安穏
若旦那が竜の元に姿を見せたのはあの一度きりだった。
若旦那は立ち去る前に一度竜の方を振り返り「暫くしたらまた来る」と言っていたが、1週間経った今も来る気配はない。
元々若旦那は気まぐれな性格をしていたから、今頃気が変わって街の外で狩りでもしているのかもしれない。
数日は、何をするにも周囲にかの人影がないことを確認しなければ不安でならなかった竜も、最近はようやく普段の調子を取り戻すことができた。
竜の心が平穏に戻れば、周囲の日常は急速に平和な頃へと戻っていく。
朝食を携えて奏の部屋を訪れると、そこでは奏が日課の文字書きをしている。
奏は頬杖をついて何かを考えるような素振りをし、ふと閃いたのか、いそいそと筆を動かした。そうして最後に、紙の左下に短く文字を書き込むと冊子を閉じる。
「今日もご苦労様。ありがとうね」
「いえ。これが俺の仕事ですから」
机の上に膳を置き、奏が箸に手をつけたのを確認して竜は辺りを見回す。
奏が食事をしている間にできることはないだろうか。
そんな竜の生真面目な性格も虚しく、今日も奏は全てを1人で済ましてしまっている。
寝具の取り替え、床磨き、棚の整理、洗濯。
窓の外で洗濯物が風にそよそよとなびいているのを見つめ、竜はため息を吐いた。
今日も結局何も出来なかった。食事を運んだだけ。奏はそれだけで十分だと喜んでくれるけど、竜自身が嫌なのだ。もっとちゃんと世話らしいことをしたいと竜は思っている。そしてそんな竜の性格を理解して、奏はからかっているのだ。
上品に箸を使いながら、奏は悪戯な笑顔で竜を見ていた。竜はそれに気がつくと不躾な目線を送った。
「奏様って本当に意地悪なんですね」
「そうだって言ってるじゃないか。君が勝手に私を優しい性格だと勘違いしていただけで、私は元々こんな性格だ」
温めの茶をゆっくりと煽り、奏は息を吐く。
「それとも、こんな私のことは嫌いかい?」
輝く石英の瞳を潤ませて奏は竜を見つめた。懇願するような、悲しむような眼差し。そんな風に見つめられると「嫌いだ」なんて言えるはずがない。元々奏のことは嫌いではないのだ。少し調子を狂わされるのが不満だというだけで。
「……嫌い、じゃ、ないです」
たったそれだけの言葉を言うのにとても時間がかかった。
何故か赤く火照っていく顔を誤魔化すために顔を俯かせると、鳥のさえずるような笑い声が頭上に降りかかる。
奏は気がついているのだ。
竜が奏を慕っていることも、"好きだ" とただその一言を言うにも照れてしまう年頃であることを。
知っていてからかっている。酷い人だと思う。
「竜」
笑いを堪え切れていない声が竜を呼びかけた。
「1人で食べるのは寂しい。もっと近くに寄ってきなさい」
竜がさっと奏の元へ立ち寄ると、奏は両腕を広げて、竜を抱きしめた。
ふわりと漂ってくる上品な香の香り。
「奏様! 何をなさるんですか!?」
竜は奏から離れようとするが、奏が竜を殊更に強く抱きしめるので逃げられない。男にしては細いこの腕からどうしてこんなに強い力を出せるのだろう。
「お願い。少しの間だけこのままでいさせてくれ」
「ですが、もし誰かが入ってきたら_____」
「構わない。たとえ見られたとしても、親子の戯れにしか見えないさ」
親子。
その言葉を聞いた時、竜は抵抗を続けていた体から力を抜いた。
急に大人しくなったことを不審に思った奏が「竜?」と小さく名前を呼ぶ。
竜は胸に顔を埋めていて表情は見えない。
「奏様」
胸元で名前を呼ぶと、奏はくすぐったそうに身を少し捩らせた。
「……俺を、"彼方" とお呼びになってください」
「君を……?」
「はい」
奏は竜の背中を撫でながら、暫し黙り込んでいた。
戸惑うようにぎこちなく動いていた手が、やがて止まる。
右腕が恐る恐る頭に回された。
「……かな、た?」
普段の大人びた声とは全く違う、迷子の子供のような声。
竜は細い腕を精一杯奏の背中に回して、強く抱きしめ返した。
「……父上」
奏の体がびくりと震える。
「かなた」
「はい。父上」
「君は本当に彼方なのか」
「そうです。父上」
竜は頭の中で彼方の姿を思い浮かべる。
純真であどけなく、太陽のような笑顔を見せる子供。
きっと成長すれば奏のように綺麗な男になるだろう。子供みたいに意地悪なところを残していて、だけど上品な男。
きっと彼方は奏を "父上" と呼んで慕う。
"りゅう兄!"
"りゅう兄とずっと一緒にいたい"
"りゅう兄、行かないで!"
本当の両親を知らない子供。
自分が孤独であることを知らず、未来を知らず、ただの世話係に全幅の信頼を寄せる哀れな子供。
そして、彼のことを愛していながらも会わないことを選んだ男。
自分の保身のために子供を捨てるのだ。そう言って自分を傷つける哀れな男。
竜の考えは以前から変わらない。奏には言わないものの、いつか2人が会える日が来れば良いと思っている。だけどそれが叶わないというなら、2人のことを知っている竜が彼らを間接的にでも繋げるしかない。
「父上」
「……なんですか」
「夢を見たんです」
「それは、どんな」
「父上と一緒に暮らす夢です。ずっとお喋りして、一緒に寝て、ずっと父上が一緒にいてくれるんです」
竜には家族の記憶がない。物心ついた頃には既に奴隷としてこの屋敷に住まい若旦那の相手をしていたのだ。もしも若旦那が竜にとっての唯一の家族だとしたら、家族というのはどんなに残酷なものなのだろう。
家族とは何なのだろうか。
優しいのか、温かいのか、惨たらしいのか。
残酷でも、そばに居続けなければならないものなのか。
優しくても、いつかは離れ離れになってしまうものなのか。
竜にはわからない。
竜は奏を強く抱きしめる。
「やっと会えましたね。父上」
空気が揺れる。背中に回った細く長い腕が小さく震える。
奏は何も言わなかったが、竜を決して手放さなかった。
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