発覚
「子供ができた」
奏がそう告げた時、竜は思わず手にしていた本を落としそうになった。慌てて掴めば何とか床に落ちることはなく、少し皺の寄ってしまった紙を手で整える。
奏が竜に "食事を運ぶ" 以外の仕事をさせてくれるようになったのはここ最近のことだった。
あの夜。奏の体を拭い、彼の前で初めて涙を流した夜。
あの日以来、少しずつ奏との距離が縮まっている気がする。それまで竜を揶揄うばかりだった奏が、竜のことを頼りにしてくれるようになった。
朝起きれば、少し眠たそうにゆっくり瞬きをする彼が出迎えてくれる。以前はきっちりと着ていた服も少しだけよれていて、彼が寝起きであることを教えてくれた。
窓を開け、シーツを変える。床拭きに、洗濯に、本棚の本磨き。
出来ることは日に日に増えていく。そして、今まで知らなかった奏のことをより深く知っていく。
彼の好きな香の香りを覚えた。髪を櫛でとかす時、いつもは隠れている頸の雪のような白さを知った。
彼のことを知れば知るほど、自分が奏に信頼されているような気がして嬉しかったので、竜はつい張り切って掃除をしてしまう。そうして仕事を終えたところで、奏に揶揄うような目で見つめられていることに気がつき顔を赤くするのがここ最近の竜だった。
竜の最近の気に入りは本の入った棚を拭くことだった。棚の中から1冊ずつ本を取り出して布巾で磨いていく作業に没頭する。表紙に書かれた文字は読めないけど、絵画を見ているみたいで楽しかった。
そんな彼の楽しいひと時は奏の発言により、泡沫が弾けるように突如終わった。
「子供……」
呆然と呟く竜に奏は微笑みかける。
「そうだよ。これから君にも迷惑をかけるだろうから言っておかないとと思ったんだ」
あまりに突然のことに驚いていた竜は、それでも "迷惑" という言葉を聞いて咄嗟に首を振っていた。
「迷惑じゃないです」
それは本心だ。
子供を育てるというのがどれだけ大変なことか分からないが、きっと奏のためなら何だってできると思う。
「むしろもっと俺を頼ってくれたら嬉しいって思っていたところなんです」
竜が真っ直ぐに奏を見つめてそう言えば、奏は安堵のため息を吐いて軽く笑った。
「……君はこういうことを嫌っているみたいだったから、少し言い出すのが不安だったんだけど。受け入れてもらえて良かった」
「こういうこと?」
「ああ。だって君は夜……」
「夜?」
竜が首を傾げれば、奏が笑みを引っ込める。
「いや……勘違いだったみたいだ。今の話は忘れてほしい」
奏は箸を置き、手を合わせる。
「ご馳走様でした。今日も美味しかったよ」
竜は軽く会釈を返して、膳を下げに戻った。
この頃時を同じくして、大旦那は再び仕事に出かけた。
今度はかなりの大仕事らしく帰ってくるのは奏の出産よりも少し前になるとのことだ。
竜は以来夜に呼び出されることはなくなった。
奏の体に付着している白濁の正体を子供の竜は知らなかった。奏が何のために屋敷に置かれているかは知っていても、その行為の知識は持っていなかった。
しかし竜は、本能的にその白濁が "汚穢" であることを悟っていたのだ。
呼び出されることがなくなったということは、奏が汚されることはもうないということ。奏の辛そうな表情を見ることはもうないということ。
竜は安堵していた。このまま二度と、奏が苦しむ顔を見ることがなければ良いと思っていた。
しかし今度は暫くして悪阻が訪れた。
あれほど美味しいと言って食べてくれた料理に拒絶反応を示すようになったのだ。
その度に奏が悲しそうな顔で謝った。自分の作る料理が食べられないことよりも、奏が悲しそうな顔をしていることの方が竜は辛かった。
奏は日に日に弱っていく。ついには寝台から起き上がることすら少なくなってしまった。
寝台に横たわり苦しげな息を吐く奏を見ながら竜は不安に思っていた。
このまま奏が消えてなくなってしまうのではないか、と。
どうして奏ばかりがこんな目に遭わなければならないのだろう。辛い思いをしなければならないのだろう。
いっそのこと子供なんて出来なければよかったのに。そう思ったことも数知れない。思わず口をついて出そうになったことがある。
その度に竜は唇を噛み締めて堪えた。それを言うと奏をまた悲しませてしまうから。
「幸せの前には必ず苦しいことがある。それを乗り越えなければ幸せはやってこないんだ」
奏は竜に何度もそう言い聞かせた。顔から汗を流しながら、それでも微笑んでいた。
奏は子供ができたことを不幸だとは思っていないのだ。竜が例え奏の境遇を哀れに思ったとしても、奏自身は今の状況を不幸ではなく幸福の前触れだと信じている。
どうしてここまで強くいられるのだろう。
竜には奏の気持ちが分からない。
だけど分からないなりに、寄り添うことで奏の気持ちに答えようとした。
竜は懸命に世話をした。
ご飯は消化に良く味の癖がない粥に変え、匙で少しずつ奏に食べさせる。
奏が一口も食べてくれない日もあった。そんな時は涙を堪えて "俺よりも奏の方が辛いのだ" と自らに言い聞かせた。
奏が汗をかいていれば布で拭った。夜には服の着替えを手伝った。
白く痩せ細った体から目を逸らさずに、不安な気持ちを抱きながらも未来を信じ続けた。
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