部屋に立ち寄る。そこには人の姿が見当たらない。
「……奏様?」
返事はない。部屋はひっそりと静まり返っている。
「奏様、一体どこに……」
竜は途方に暮れ、奏の名前を呼ぶことしか出来ない。
母屋を歩き周り、奏の名前を呼ぶ。返事の変わりに男の死体が姿を見せる。
彼方が耳元で悲鳴を上げた。
「りゅう兄? これ、何……」
「彼方様。目を閉じていてください。大丈夫ですから」
俺が彼方様をお守りしますから。そう何度も言い聞かせながら、母屋を歩く。何故こんなにも屋敷内は静まり返っているのか。
その答えを知るよりも先に。
竜は母屋の中で1人の男と出会った。彼は竜が見かけた中で唯一生き残っていた男だった。
彼は大旦那の部屋に入り金目のものを漁っていたのだ。
竜の立てた物音に気がつくと振り返り、にやりと笑みを浮かべた。
ゆらりと立ち上がる、その手には銭が握られている。拳は皮膚が剥がれ、その先から血が滴り落ちた。
「竜……お前が持ってる ”それ” ……」
それ、と、男が指差したのは袋ではない。彼方の方だった。
「俺は知ってるぞ。水精だろ、それ……なあ、お前狡いぞ。抜け駆けしようたってそうはいかないからな……」
男はゆっくりと竜の元へ歩み寄る。そして、手の伸ばせる距離まで近づくと、血に濡れた拳を振り上げた。
「寄越せ! それは俺のモンだ!」
頭を鈍器で殴られたような衝撃が襲い。
竜の意識が一度途切れる。
次に目覚めた時、2つの大きな白銀が竜を見下ろしていた。
彼方だ。
彼方は双眸から大粒の涙を流し、竜に縋り付いている。
口を何度も大きく開き、何かを訴えようとする彼方の声が竜には聞こえない。
竜は重たい手を彼方に伸ばし、涙で濡れる頬を拭った。
震える声で呟く。
泣かないで。笑っていて。
竜はそれだけを呟くと、瞼をゆっくりと下ろした。
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