信頼





「頼み、ですか」

「そうだ」

 奏は、食事に手をつけなかった。いたになく真剣な眼差しで竜を見据え、返事を待つ。

「それは……どのような」

 奏の放つ雰囲気が、竜の体の末端をぴりぴりと震わせる。

 奏は緊張しているらしかった。その緊張は竜にも伝わった。

 奏のためなら何だってしてみせる。竜はいつだってそう公言しているが、いざ言われるとなると、少し萎縮する。

 竜は少し瞬きを多くさせて、奏を見つめ返した。

 2人の視線が交差する。

 

 静寂を裂いたのは奏だった。


「……私はもうじき出産を迎える」

 奏の大きくなった腹を一瞥する。そこにはひとつの命が眠っている。温かくて、優しくて、不思議で……恐怖すら覚える、生命の神秘。

「出産の時、大旦那あの人は私のそばについているだろう。そして、これは私だけが知っていることだが……あの人は常に彼方の牢屋の鍵を持ち歩いているんだ」

 奏が声を潜めるので、竜は奏のそばに普段より近づいた。耳元で、奏の声が囁かれる。

「その時、私は部屋の扉を開けておいてもらう。産声が聞こえた時に私の部屋へと来て、鍵を奪い取ってほしい……そして、彼方を連れてこの屋敷から逃げるんだ」

 竜はぱっと顔を上げた。目を見開き、信じられないような気持ちで奏を見つめる。

「私が、彼方様をお連れして……」

 呟いた声は震えていた。

 主人に歯向かう態度を取った上に、商品どれいを持ち去って逃げ去る。

 もし捕まってしまえば唯では済まないだろう。

「そんな…俺にはできません!」

 竜は顔を真っ青にさせて、大声を出す。

「静かに」

 奏が竜の口を手で塞ぐ。

「……」

 誰も人が部屋に入ってこないことを確認すると、奏は息を大きく吸い込んだ。

 わざとらしく大声を上げる。

「少しくらい良いじゃないか。散々君には良くしてやったんだから……それに、女役ばかりさせられて、少々退屈していた所なんだ」

 竜の体を抱きしめ、その耳元で小さく囁く。

「扉の向こうに誰かいる。窮屈だろうが少し我慢していてくれ」

 竜がこくこくと頷けば、奏は竜の口から手を離し、その手を竜の髪へと持っていった。

 柔らかな笑みを浮かべ、優しい手つきで髪を撫でながら、奏の声は底冷えしそうなほどに冷たいものだった。

「君は彼方の姿を見たことがあるだろう。その時何を思った」

 竜はまごつきながらも、奏の問いかけに小さく答える。

「……とても綺麗で、奏様によく似ていると思いました」

 彼方に出会った頃、彼は3歳だった。見目の区別がつかない赤子と違って、その頃になれば顔立ちに個性が現れ始める。3歳の幼子は既に、父親かなでの血を色濃く受け継いだ美貌を持ち合わせていた。

「……そうだ。彼方は間違いなく私の血を、水精の力を引いている。君には分かるだろ。この力を持つ者が将来どんな目に遭うのかを」

 竜は黙り込んだ。奏の将来については、とても良く理解していたからだ。

 せめて大旦那に似ていたなら、ただの奴隷として_____それでも水精なので高額で_____売り出されていたかもしれない。だが、彼方は美しかった。奏に似過ぎていた。きっと、奏と同じ道を辿るのだ。

