決断

 その日は、朝から雨が降っていた。

 じっとりと湿り気を帯びた地下牢で、匙と食器のぶつかり合う音が聞こえる。

 銀白の髪を持つ6歳の子供は、忙しなく匙を動かして、1日に一度だけ訪れる至福の時を楽しんでいた。

 一方で竜は、牢屋に閉じ込められている子供に、彼の父親の姿を重ね合わせていた。


 奏に良く似ている子供だ。本当にそう思う。

 真っ白でどこまでも透き通るような肌。磨かれた鏡のような白銀の瞳。手で梳けば、一筋の川のように手の上を流れていく髪。

 真っ白で、儚く、彼らの隣にいることに気後れするほどに美しい存在。

 同じ人の形をしていながら、人並みでない能力を持つ存在。

 そんな彼らは、誰よりも美しいのに、その能力のせいで誰よりも辛い人生を送る羽目になる。

 奏は "辛いことを乗り越えないと幸せは訪れない" と言った。だけど竜は、結局そうは思えなかった。

 今のままでは、幸せは奏の元には訪れない。誰かの幸福は、奏の犠牲の下に成り立っている。

 だけどそれでは駄目なのだ。

 奏が幸せにならない限り、竜はこの先何をしたとしても、後悔の残る人生を送ることになるだろう。


 竜にとって奏は大切な存在だった。

 彼が奏に抱いているのは、友情や親愛を通り越し、妄執とすら思える感情だった。

 奏を慕うが故の、悲しみや怒りや恨みが綯交ぜになり、竜の思考を支配する。


"子供がいる限り、大旦那つがいから離れることはできない"

 つまりそれは、彼方がいなければ、腹の中の子供がいなければ、奏は自由になるということだ。


 牢屋の格子は手を入れるくらいの隙間はある。子供の首くらい竜の力でも簡単に締められるはずだ。

 竜は己の手を見つめ、彼方を見つめ、ゆっくりと両手を彼の首元目掛けて伸ばしていく。

 

 彼方は竜の目の前で無防備に食事をしている。竜を信頼しているのだ。

 子供は無垢で単純で、疑うことを知らない。そもそも死という概念を理解しているのかすら分からない。

 もしくは、人が普段呼吸を意識しないように、本能のみが死の危機を悟っているのかもしれない。


 あと少しで指先が彼方の首に触れるといったところで。

「りゅう兄」

 彼方が顔を上げた。

「あのね、聞いて、夢の話」

「いつもの夢ですか」

「ううん」

 首を振る。

「真っ暗なの」

「真っ暗?」

「目を開けても閉じても真っ暗で、何も聞こえないの。怖くなって、目を閉じて、ずっとりゅう兄の名前を呼んでたの。そしたらね、りゅう兄が来てくれた。だからね、りゅう兄……ありがとう」

 彼方はふにゃりと笑った。

 竜は目を見開いて、黙り込む。

「……りゅう兄?」

 いつもは笑って相槌を打つ竜が、何も言わない。

 彼方が顔を上げると、そこには眉を下げ、見たことのない表情の竜がいた。

「どうしたの? りゅう兄」

 彼方が手を伸ばす。ふっくらとした温かな指先が、格子を握っていた竜の手に重なる。

 竜はずっと黙り込んでいた。彼方に触れられていることにも気がつかずに、彼の意識は内側へと向かっている。




 あれは彼方と初めて会った時のことだ。

 子供は突然現れた竜の姿をまじまじと観察した。竜もまた、子供の瞳を見つめ返した。白銀の大きな目には、無表情の竜の姿が映り込んでいた。

 腫れた肌が鈍い痛みを発しているのを感じながら、竜は子供の前にしゃがみ込む。子供は格子の隙間から手を伸ばし痩せ細った竜の手に触れた。

 温かな手だった。

 

“お名前は?”

“竜です”

“あのね、彼方は3さいなの。竜は?”

“……7歳です”

“じゃあ、お兄ちゃんなんだ! ねえ、りゅう兄って呼んで良い?”

 竜が頷くと、彼方は太陽のような笑顔を見せた。


 


「_____りゅう兄!」

 竜ははっとして顔を上げた。

「どうしたの? りゅう兄」

 彼方が竜の顔を覗き込む。

 気がつけば、格子を握りしめていた竜の手に、彼方の手が重ね合わさっている。

「……大丈夫です。ちょっと考えごとをしていただけですから」

 竜はやんわりと彼方の手を離し、空いた皿を手にやおら立ち上がった。

 明かりに照らされ、ゆらゆらと、不安そうな表情の彼方が浮かぶ。

「りゅう兄。もう言っちゃうの?」

「明日また来ますよ」

「本当? 嘘じゃない?」

「はい。約束です」

 竜は一度彼方を振り返り、彼に会釈をすると、牢屋を去っていく。


 階段を上る。一段一段進んでいくごとに、意識がよりはっきりとしていく。思考が研ぎ澄まされていく。


 ……どうして忘れていたんだ?

 何で思い出せなかったんだ?

