文字


「竜」

 か細い声が竜の名前を呼ぶ。

 身の周りの整理をしていた竜は、奏のそばに駆け寄った。

 奏は横たわったまま、竜を真っ直ぐに見つめ返した。

「君に頼みがあるんだ」

「頼み、ですか」

「ああ」

「俺に出来ることだったら何でもします」

「……ありがとう。本棚の中にある本をひとつ取ってきてくれ」

「内容は?」

「どれでも良い。ただ、君が見て、1番簡単そうだと思うものを持ってきてほしい」

 竜は本棚を見た。

 そこには所狭しと本が並んでいる。掃除をする際に中身を少し見ていたから、文字は読めなくても内容の難易くらいは大体知っている。

 竜は本棚の中から1番古びた本を選んだ。

 それは、文字が他のものよりも少なく、そして絵が多く描かれているものだ。

 奏に見せると、彼は腕を伸ばし "上出来だ" というふうに竜の頭を撫でた。そしてゆっくりと、竜の手を借りて上体を起こした。

「起きて大丈夫ですか」

「今日は調子が良い方なんだ。こういう日は眠っているよりも、少しは体を動かしている方が気が楽になる……机の上に置いてある冊子と筆も持ってきてほしい」

 竜は言われた通りにした。机の上から。いつも奏が何かを書いている紙の束と、隅の入った硯と筆を持ってくる。

 冊子は奏の前に置き、硯と筆はどこに置くか少し迷って、椅子を寝台のそばに引き寄せてそこに置いた。

「墨の磨り方は知っているかい」

 竜は曖昧に首を振った。いつも奏が墨を磨るところを見てはいたけど、出来るかどうかはわからない。

「とりあえずやってみてごらん」

 奏がそう言うので、竜は首を傾げつつも、言われた通りに、墨を磨ることにした。

 部屋の隅に置かれた生活用の水を少しだけ組んで、硯の陸の部分に乗せる。

「墨は机の上の、木の箱に入っているよ」

「これ、ですか」

「そう」

 木の箱から四角く硬い墨を取り出し、水にそっと触れさせ混ぜ合わせる。

「もう少し力を抜いて」

 気がつけば入っていた手の力を抜いて、ゆっくりと墨を磨っていく。すると不意に、墨の良い香りが漂ってきた。この香りには覚えがある。

 奏のいつも纏わせている香りだ。彼の香りは香と墨が混ざった匂いをしていたのか。

 だんだんと楽しくなってきて、竜は無心になって墨を磨り続けていた。水を継ぎ足し磨る。陸に浮かぶ黒の液体は、次第に海へと流れ出ていく。

「もうそれくらいで良いよ」

 奏がそう言った時、竜は少し名残惜しい気分で墨を手放した。奏は微苦笑しながら2冊の本を膝の上で広げる。

「竜、これが何かわかるかい」

 奏は古びた本の、大きな図を竜に見せた。

 竜は首を振った。

「これは地図っていうんだ」

「ちず?」

「外の世界を簡単にして書いているんだよ」

「……簡単に?」

「君はこの屋敷がどういう作りをしているか知っているだろ」

「はい」

「どこの廊下を進めば厨房に着き、どこを進めば離れに行くか。そういった説明を言葉じゃなくて絵で表したのが、この地図なんだ」

 竜は時々首を傾げながらも、少しずつ奏の言葉を飲み込んでいく。

「君はこの屋敷から外には出たことがないんだよね」

「はい」

「でも、外の世界は知っているんだよね」

「大旦那様があのような仕事をなさっていますから。"きたのくに" "ひがしのくに" というのは少しだけわかります」

「それが分かれば話は早い」

 奏は古びた冊子の1番最初の項を開き、ゆっくりと話を始めた。


「この世界は大まかに4つの世界に分けることができる。東西南北の4つだ。東の国は、大旦那が西の国で奴隷業を成功させる前は1番の商業国と呼ばれていた。海が近いから今でも異国との交流が盛んな都市だ。そして西の国。言わずもがな、私たちが暮らしているこの場所だね。北の国は他の国に比べて、今も自然を色濃く残している。北の国の手前には大きな森があり、道を間違えれば二度と帰ることはできないと言われていた。そして南の国。ここでは朝廷が暮らしている」