「私の一番小さな弟は売られた時6歳だった。彼方ももうじき6つになる。もう時間がないんだ」

 奏は竜の顔に手を添え、成長途中の子供の、すらりとした頬を撫でる。目を細め、愛おしいものを見るような表情で。

「君しかいないんだ。頼れる人がもう、君しか。私のことを理解してくれる君しかいないんだ」

「奏、様……」

「“私のためなら何でもする” 君はそう言っただろう?」

 竜は体を震わせながら、頭を巡らせる。

 もし奏の言うことを聞いたとして捕まれば、最悪殺されてしまうかもしれない。

 だけど、もし奏の頼みを断ればどうなるだろう。

 彼方は売りに出される。奏が次に産む子供も売りに出される。そして、奏が子供を作り続ける人生を送るのを、竜はそばで見ることになる。

 ただの奴隷である竜はそれをただ見送ることしかできない。

 奏の頼みを断った罪の呵責に苛まれ続けながら。

 それでも奏のそばに居続けることになるかもしれない。

 そんなのは嫌だった。


 竜は震えながら言葉を紡ぐ。

「わかりました。彼方様をお連れして、この屋敷を出ます」

「それは本当か」

「はい……ですが、勿論奏様も一緒なんですよね? 奏様も一緒に、ここから出るんですよね?」

 奏は竜の言葉を受け止め、しかし首を振った。

「それは無理だ」

「どうして!」

「"呪い" だ」

「呪い……?」

 聞いたことがない言葉。

「私たち水精は他人にはない力を持っている。その一方で、生まれながらの制約に縛られる。男同士で子を成すことができ、番いは離れることができない」

「……何をおっしゃっているのかわかりません」

「子供がいる限り、私は大旦那あの人から逃れることはできないということだ」

 竜はその言葉を信じ難い気持ちで聞く。

「……嘘ですよね」

「本当のことだ」

「嘘だと言ってください」

「嘘はつけない」

「嘘だ!」

「竜!」

 奏は再び竜の体を抱きしめた。

 いつもこの人は、抱きしめてやれば、竜が大人しく納得するのだと思っている。だけど違う。今日は違った。

 竜はついに涙を流し、しゃくり上げながら奏へ問いかける。

「どうして? どうしてあなたがそんな目に遭わなければならないんですか。あなたが何をしたって言うんですか?」

 ずっと思ってきたことだ。

 きっとそれは、奏に出会った時から。


 奏は綺麗だ。こちらが恐怖を覚えるほどの美しさを持ち、人を惑わせる力を持っている。とても美しい人だった。笑みを絶やさない人だった。

 だけど彼は、その優しい笑顔には似合わないほどの過去と未来を抱えている。

 両親を殺され、家族と離れ離れになり、子供を産むために屋敷に置かれ、生んだ子供とは会うことすら叶わない。

 それでも奏は笑うことを止めないのだ。

 苦しみの後に訪れる幸福を信じて、待ち続けている。

 それなのにどうして、奏は一向に幸せになれないのだろう。

 奏が一体何の罪を犯したというのだろう。

「嫌だ……奏様を置いていきたくない」


 そう言った時、竜の背中が僅かに温かく濡れるのを感じた。

 顔を上げる。


 奏が泣いていた。

 泣いているとは思えない静かな表情で、冬の湖のような銀白の瞳から、止め処なく涙が流れ、頬を濡らす。


 奏は自分の腹を愛おしそうに撫でた。

「両親を殺され兄弟すらも失った私は、ずっと生きている意味を失ったままだった。複数の男に良いようにされ、一生子供を産み続ける将来を約束され、だが死ぬ気力もなかった。あの頃の私はもうずっと、ただ周りの言うことを聞く傀儡でしかなかったんだ。そんな私を助けてくれたのは彼方だった。苦しみの後に訪れる幸せ。私にとっての幸せは彼方あの子なんだ……あの子が生まれた時、私は心に誓った。何としてでもこの子にだけは私のような人生を送らせたくないと。そして今、その時が訪れようとしている」

 奏は背中に回していた腕を、するりと放す。

「私は君を利用しようとしている。それは君も分かっているはずだ。だから、断ったとしても私は君を恨むことはしないよ。仕方ないことだから」

 そう言って笑った。

 目を細めると、瞳から涙があふれた。

「君が決めなさい。私の頼みを受け入れて今までの人生を失うか。それとも聞かなかったことにして今までの生活を続けるか。君の自由だ」

 泣く姿すらも綺麗なひとだと思った。

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