親愛
昼に奏の部屋を訪ねた時、奏は寝台で本を読んでいた。
「竜」
「なんでしょうか」
「何かやりたいこととか、したいこととかあるかい?」
唐突な問いかけに竜は面喰らう。
「……おっしゃる意味が良くわかりません」
奏は本を布団の上に置き、竜に向き直った。
「ああ、ごめん。少し唐突過ぎたね。ただね、君には散々迷惑をかけただろう。そのお詫びに、私が出来ることであれば何だってしてあげたいんだ。とは言っても、この体で出来ることは限られるけどね」
奏は優しく腹をさする。
以前はすらりとしていた腹の形が、今では服の上から分かるほどに隆起している。
「別に、あなたにしてもらうようなことなんてひとつもありません」
竜としては、自分のやるべきことを果たしたまでだ。大旦那に命令された通りにしているだけのこと。そして、奏から今まで受け取ってきた優しさを返しているだけなのだ。
だから奏に、そんなことを言われるとは思っていなかった。むしろ、まだ恩を返し足りないと思っているくらいなのに。
「酷い言い草だね」
奏は苦笑する。
「じゃあこう言い直そう。私は君に頼んでいるんだ。"君の喜ぶ顔を見させてくれ" とね」
「……それは命令でしょうか」
「そうだ」
命令と言われて尚、竜は言いあぐねていた。
と言うのも、竜にとっての喜びは、奏と一緒にいること。ただそれだけなのだから。
結局竜は数分悩んで、こう答えた。
「お腹を撫でたいです」
竜は寝台に腰掛け、奏の腹を見つめた。
自分の頭ほどの大きさ。これが、命なのだ。
1人の人間の中にもうひとつの生命があるということは信じ難いことだと竜は思う。
「この中に小さな命があるんですよね」
「ああ」
「本当に不思議ですね。どうしてお腹の中で育つんだろう。鳥みたいに卵を産むのなら、もっと楽に育てられるだろうに」
竜は腹に手をそっと当てた。
その瞬間、僅かに腹が動いた。
「うわっ」
竜は驚いて手を引っ込める。奏がくすくす笑った。
「竜は、どうやって子供が出来るのか知ってるかい?」
竜は首を振る。
「全く? 周りの人から聞いたことは?」
「……俺、あまり仲の良い人はいませんから。歳も他の人より離れてますし」
「じゃあ教えてあげようか?」
唐突な提案。今日の奏は、何だか気まぐれだ。
「教える? 本に書いてあるんですか?」
「……そんな本もあるかもしれないけど私は持ってないな」
「じゃあ、奏様が教えてくださるんですか?」
竜は目を輝かせて奏を見つめる。
竜が教えてくれることなら何だって勉強してみせる。出来ることが増えると、奏は褒めてくれるから。
そんな竜を見て、奏は苦笑しながら「竜、目を閉じて」と言った。
竜は言われた通り目を閉じ、奏の動向を伺う。
突然、竜の体が引き寄せられた。均衡を崩した体が前のめりになる。その体を奏が受け止める。
思わず目を開けようとすれば、奏が「目を閉じて」と言って制した。
竜は大人しく目を瞑り直す。暗闇と静寂が辺りを包む。
奏の冷たい手が何度も竜の額を撫でると、子供の体温と混ざり合わさって、次第に指先が温かくなった。十分に手を温めると、指先が離れていく。
そして、額に柔らかい "何か" が押し当てられる。
「もう良いよ」
竜は、急に光の届いた眼界を馴染ませるように目を細めて、奏を見つめる。
あまりにあっという間の出来事で、思考がついていかない。
額に手を当てながら竜は尋ねた。
「……それで、どうやったら子供が出来るんですか」
「これで終わり」
「え?」
「今君のお腹に新しい生命が産まれたよ」
「……ええ!?」
竜は咄嗟に自分の腹を見つめる。当然の如く、腹は大きくなっていない。
困惑しているところに追い討ちをかけるように、奏がニコニコと笑いながら話しかけた。
「どう? 何かさっきと違うような感じがしないかい? お腹が妙に温かく感じるとか。違和感を感じるとか」
そう言われ、竜は腹に手をやり、神経を集中させた。当然だが、温かい。
「確かに何だかさっきより温かい気がするような、しない、ような……?」
「ふふ。どう? 新しい家族が生まれた感想は。私と君の子供だよ」
奏の手が緩慢に腹を撫でるので、竜は擽ったさに身を捩らせた。
「どうって言われても_____」
あまりに唐突な出来事に、冷静な感想が何も思い浮かばない。
奏との間に子供が出来るのはなんとなく嬉しいと思う。
でも。
「こ、困ります……」
奏は目を瞬かせた。
「どうして?」
「だって、俺……」
泣きそうな声で小さく訴える竜に、奏は相槌を打って、先を促す。
「こんな急に子供が出来るなんて知らなかったから」
「うん」
「何の準備もしてこなかったから」
「うん」
「……名前、決めてないんです。赤ん坊の」
奏がぴたりと相槌を打つのを止めた。
竜は不審に思って顔を上げた。
そこには、口に手を当てて震えている奏がいた。その顔は真っ赤に染まっている。
まさか、と竜は思った。
奏は暫く震えていた。しかし我慢できなかったみたいで、口から手を放すと、今まで聞いたことがないほどの大きな声で笑い出した。
部屋に笑い声が木霊する。
「何で笑うんですか!」
「だって君、とても、可愛いことを言うから。 "まだ名前を決めてない" だなんて!」
笑い過ぎて涙を流して咳き込む奏。
竜は頬を膨らませた。
「もう良いです。元気そうなんで帰りますね」