 あの時のこと。初めて見た彼方の笑顔のこと。


 竜は自分の細い手を見つめる。

 思考が冴えるにつれて、明かりを持つ手が震え出す。


 彼方と出会ったばかりの頃の竜は何事にも無気力で感情の淡白な子供だった。若旦那の暴力に怯え、感情を表に出すことが少なくなっていたのだ。

 そんな竜の心を溶かしてくれたのは、彼方の存在だった。

 彼方の子供らしい純粋な心と笑顔が、竜の中にあった子供らしい感情を、少しずつ蘇らせてくれた。

 今思えば、笑うことができるようになったなも、彼方に出会ってからのことだ。

 

 それなのに。どうして忘れていたのだろう。

 自分を救ってくれた彼方のことを忘れ、それどころか殺そうとした。

 それが奏の幸せに繋がるのだと本気で思っていたのだ。

 しかしそれは、竜の思い込みでしかない。

 いや、本当は分かっていたことだ。

 彼方を殺したところで何の解決にもならないことなど。


 彼方を殺すことなんてできない。

 奏のお腹で眠っている今の子を殺すこともできない。

 だけど今のままでは奏を助けることはできない。


 じゃあ、どうすれば良い?

 俺は奏のために何ができる?

 ……分からない。




 竜は階段を上り切り、伏せていた顔を上げた。


「竜」


 若旦那が、地下牢へ続く階段の前に立っていた。




***





「若旦那、様」


 竜は頭を下げ、深々とお辞儀をする。


 男の足が視界に映る。かつて竜の体を何度も蹴り上げた足だ。外を出歩くことで鍛えられた、男の足。

 いつか纏っていた獣の香りは薄れていた。竜が見ていないだけで、ここ暫くは屋敷に留まっていたのかもしれない。

「頭を上げろ」

 若旦那は静かに言った。竜はゆっくりと顔を上げ、目の前に立つ背の高い男を見上げた。

 若旦那が頭を揺らすと赤毛の髪がゆらゆらと、馬の尻尾のように揺れる。切れ長の目が竜を真っ直ぐに見下ろす。

 彼は、竜と目が合ったと分かるとすぐに笑みを浮かべた。鋭い八重歯がちらりと見える。獲物を威嚇する動物のようだった。

「そろそろ答えを聞かせてもらおうか」


 そうだ。若旦那はずっと答えを待っていたのだ。

 奏の話で頭が一杯になっていて、若旦那との約束のことを忘れてしまっていた。


 若旦那は言った。

「尋ねてから随分と時間が経ったな。まあ、互いに色々とあったのだから仕方ないとしよう。しかし、流石に答えは決めているのだろう」

 竜は「はい」と恭しく返事をし、深く頭を下げた。

 額を汗が伝う。これほど緊張をするのは久しぶりかもしれない。

 息を吸って、呼吸を整え、頭に浮かぶ数々の憂慮を振り払う。

「……若旦那様」

 体の節々がずきずきと痛みを訴えた。これは錯覚だ。当時若旦那から受けた傷は全て癒えていて、痛むはずがないのだから。

 しかし一度恐怖を覚えた体は、無条件に降伏を望もうとする。竜の意思とは裏腹に。

 竜は歯を食いしばって、拳を強く握り締め、若旦那の望む言葉を言おうとする喉を、彼に屈服しようとする体を制した。

「申し訳ありません。俺はもう、あなたのおそばに戻るつもりはありません」

 そう言い切った時、汗が吹き出した。


 竜は、若旦那の言葉を待つ。

 若旦那は長い間黙り込んでいた。その間、竜は顔を上げることができなかった。


 やがて、若旦那が声を上げる。

「……理由を聞かせてもらおうか」

 底冷えするような声だった。竜はやはり顔を上げることはできなかった。

「奏様は今出産を控えていますし、彼方様も俺を慕ってくださっています。俺はあの人たちの支えになりたいんです」

「あいつらの世話係などお前でなくとも務まる仕事だ」

「……それでも俺は、ずっとお二人のそばにいたいんです。お世話になってきましたから」

「お前がいたところで何の役に立つというのだ。子供というだけで世話係に選ばれた、ただの奴隷の癖に」

 竜は思わず顔を上げ、竜を睨みつけている若旦那を見返した。若旦那は瞠目する。

「そうです。俺はただの奴隷です。あなたに拾われなければ道端で野垂れ死にしていた、そんな力のない存在です……ですが俺は、奏様と彼方様に出会って、奴隷である以前に1人の人間であることを思い出せたんです」


 笑顔の作り方を教えてくれたのは彼方だった。

 優しさを与えてくれたのは奏だった。

 2人は竜に、生きる喜びを教えてくれた。


「だから、俺は恩返しがしたいんです」


 そんな2人のためにできることがあるなら、何だってしたい。


 竜の心に決意の炎が立ち上る。

 若旦那と話しているうちに、次第に自分のするべきことがわかってきた気がする。


 もう悩むことは止めた。

 彼方様を殺さずに、奏様も連れていく。

 そのために、俺ができることをやりたい。


「だから俺はあなたのおそばにはいられません」

 竜がそう言うと、若旦那は目を伏せ、再び黙り込んだ。

 表情は固い。しかし怒っているようには見えない。

 竜は若旦那のそのような顔を見たことがなく、一体何を考えているのか分からずにいた。

 竜は若旦那の様子を見ながら、右足を一歩、僅かに後退させた。拳を握り締め、腹に力を込める。いつ蹴られても良いように。


 若旦那は伏せていた目を上げて呟いた。

「……あの子供のそばにいることで、お前が殺されるとしてもか」

 

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