希望


 ある日の明け方のことだった。

 竜が朝早くに目を覚まし、奏の食事の準備をしようと厨房へ続く廊下を歩いていた時のことだ。

「竜」

 低い声が竜を呼び止めた。それは向こうから竜へと話しかけてきたにも関わらず、どこか警戒心を滲ませた声色だった。

 竜は身を固くして、ゆっくりと背後を振り返る。

 そこには予想通りの人物が立っていた。

 壁に身をもたせ、腕を組み竜を見下ろす若旦那の姿。

 ここ暫く姿を見ていなかったので、とうの昔に屋敷から出て、街で遊んでいるのだとばかり思っていた。

 久々に見た若旦那の姿に竜は暫し面食らっていた。以前会った時に交わした_____と言ってもそれは若旦那が一方的に申し付けたものだが_____約束を、今になって思い出したのだ。

"俺のところに戻ってこないか"

"暫くしたら、また聞きに来る"

 竜は返事を既に用意していた。あの頃から答えは変わらない。

"若旦那あなたの所にはもう戻りたくない。奏様と彼方様のそばにいたい"

 そう言いたいのに、声が出ない。

 若旦那に見下ろされていると思うと、昔のことを体が思い出してしまうのだ。

 竜は体を硬直させて、若旦那の動向をただ見つめていた。

「どうした。そんなところで棒のように突っ立って」

 若旦那は身を起こし、訝しげに竜を見つめる。そしてはたと以前の出来事を思い出したらしく、ああ、と納得の声を上げた。

「俺が以前言ったことの返事を、お前はまだ決めかねているということだな。それで俺が怒るのではないかとお前は危惧している」

 若旦那は鼻を軽く鳴らして一笑する。

「そのことに関しては今は保留にしておこう。それより……奏がお前を呼んでいる」

 奏の名前を呼ばれ、氷のように固まっていた体が動き出す。

「奏様が?」

「ああ。明け方になればお前を呼べと言われていたのだ」

「……ですが、まずは朝食の準備を」

「いらん。今のあいつには粥を食べる気力もないだろうさ」

 竜は瞠目した。

「奏様に何かあったのですか!?」

 噛みつかんばかりに言い寄られて、若旦那は苦虫を噛み潰したような表情で舌打ちをひとつする。

「……歩きながら話そう。時間がない」

 2人は奏の部屋に向かって早足で歩き出した。


 若旦那曰く、彼が昨晩奏の部屋を訪れた時には既に調子が悪かったらしい。

 医者を呼べば、悪阻による発熱と脱水症状と言われ、薬を飲まされた。若旦那は今朝方まで付き切りで看病をしていたが、結局奏の調子は良くならなかったらしい。熱も下がるどころか上がり続けているが、今のものより強い薬を飲めば、子供の体に影響が出るかもしれない。

「峠を越せば悪阻も大分楽になるだろう。しかしもし乗り換えることが出来なければ_____」

 そこで若旦那は言葉を区切った。奏の部屋がすぐ目の前に来ていた。

 竜は若旦那の話を聞き、疑問に思うことがいくつかあった。

 何故若旦那が奏の部屋に来ていたのか。寝ずに看病をするほど殊勝な性格を若旦那はしていただろうか。そして何より、奏が自分を呼ぶ理由が分からない。

 しかし一先ずは奏の安否が不安だった。

 竜は、若旦那に続いて、奏の部屋へと飛び込んだ。

「奏様!」

 竜の呼びかけに、奏はゆるりと目を開いた。

 汗の浮かび、薄っすらと上気した頬。竜が彼の体に触れると、いつもは冷たい肌が燃えるように熱かった。

「竜……」

 奏が微笑む。これだけの熱が出ていても、奏は竜の前では微笑みを絶やさないようにする。その健気さに涙が出そうになるのを、竜は服の袖で拭って耐えた。

「奏様。俺をお呼びになったと若旦那様からお聞きしました」

 奏は頷いた。

「話を、聞いてほしい」

「お話ですか」

「ああ。君に伝えたい話がある。本当はもっと別の形で伝えられれば良かったんだけど……このような体では無闇に体を動かすこともできない。だから、聞き取り辛いと思うが、許してほしい」

 奏はそこまで言い切って何度も咳き込んだ。

 若旦那は竜を押しやり、奏の体を支えて薬を飲ませる。

 その時の若旦那の表情は竜が初めて見るものだった。

 いつも移気で暴虐で軽薄な表情をしている若旦那が、奏に対してだけは気を違うような仕草を見せている。若旦那は奏の額に手を当てると、表情を曇らせ、唸るような声を上げた。

