離別


 竜は普段の仕事に戻ることになった。屋敷の一角で、取引先から受け取った数々の食材や資材を倉庫へと運んでいく。

 門前に置かれた荷物と倉庫の間を何往復か行き来したところで奴隷に呼び止められた。彼はつい最近屋敷にやってきたばかりの男だ。歳は20前半。筋骨隆々としているが、死んだような土色の肌を持っている。中央の窪みからは2つの目玉がぎらぎらと光を放ち、笑えば白い歯が姿を現す。彼に話しかけられたのは初めてだが、まるで宙に浮かぶ目玉と歯と会話をしているような気分になる。

「竜。お前、若旦那の "気に入り" なんだろう。聞いたぜ」

 若旦那。竜が今1番聞きたくない言葉だった。持っていた資材を支持通りの場所に置いて、男と向き合う。

「……それが?」

 竜がそう尋ねれば男は顔色を明るくさせた。

「やっぱりそうなのか! いや、何だ。お前にはひとつ頼みがあるんだよ」

「頼み?」

「そうだ」

 奴隷の監視をしている男が竜たちが喋っているのを咎めたので、2人は倉庫を出て、歩きながら再び喋り始める。

「そう。お前にしか頼めないことなんだ_____」

 男はそう言って、辺りをこっそりと見回す。

 竜も男の目の動きに合わせて顔を動かした。

 周りでは竜たちと同じく仕事をしている奴隷がいる。そのうち真面目に仕事をしているのは古くからここで働いている奴隷だ。その他の最近来たばかりの者は、気怠げに体を動かすか、奴隷同士で諍いを起こしている。

 本来ならばもっと現場の監督がいて奴隷を統制しているのだが、ここ最近の騒動のせいで人員が足りていないので、彼らは監視の目を盗んで諍いを起こしてばかりいる。これが諍いの内で済んでいるなら良いが、争いにもなると多少面倒だ。問題を起こしたら折檻しなければならないから。


 男は忌々しげに呟いた。

「俺は元々故郷で働いていたんだ。両親はいない。妹と2人で金銭を稼ぎながら、何とかその日を生きているような毎日だった。だが最近妹が病気になって、今までの仕事では生きていけなくなった。そこで大旦那に買われてこの屋敷にやって来たんだ。妹に治療費を送るという約束で……しかし大旦那は亡くなり、今俺たちの上にいるのは頼りない若僧だ。妹にまともに金が払われるかも分からない」

「……それで?」

「お前に頼みというのは若旦那に頼んで、俺を一度故郷に帰らせてほしいんだ。俺の故郷はここから少し離れたところにある。帰るのに数日もかからないだろう。ちょっとお金を持たせてくれるだけで良いんだ。お前ならあの男に頼むくらい簡単なことだろ」

 男は、歳の離れた子供に本気で懇願をした。竜もそれに答えてやりたいとは思う。だが、きっともう竜の願いは若旦那に聞き入れられない。

 彼方と共に竜を売るというのは竜を見捨てたということだ。それに竜自ら、若旦那の元から離れることを望んでいた。奴隷たちは知らないことだが、竜はもう若旦那の気に入りではないのだ。

「悪いけど俺にはできない」

 竜は無言で首を振る。

 男は竜に縋るように、小さな両肩を手で掴んだ。

「何でだよ。ちょっと金を貰ってくるだけだろ」

「……俺はもう若旦那の "気に入り" じゃない。俺の言葉なんて聞いてくれないよ」

 男が瞠目しその場に崩れ落ちる。

 竜は彼に手をかけようとした。しかしその手は勢い良く振り払われてしまう。

「……綺麗な子だったんだ」

 男は俯いたまま呟く。

「誰かのお嫁さんになって、きっと幸せになれる子だった。それなのにどうして……俺はあの子を治してやりたいだけなのに……こんなことなら、ここに来なければ良かった」

 男が顔を上げた。その目は涙に濡れていた。

「こんなことなら前の仕事を続けていれば良かった。俺が欲を出さずにあのまま働き続けていれば……お金はないかもしれない。でも、せめてあの子のそばにいることが出来たのに」

 男は啜り泣く。自分よりも数倍体付きの良い男の背中が、酷く小さなものに思えてくる。


 どうしてこんなことになるのだろう。そう思う。

 誰かと話す度に、誰かの人生に触れる度に、どうして誰もが幸せになることが出来ないのだろうか、と、そう感じる。

 

 これが男にとっての不幸だとして、この先に幸せが訪れることがあるだろうか。彼がこの屋敷を離れ妹の元へ帰ることが。妹が病気から立ち直り、例え貧しくても2人で幸せに暮らせる日が来るだろうか。

