汚穢
奏の世話をするようになって一月が経った日。屋敷は喧騒に包まれていた。大旦那が帰ってくる日だったからだ。
数日前に大旦那の使者が屋敷に戻ってきて、今回の仕事も成功を収めたのだと言った。帰宅は4日後。それまでに準備をしておけとのことだ。
奴隷たちは夕方の宴の準備に朝から追われ、屋敷内を忙しなく往来した。部屋という部屋が丹念に磨かれていく。硝子はその姿が目に見えないほど磨かれ、床は姿が映るほど輝きを放っている。
母屋を掃除をするのは屋敷の中でもそれなりに地位の高い奴隷の役割だった。そして大旦那をもてなす料理を作るのは、奴隷の中でも最も信頼されている者の役割だ。彼らはまともに食事を与えられ質の良い服を着せられる。奴隷の中でも憧れの存在だった。
竜は奴隷の中では特別な立ち位置にいる。他の奴隷とは違う経緯でこの屋敷に拾われたため特別地位が低いわけではないが、かといって大旦那の信頼を得ているわけではないので母屋に入ることを許されてはいなかった。
大旦那の凱旋は、竜の生活に影響を及ぼさない。
今日も竜は朝変わらない時間に起きて、奏の食事の準備をするのだ。
昼に竜が奏の部屋を訪れた時、奏は仕舞っていた服を取り出しているところだった。
寝台に色とりどりの衣服が並び異彩を放っている。
奏は食事をするよりも先に竜に尋ねた。
「どの色が私には似合うと思う?」
竜は寝台を見つめる。
白い敷布を彩る赤、黄色、青、緑。その中で竜が目を引いたのは、黒い着物だった。
他の色に比べると一見地味なように見えるかもしれない。
しかしその背中には見たことのない生き物の絵が描かれていて、それが竜にとっては魅力的に見えたのだ。
蛇のような体を持つ生き物。細長い体躯にはびっしりと鱗が敷き詰められ頭に角を生やしている。両手に3本の爪を持つその生物は、雲を体に纏わせ、どこか恐ろしい目つきで辺りを見つめている。
竜がその黒い服を指し示せば、奏は微苦笑した。
「少し地味な色じゃないかい?」
「ですが、背中の絵がとても立派なので似合うと思います」
「……そう?」
奏は寝台にその黒い着物一枚を残し、他は櫃に仕舞う。
奏に膳を渡し、着物を見つめながら竜は尋ねた。
「あの絵、一体何の絵なんですか?」
奏は答える。
「リュウ」
最初は自分の名前を呼ばれたのかと思ったが、どうやら違うようだった。
奏が笑いながら「君と同じ名前の生き物がいるんだよ」と言った。
「異国から伝わってきた架空の生物だ。神様みたいなものだね」
「神様? この動物が?」
「リュウは人々に恵みの雨をもたらす。だから水を司る水神として信仰されてきたんだ」
「……」
まるで水精のようだ。そう竜は思った。
水精の力を持たない自分が “リュウ” の名を持つなんて不思議な気分だ。
食事をしながら奏は目を猫のように細める。
「今日の晩はきっと君のご飯が恋しくなるだろうね」
何故だか知らないが、奏は竜の食事をとても気に入ってくれている。ただの奴隷が作った食事が、食材にまで気を遣われている今晩の食事に勝るとは思えないのだが、奏はそう言っているのだ。
「俺よりもずっと美味しい料理を作ってくれる人は沢山いますよ」
「そんなことはない。君の料理は、屋敷の中では1番美味しいよ」
箸を持つのとは逆の手で、竜は頭を撫でられる。
「料理に1番大切なのは食材でも腕でもない。作る人と思いだよ。私に美味しい料理を食べさせたいっていう思いが料理を美味しくする。そして私は、君が作ったからこそ、この料理を美味しいと思う」
「うぅ……」
子犬のような呻き声を上げて竜は俯いた。
「ははっ。照れているのかな。可愛い子だ」
「そんなこと、言わなくたって良いじゃないですか……!」
「ごめんごめん。君が毎回素直に反応してくれるから、つい揶揄いたくなっちゃうんだ」
「……もう」
竜は奏から顔を背ける。奏が笑いながら「そんなに拗ねないでくれ」と言えば「拗ねてるわけじゃありません」と、竜は明らかに刺のある声色で言い返した。
「竜」
奏が名前を呼ぶ。
「りゅーう」
優しい声で。そのくせ意地悪なのを隠さない声で。
狡い人だと思う。人を掌の上でころころと転がして。
でも、そんな彼の思う通りに行動してしまう自分も馬鹿だと思う。
結局、何度目かの呼びかけで、観念して顔を奏に向ける。すると奏は竜を抱きしめる。
抱きしめれば全て丸く収まると奏は思っているのだ。
残念ながらその通りではあるけど。
「ああ。面倒だなあ。会食」
「そんなこと言ってるのが知られたら怒られちゃいますよ」
奏はふっと笑った。
「怒られたって構わないさ。
奏が竜を強く抱きしめる。竜も奏を抱きしめ返して、彼の愛情に応えた。
***
その日の深夜、竜は大旦那に、奏の部屋に行くよう命じられた。
言われた通りに、水の張った桶と布巾を持って奏の住む離れに向かう。