「朝廷?」

「4つの国を統治する偉い人のことだ」

「大旦那様より?」

 竜がそう尋ねると、奏は竜の耳に手を当ててこっそりと「それは勿論」と言った。くすぐったくて、竜は少し肩を竦めた。

 奏は他にも、地図の様々な場所を見せてくれた。

 北の国の大きな森。東の国の港。南の国の碁盤の目のように整えられた道。西の国のあまり整っていない蛇のような道。

 竜はそれらを目に焼き付けていた。見たことはないけど知っている外の世界。いつかこの本を手に外を歩く日が来るのだろうか。


 奏は筆を手に取り、竜の前で持ってみせた。

「筆はこういう風に持つんだ。やってごらん」

 言われた通りに持とうとするも、上手くいかない。

「こうですか?」

「ううん。もう少し親指をこうやって……」

「あれ?」

「ああ違う。そうじゃないな」

 竜は何度やっても上手くいかなかった。そのうち、奏が痺れを切らして、竜の手を握った。

「こうだよ」

 正しい形に持ち直され、その上から固定するように手を握られる。

 竜の胸がどきりと音を立てた。思わず顔を上げると、真剣な横顔がそこにはあった。

「正しい持ち方をしないと書いてるうちに手が疲れるんだ。それに、こうした方が字も綺麗に書ける」

 竜は最初、奏が何を言っているのか良く分からなかった。どうしてここまで熱心に外のことを教え、筆を持たせようとするのか。

 筆の持ち方を教える時の奏の顔は少し怖かった。夜に見た「良いから早く体を拭いてくれ」と言った時の雰囲気に似ているような気がした。


 奏が竜の手を持ったまま、いつも使っている冊子の白い場所に筆を持っていく。

 そして少し曲がった字をいくつか書いた。

「これが "あ" だ」

 そのまま、字を書き連ねていく。

 紙の上が字で真っ黒になった。それでも構わずに奏は字を書き続けた。

「今この紙の上に書いたのが ”仮名” だ。まず君にはこれを覚えてもらう」

 竜は、真っ黒になった紙を見つめて呆然と呟く。

「こんなに沢山の字、覚えられません」

「覚えられないじゃない。覚えるんだ」

 有無を言わせぬ語気に、竜は体を震わせ、怯えた目で奏を見つめる。

 奏がはたと気づいたように、息を飲み、それから暫く経ってため息を吐いた。

「……悪かった。急にこのようなことを言われても、君を困らせるだけだったな」

 竜を落ち着かせるように、奏が頭を撫でる。

 竜は首を振った。

「俺の方こそすみません。少し驚いてしまって……でも、奏様が優しいこと、俺は知ってます。今回のことも何かお考えがあってのことなんですよね」

 竜がそう言えば、奏は瞠目して、それからゆるりと目を細めた。薄っすらと微笑み、竜を見つめる。

「前々から思っていたことだ。君はとても勤勉で、そして賢い。ただの奴隷として君が生きることをとても口惜しく思っていたんだ。もっと君は勉強をして、外のことを知るべきなんだ」

「だから、俺に文字を教えようとしたのですか」

「そうだ」

 竜は奏を見つめた。彼が嘘をついているようには見えなかった。

「……分かりました。俺、勉強します」

「本当か」

 奏は顔を綻ばせた。竜は頷く。

 前々から奏が文字を書いていたことに竜は興味を持っていた。自分も字を読み書きできたなら、と思ったことは何度もある。だから奏本人から字を教えてもらえるというのはとても嬉しいことだった。

 そして何より、自分が文字を教わることで奏の気が紛れるなら、それが1番嬉しいことだった。

 


***



 その日から奏は、気分が良い日は竜に文字を教えた。奏の言うように竜は物覚えが良い子供で、1週間もしないうちに仮名の全てを書けるようになっていた。

 仮名が書けるようになると言葉の意味を教わるようになった。本棚に入っていた本から簡単なものを取り出し、仮名の部分だけを読んで意味を理解していく。奏が調子の悪い時も、竜は自ら言葉を学び続けた。

 2月も経てば淀みなく仮名を読めるようになり、漢字に手を出すようになっていた。

 最初に書いたのは自分の名前だった。

 奏が、読みから推測したいくつかの言葉を紙に書く。

流、留、柳、劉、竜。

 それらの中で、1番惹かれたのはやっぱり "竜" だった。

 奏と同じ水を司る動物の名前。自分の名前を竜にすることで、自分の中に奏の印を刻みつけられるような気がした。

 自分の心にはいつだって奏が寄り添っているのだ。そう思うと、どんなに辛い生活にも不思議と元気が湧いてきた。

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