……きっと来ない。この男は妹の安否も分からないままに、奴隷として生き続けることになる。


 それでも、何か行動を起こさずにはいられない。

 無謀だと分かっていても、我武者羅に動いていなければ事態は何も変わらない。

 今のままでは、竜もこの男も、ただの奴隷でしかない。


 竜は彼の元にしゃがみ込み手を差し伸べた。

 男が再び顔を上げる。

「立って。今のままでは俺もあなたもただ仕事を怠けているようにしか見えないから」

「……ああ」

 男は竜の手を借りて大人しく立ち上がる。

 2人は門に戻り、それぞれ荷物を手に取った。


 竜は男に、そして自分に言い聞かせる。

「ただ現状を憂いているだけでは何も始まらない……と思います」

 竜の今の状況は最悪だ。

 若旦那に見捨てられ、彼方と共に売られることが決定し、その上奏に裏切られたのかもしれない。

 だが、歯を食いしばって我慢しているだけでは事態は変わらない。

「じゃあどうしろって言うんだ」

「すみません。それは俺にも分からない……でも」

 竜は辺りを見回す。あまり雰囲気が良くないような気がする。何かが起きそうな、予感。

「きっと "その時" は来る。俺たちが行動を起こすべき時が」


 2人はひたすら荷物を運んでいた。空の上を流れ行く雲が次第に厚みと量を増し、屋敷の上に広がり始める。

 彼方は大丈夫だろうか。竜が不安に思っていたその時だった。

 竜の背後で誰かの罵声が聞こえ、周囲がどよめく。

 振り向けば、数人の男が言い争っているのが見えた。諍いは次第に勢いを増して争いへと発展していく。1人の男が胸倉を掴み、頬を殴り付ける。殴られた男は背後の石垣へ勢い良く当たるとそれきり動かなくなる。男を拘束しようと試みた者もまた殴られ、激昂した男が殴り返す。

 最初は2人だけの争いだったはずが、次第に規模を増し、何人もの男を巻き込んだ乱闘へと発展していく。

 竜の頭の中で何かが弾ける音が聞こえた。それは物事の始まりを告げる火薬の音色に似ている。

 今だ。そう思った。動き出すならこの機会しかないと思った。

 竜は持っていた荷物をその場に放り出し、駆け出す。背後で竜の名前を呼ぶ1人の男の声が聞こえた。竜は彼に向かって振り返り、一度だけ手を振るとまた駆け出した。


***


 竜は屋敷の裏庭を通り、窓から奏の部屋に侵入する。久方振りに訪れた部屋は以前と変わらない落ち着きで突然の来訪者を迎え入れた。

 机の上に置かれた筆。机の隅に置かれた生活用水を入れる桶と、筆を洗う桶。本棚には大量の本が入っているがそのうちの一部が欠けている。

 竜は部屋を一度ぐるりと見回してから、寝台に近づいた。そして、敷布の下に手を入れる。膝の上まで侵入させたところで、硬いものに手が当たった。竜はそれを掴み引き出す。

 取り出したのはひとつの布袋だった。ずっしりとした重さを感じるそれを開くと、中には何冊かの本と大量の宝石が入っている。

 以前竜は奏に、屋敷を出る際はこの袋を持っていくように教えられていた。

 本を確認すれば、奏と最初に見た地図や辞書、そして奏がいつも書き付けていた冊子が入っている。

 そして宝石。

"屋敷を出たら、この街を背に真っ直ぐ西に向かって走るんだ。暫くは片田舎の景色が広がっているだろうが、いくつか村を抜けたところに、ここの街のような景色が広がっている場所にたどり着く。そこには宝石商がいるから、これらの宝石を売れば高値で買い取ってくれるだろう。恐らく2人なら数年は暮らせる金額だ"

 奏が何故これらの宝石を持っているのか理由は聞かなかった。聞いたとして、気分が悪くなることは分かり切っている。

 竜は中身を確認すると布の口を閉じ、紐を手に持つ。

 

 耳を済ませると、風に乗って、奴隷たちの喧騒が聞こえる。それを止めようと躍起になっている監視の怒鳴り声も聞こえる。

 竜はそれを尻目に、今度は部屋の隅に置かれた櫃を開く。

 中には色とりどりの着物が入っていた。赤、黄色、緑。竜は中を漁って、やがて一枚の黒色の着物を見つける。

 竜_____自分と同じ名前を持ち奏と同じ力を持つ動物_____の模様が縫われた着物。いわば2人の象徴のようなもの。

 本当ならばこの着物も一緒に持っていきたいところだが袋にはこれ以上荷物を入れる余裕はない。だから。

 竜は着物を手に取ると顔に近づけ息を吸い込んだ。薄れた香の香り。頭がかき乱され、くらりと目眩を起こす。

「……奏様」

 奏が自分を裏切ったのか、本当のところは分からない。だけど竜は奏を嫌いになることが出来なかった。

 竜の記憶に残っている奏との思い出は、今も竜の心をかき乱す。色褪せることなく存在している。

 初めて会った時、相手にするのが面倒そうだと思ったこと。彼の性格に慣れていくにつれ、彼の子供が好きなところや竜への気遣いを絶やさないところに好印象を持ったこと。

 今思えば、彼のために何かをしようと思ったのは初めて彼に抱きしめられた時だ。竜は奏に抱きしめられながら、彼の子供を演じた。子供に会うことが出来ない奏のために何かをしてやりたいと思ったのだ。

 それ以来竜はずっと奏に振り回されている。揶揄われ、彼方を救うように頼まれ、裏切られ、それでも彼を嫌いになることは出来ない。

 ずっと一緒にいたい。彼の笑顔をずっと見ていたい。彼を幸せにしてあげたい。若旦那ではなく、自分の手で彼を救いたい。

……だけど、今の竜にはその力がない。


「奏様……愛しています」

 竜は着物にそっと口を寄せる。奏の唇が竜の額に触れた時のことを思い出しながら目を閉じた。


 その時、遠くから赤子の泣く声が聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る