くるりと方向を転換させ扉に向かう竜を奏が呼び止める。
「竜。悪かった。今のは冗談だ」
「どこからが嘘ですか」
「額に口付けをしたくらいで子供はできない」
「……」
「無言で帰ろうとするな、無礼者」
竜は顔を茹で蛸のように赤くさせ、体を震わせる。笑いではない。怒りのためだ。
「また俺をからかったんですね! 意地悪!」
「……だって君、いっつも可愛らしい反応をしてくれるから」
「可愛い可愛いってあなたは俺のことをいっつもそう言って揶揄う! 俺は男なんです! そんな風に言われても嬉しくありません!」
「私にとって可愛いは最上級の褒め言葉だよ」
ああ言えばこう言う。奏はこれだから相手し辛いのだ。
「そうですか。分かりました。あなたのお言葉は甘んじて受け止めます。ありがとうございます!」
今度こそ部屋を出ていこうとする竜を、再び奏が呼び止める。
「竜」
「何ですか!」
怒りながらも、名前を呼ばれると情景反射で竜は振り返ってしまう。
そこには、それまでの揶揄うような素振りを止め、真剣な表情で竜を見つめる奏がいた。
奏のその表情を見て、竜も無意識に姿勢を正す。
「君はいつか本当の子供の作り方を知る時が来るだろう。だけど、それをする時は、本当に愛し合った相手とだけするんだよ」
「愛し合う……?」
良く分からない言葉。竜は分からなかったけど、奏の言うことを静かに聞く。
「君にはまだ分からないかもしれない。でもね、いつか分かる日が来る。この人のそばにずっと一緒にいたい。笑っていたい。そんな人が見つかる日がきっと来る。だから_____」
奏の唇が小さく動く。
声が小さくて、最後の言葉を聞き取ることができなかった。
「今、何とおっしゃったんですか」
竜の問いかけに、奏は目をくしゃりと閉じて微笑む。
「"愛してる" って言ったんだ。君が好きな人が出来た時に、この言葉を伝えてあげなさい」
竜は奏の部屋を出て、廊下を歩きながら、奏に言われたことについて考えていた。
「"愛してる"」
人を愛する時に使う言葉。しかしながら、愛とは何なのだろう。どこかの誰かが言っていた気がするが、思い出せない。
愛とは。
"この人のそばにずっと一緒にいたい"
"笑っていたい"
奏はそのような人がいつか現れると言っていた。
ずっと一緒にいたいと思うこと、笑っていたいと思うこと。それが愛なのか。
どうして愛し合った人となら、子供を作ることが出来るのだろう。
どうして俺は今は、子供を作ることが出来ないのだろう。
……子供だから?
……子供だから、奏に冗談で揶揄われてしまったのだろうか。
竜はふと、あることに気がついた。
その瞬間、体が無意識のうちに駆け出し、来た道を戻っていた。
「奏様!」
勢い良く扉を開けると、奏が読んでいた本から顔を上げ、鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべた。
「竜。どうしたんだ。こんな急に」
竜は肩で息をしながら「あなたに言いたいことがあるんです」と、言った。
「愛っていうのが何なのか俺には良くわかりません。きっと、俺はまだ子供だから。あなたに揶揄われてばかりのただの子供だから。だけど、ずっと一緒にいたいって思ったのは、一緒に笑っていたいと思ったのはあなたが初めてなんです」
竜は息を切らしながら言葉を続ける。
「いつもあなたを悲しませてばかりの俺をあなたは捨てなかった。迷惑をかけてばかりで、生意気に口答えをする子供の俺を、あなたは決して見捨てなかった。それどころか、俺に沢山のことを教えてくれた。そんなあなたに俺は、まだ何の恩返しも出来ていない。あなたはそばにいてくれるだけで良いと言ったけど、俺は嫌なんです。俺はあなたを悲しませるようなことは二度としたくない……俺は_____」
竜の脳裏に、奏が床に臥せていた時のことが思い浮かぶ。
竜の苦手な太い腕が、太い足が、高い背が。
羨ましくて仕方がない。
「俺は……俺だけが、あなたを幸せにする人でいたい」
子供だから、
「だから_____」
竜は顔を真っ赤にさせて叫んだ。
「愛しています! 奏様!」
それだけ言って、扉も閉じずに立ち去る竜を、奏は腕を伸ばして引き留めようとした。
しかし、竜は行ってしまった。
「……いつまで経っても私を飽きさせないね。君は」
奏は寝台からゆっくりと起き上がって、扉を閉じる。
木の立てる小さな悲鳴。
その音に呼応するかのように、奏は、瞳に悲しみの色を湛えて笑みを浮かべた。
その日の夜竜が奏を訪ねた時、奏は予想外にも、いつもの様相を崩さなかった。
机の上に広げた冊子に字を書き連ねていた手を、竜の来訪と共に止める。
止め時を探していたのかもしれない。普段は少しだけ躊躇するのに、その日はあっさりと冊子を閉じ、隅に置いた。
竜は奏の前に食事を置く。
「竜」
「は、はい」
「……君は子供は好きか」
竜はてっきり、奏から昼のことを聞かれるのではないかと思い萎れた花のように大人しくしていたが、奏は全く別のことを竜に尋ねた。
奏の意図が分からず、竜は曖昧に「はあ」と相槌を打ち、それから暫く経って「好きです」と答えた。
「そうか」
奏は満足そうに笑う。
そして、不意にその笑みを消した。
「竜、君に頼みがあるんだ」
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