羨望
1週間が経ち、竜が奏の部屋を訪れた時。
いつもは床に伏せっていた奏が起き上がっていた。寝台の上で本を読んでいる。その本の背表紙には覚えがあった。
竜の来訪に、奏はそばに本を置き、顔を上げて微笑んだ。
「おはよう。今日はとても良い天気だね」
奏の言葉につられて窓に目線を向ければ、外は青空が広がっていて、洗濯物が風にそよいでいた。
竜は洗濯物を干した覚えがない。
目線を奏の方に戻せば、奏は少し照れたように頭を掻いた。
「今まで迷惑をかけてすまないね」
その言葉は、まるで "もうこれからは大丈夫だ" と言っているようで、竜は信じられない気持ちになりながらも部屋の中にふらふらと立ち入った。
机の上に粥を置き、奏と相対する。
苦しみに歪んでいない瞳が、真っ直ぐに竜を捕える。
そう。ずっとこの目に会いたかった。
「竜?」
「……ずっと不安だったんです。このまま奏様がいなくなってしまったらどうしようって」
拳を強く握り締める。体が震える。
「もう二度と俺の作った料理を食べてくれなくなったら、二度と俺に笑いかけてくれなくなったら、どうしようって……ずっと、不安で……っ」
竜は奏に近寄り彼の手を上から握りしめる。
少し骨が張っていて痛いけど、体温は低いけど、確かに生きている。
「嘘じゃないですよね。本当にもう、大丈夫なんですよね」
「……ああ。もう大丈夫だ」
「無理してないですよね」
「君は心配性だな」
奏が呆れたように笑った。その笑顔に、竜は無性に泣きたくなる。だけど涙は堪えた。折角の良いことなのに、涙を流すようなことはしたくなかったから。
「良かった……」
竜は震える声で呟き、目を閉じた。
竜は、奏が床に伏せっていた時のことを思い出す。
奏が咳き込んだ時、真っ先に奏に薬を飲ませ看病をした若旦那の姿が、頭に浮かんだ。
竜にとって若旦那は苦手な存在だ。彼に昔されたことを恨んでいるわけではないが、あの頃の恐怖を忘れることは二度とないだろう。
しかしあの日以来、若旦那の存在は竜の中で、ただの “恐怖” では無くなっていた。
若旦那の太く男らしい手。
竜の体を何度も殴りつけた手が、奏に薬を飲ませた。
あれほど冷酷な性格で竜を虐めてきた彼が、奏のために医者を呼び、寝ずに看病までした。それどころか、奏の言いつけに従って、竜を呼んできたのだ。
一体若旦那はどうしたのだろうか。竜は疑問を覚える。
竜の知っている若旦那はあんな性格ではなかったはずだ。それがどうして、あの日だけはあんなに頼もしく見えたのだろう。
疑問は頭の中をぐるぐると循環し、やがて、もやもやとした釈然としない感情へと変わっていく。
“俺がもっと大きければ”
“背が高ければ”
“力が強ければ”
“奏様を助けるのは自分だったのだろうか”
“奏様を助けるのは俺だったはずなのに”
この感情の名前を、竜はまだ知らない。
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