時刻は深夜ともあって辺りはひっそりとしている。空には星が瞬いていた。どうやら彼方の機嫌は悪くないようだった。
竜は奏の部屋を軽く叩く。息を潜めて「奏様?」と問いかければ、少しの間を置いて、小さな声で「竜か」と声がした。
「空いているから入りなさい」
竜は一度桶を置き、空いた手で扉を開けた。
部屋は真っ暗だった。竜の手にしていた明かりが朧気に辺りを明るく照らす。
いつもは閉じている窓が開かれ、外からそよ風が入り込む。弱い風では部屋の空気を払拭は出来ないようで、室内を嗅ぎ慣れない匂いが充満していた。奏のつけている香と、それを凌駕する不思議な匂い。生臭くてあまり好きな匂いではない。
竜は思わず口元を手で覆って部屋を見回した。
掛け布団は床の上に落ち、役目を果たさない布の山と化している。敷布は皺を寄せ、その上で着物をはだけた姿の奏を発見した。
竜は慌ててそばに駆け寄る。
「奏様、どうしたんですか!?」
大声を上げた竜に、奏は口元に人差し指を当て黙らせるように言った。
「大丈夫。いつものことだから。それより早く掃除をしてくれないか」
奏は竜の手にしている布を指さした。少し苛立っているような焦っているような声色が空気をぴりりと震わせる。
竜は奏を見つめた。正しくは、奏の体を。
初めて見た時は、自分よりも背の高い男だと思っていた。しかし服を脱いでしまえば、そこにあるのは竜と同じ、不健康で痩せ細った男だった。
白い肌が明かりに照らされ青白く光る。明かりは、いつも見る彼よりも、より病的であるように映し出す。
そんな彼の体の所々を液体が濡らしていた。明かりを近づけると、それは濁った白濁の色をしていて、不快な匂いがした。白濁は奏の体のみならず敷布をも汚している。そして部屋に充満する嫌な匂いは、どうやらこれが原因のようだった。大旦那が命じたのは、この汚れを掃除しろということだろう。
竜は桶に布巾を入れる。静かな部屋に、奏の荒い息遣いと水の飛沫が鳴り響く。
布巾を絞り水気を取ってから、竜は奏の体を拭こうとした。そこで、敷布と奏のどちらを先に拭くべきか迷いが生じた。
先に体を拭いてしまえば、布についた汚れが再び体を汚すだろう。しかし布を拭いてからでは、布巾は汚れきっていて、奏の体を更に汚してしまうことになる。
竜は迷った。迷って、もう1枚布巾を取りにいこうとした。
その手を奏が掴んだ。
「どこに行く」
「もう1枚布を持ってきます。1枚では足りないので」
「それで拭けば良いだろう」
「駄目です、それでは奏様の体が_____」
「良いから早く。早く拭いてくれ」
冷たい声だ。それはいつか奏と諍いを起こした時に聞いた彼の声。
奏は怒っている。それを分かっていながら、彼の命令を無視して動くことはできない。
竜は力なく頷いた。
奏を起き上がらせ、先に敷布の汚れを拭う。
かけただけの着物は奏の肩から離れていき、敷布の上に横たわった。昼に見た時は美しい黒色をしていたそれは白濁に汚れている。リュウは踏みにじられ、皺が寄ってしまっていた。
竜は忙しなく手を動かした。敷布を拭き着物を拭く。敷布は少し湿り気を帯びてしまったが汚れは取れた。着物の方の汚れは取れずに、シミとなって残ってしまった。
まるで汚されてしまったみたいだ。
奏だけでなく、竜すらも汚されてしまったような、そんな悲しみを覚えた。
竜は着物に布を強く押し当て、何度も何度も汚れを取ろうとした。しかし汚れは取れない。
奏は竜が掃除をするのを静かに見ていた。そして徐に呟いた。
「どうして泣いている」
「……え」
奏に言われ、竜は自分の顔に手を当てた。頬を熱い滴が濡らしている。
「なんで、おれ、ないて……」
泣いていると気がついてしまうともう駄目だった。堪えることを忘れた体が震え出す。涙は止めどなく溢れ、嗚咽する声がもれ出た。
「なんで、なんでっ、とまらない、んだ……っ」
頭を抱え目を閉じる。駄々をこねる子供のように首を振る。
止まれ。止まれって。
何度も言い聞かせるが、涙は止まらない。
「竜」
奏が名前を呼び、竜に手を伸ばした。頬に触れたそれを竜は振り払う。奏は何度も竜に手を伸ばし、そしてようやく、背中を丸めて縮こまってしまった子供の体を抱きしめた。
「竜」
耳元でその名前を呼ぶ。背中を叩き、しゃくり上げる子供が落ち着くのを奏は待ち続けた。
やがて体の震えは収まり、嗚咽の感覚が短くなる。大人しくなった竜の体を撫でながら、奏は優しい声で問いかけた。
「君は」
私を汚れていると思うか。
私を汚いと思うか。
竜は何度も首を振って、その言葉を否定する。
「ありがとう」
奏は吐息混じりの笑みを浮かべた。
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