 竜は2人の会話を呆然と眺めていた。

「話があるなら俺に言付ければ良いものを。まさか、そのためだけにこいつを呼んだのか?」

「……あなたが竜に話をしてくれる保証がなかったから。それに、この子とは顔を合わせて話をしたかったんです」

「随分とお前は俺を信用していないらしいが……まあ良い」

 若旦那は鼻を鳴らす。

「お前がこいつを余程可愛がっていることは前々から知っていたことだ。それに関して今は問い質すつもりはない」

 若旦那は薬の入った包みを机の上に置き、扉にもたれかかった。それから奏と竜を交互に見つめる。

「だが、父上のいない今、戸主は俺だ。お前の話を聞く権利は俺にもある……それとも、俺には言えないような話をこいつにするつもりではないだろうな」

 奏は黙り込んだ。暫し2人は見つめ合う。

 折れたのは奏の方だった。

「……分かりました。それほど聞きたいのならそこでお聞きになってください。ですが、私が話すのは、ただの昔話です」

「昔話?」

「ええ。先祖代々受け継がれてきた、水精に関するお話です」

 奏は、座り込んだままでいる竜に手を伸ばした。

「竜。お願いというのは、この話を彼方にしてやってほしいということなんだ」

 竜はゆっくりと奏の元へ近づき、白く細い手を両手で握り締めた。




***


_____私が人にはない力を持っていることは、君ももう知っているだろう。そう。水を操ることが出来る力だ。君たち人間は、この力を水精みなせと名付けた。どうしてか知っているかい? ……それは知らないみたいだね。

 じゃあ、水精の由来について少し話そう。

 君に以前教えた通り、この国は大きく分けて4つに分けることが出来る。東西南北、4つの国だ。

 北の国には大きな森があり、そこにはとある言い伝えがある。森に、神の遣いである妖精が住んでいるという話だ。

 その昔、北の国は大飢饉に悩まされたことがあった。長い間日照りが続き、作物が育たなかったんだ。人々は何度も雨乞いをして神仏に縋った。何度目かの雨乞いの時、北の国に1人の妖精が現れた。

 妖精は自在に雨を降らせることができた。雨を降らせ、森を作った。森の中に湖を作り、湖から北の国中へと流れる沢山の川を作った。妖精は森の中に住み、湖を枯らさないように水を作り続けた。そのおかげで北の国は飢饉から解放された。

 北の国の住人は、突然現れた妖精に感謝の念を込め、その森を “水精森みなせのもり” と名付けた。未来永劫、妖精のもたらした恵みを忘れないように。

 ここまで言えばもう分かるだろう。水精と何故呼ばれるようになったのか。そして、私の祖先がその妖精であることを。


 私は北の国の森の中で生まれ育った。家族も沢山いた。祖父母に両親、3人の弟に2人の妹。私たちは皆仲良く慎ましく暮らしていた。あの時の暮らしは昨日のことのように思い出せる……とても幸せな日々だったよ。


 ある日、森の中に1人の旅人が迷い込んできた。彼は北の住人ではなく、その付近の国からやってきて、森で迷ってしまったらしい。

 私たち家族は彼を丁重にもてなした。そして、食料を与え、帰る道を教えてやった。

 親切心だったんだ。私たちは皆旅人の幸せを願っていた。

 しかし世の中何があるかわからないものだ。

 きっと旅人が私たちのことを、国に帰った後誰かに話したんだろうな。

“水を操ることの出来る人間がいる” とでも言ったんだろう。

 北の国の住人にとって私たちは神の遣いの妖精だ。しかし、他の国の者にしてみれば、同じ人の形をした生物にしか見えないんだ。


 ある日、森の外から沢山の人間がやってきた。

 年老いた祖父母は真っ先に殺された。私たち兄妹を庇おうとした両親もまた殺された。家族が目の前で殺されるのを見た私たちは、抵抗する力もなく商人の手によって売り払われた。家族は皆散り散りになった。1番幼かった弟も、今どこで何をしているのか私にはわからない。



***


 奏は荒く息を吐きながら、このような話をした。

 10歳になったばかりの子供にとって、あまりにも辛く、そして無残な話だった。

 竜は、耳を塞ぎたくなるのを堪えて、奏の手をずっと握り締めていた。

「今まで散々なことがあった。死んでしまった方がいっそのこと楽だと何度思ったことだろうな……しかしそういう時、両親の言葉を思い出すんだ。“これは試練なんだ。辛いことがあった後には必ず良いことが起きる。この苦しみを乗り越えなければ幸福はやってこない。私たちにできることは、幸せを信じてただ徳を積むだけなんだ” って」

 奏は笑う。どんなに辛いことがあっても、彼は未来を信じ続けている。

「君は、こんな話を信じる私のことを愚かだと思うかい? 私の言っていることはただの気休めでしかないと思うかい?」

 竜は何度も首を振った。

「愚かだなんて、そんなこと思いません」

「……良い子だ。竜」

 奏は竜の頭を優しく撫でる。

「彼方は私の子供だ。水精の力を受け継いだあの子は、きっとこの先辛いことが沢山あるだろう。その時は、私の両親が言っていたこの話を聞かせてやってほしい」

 竜は頷いた。それから、奏の信じるように、いつか訪れる明るい未来を信じて笑った。

「きっといつか、奏様本人が彼方様にこの話を言える日が来ますよ」

 奏は薄っすらと微笑んだ。

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