竜が大旦那の元にやってきたのは、まだ彼が赤子の頃だった。

 生まれてすぐに道端に捨てられた哀れな子供。

 産声を上げ続け、死への道筋を緩やかに辿っていた竜を見つけたのは、偶然その場を通りかかった大旦那と、彼に連れられて歩いていた幼き若旦那だった。

 先に気がついたのは若旦那の方で、彼は産声の聞こえる方へ近づいていくと、茂みに隠されるように置かれていた赤子の姿を見つけたのだった。


 赤子の頃のことは記憶にない。

 しかし薄っすらと残っている記憶を辿れば、その頃にはもう若旦那は竜の知っている性格をしていた。

 我が儘で、横暴で、悪虐な少年。

 幼さ故の残酷さからは明らかに一線を画した非道な振る舞い。


 若旦那は動物を嬲ることを趣味にしていた。街中で満足に餌を食べられずに衰弱した動物を拾っては家に連れて帰り、彼らを甲斐甲斐しく世話をする。そうして元気になったところで彼らを痛めつけ、また世話をするのだ。

 子供は力加減がわからない。死なない程度に済ませることもあれば誤って殺してしまうこともある。


 竜がまだ生まれるより少し前、若旦那は犬を飼っていたことがあったらしい。大層可愛がり大切にしていたその犬を若旦那は突然殺してしまった。

 まだ今ほど屋敷が大きくなかった頃の話だ。当時屋敷にいた世話人や部下はそれほど多くないにも関わらず、この話は奴隷すらも知っていることだった。何故なら、若旦那自ら度々このことを話題に出すからだ。

「死ぬ方が悪いのだ」「耐えられなかった奴が弱いのだ」「少々殴ったぐらいで死ぬなら、どの道俺が手を下さずとも勝手に死んでいただろう」

 若旦那は酒に酔うと、こう言って笑った。悪びれた様子もなく。それが当然だという風に。


 若旦那に拾われた竜は、彼の部屋で暮らし、"愛玩動物"と同じ扱いを受けるようになった。

 少しでも若旦那の気に障ることがあれば暴力を振るわれる。殴る蹴るは当たり前で、気を失いそうになれば水をかけられ、満足に眠ることすら許されない日もあった。

 それでも殺されることがなかったのは、若旦那が手加減を覚えたからだった。


 当時のことを竜はあまり思い出したくない。しかし、普段は蓋をして閉じ込めることのできる記憶が、眠っている時に不意をついて現れることがある。

 その記憶はいつだって竜を苛んだ。大旦那に彼方の世話係に任命されたことで若旦那から離れて暮らすようになった今も、あの頃のことを完全に忘れることはできずにいる。



***



 口から吐き出された液体が床に散らばった。若旦那手製の“味噌汁”に混じって数匹の物体が、岸に打ち上げられた魚のように蠢いている。

 竜は息を荒げながら、涙で濡れる視界で呆然としてそれを眺めていた。

「誰が吐き出して良いと言った?」

 頭に金槌で殴られたような衝撃が加わり、視界に火花が散る。

 竜はその場に倒れ伏し、咄嗟に背中を丸める。

 顔を腕で隠し隙間から外を覗けば、少年が竜を見下ろしていた。声変わりをする前の甲高い声が鼓膜を貫く。

「折角お前のために作ってやったというのに、恩を仇で返すようなことをする。お前はどこまで俺の気を損ねれば気が済むんだ」

 若旦那の腕が竜の服を掴み無理やり竜を起こした。そして床に叩きつけ、背中を丸めて動かない竜の頭を足で踏みつけた。

「お前は自分がどういう立場か分かっていないようだな、竜」

 足の踵が頭に擦り付けられれば、短い髪がざらざらと砂を踏んだような音を立てる。

「生まれてすぐに道端で捨てられたお前が何故今も生きていられるのか、その何も入っていない空の頭で少しは考えてみろ」

 何度も言われた台詞。何度も踏みつけにされた頭。

 筋書きがそこに存在するかの如く、竜の口は幾度となく繰り返してきたその言葉を紡いだ。


"ごめんなさい"

"ごめんなさい"

"このようなことは二度としません"

"だから、捨てないでください"



 

***



 頭に何かが当たっている感覚がする。

 動物のように体温を持つ"それ"はしかし体重がなく、羽のような軽さで竜の頭の上を動いている。

 髪に触れていた"それ"は暫く竜の頭の上を動き回ると、一度体から離れ、今度は頬に降り立った。

 少し骨張っていて、冷たい。

 竜の意識は次第に夢の世界から現実へと引き戻される。

 ゆっくりと目を開いた。

 最初に視界に飛び込んできたのは、眩い白だった。

 薄い膜が貼られたみたいに朧げな視界では、それが最初は何であるか分からなかった。

 白蛇のように神々しく荘厳とした白色。曖昧模糊で巨大な生き物のようだったそれは、意識の覚醒と共に次第に人の形を取り戻していく。

 それは奏だった。奏は、竜が目を開くのを心配そうに見つめ、安堵して顔を綻ばせた。

「起きたかい?」

 奏の問いかけに竜は目を瞬かせる。

「ここは……?」

「私の部屋だよ。君は倒れたんだ」

「倒れた……?」

 そう言われた途端、竜の体は急に重さを増したような気がした。

「お医者さんに聞けば、過労と寝不足とのことだから、暫く休んでいたら治るだろう」

 竜は奏の言葉をゆっくりと飲み込んでいく。

 自分の体がここ数日妙に気怠く感じていたのも気分が優れなかったのも、寝不足のせいだったようだ。

 そう納得して、ふと疑問が生じた。

「奏様」

「何だい」

「今は何時でしょうか」

 奏は窓の方を一瞥して「もうすぐ昼時だよ」と答えた。

 竜は驚いて体を起き上がらせる。

「俺、仕事に行かないと_____」

 立ち上がろうとした竜を、奏は手で制した。

「駄目だよ。まだ体は良くなっていないんだから。せめて夕方、彼方あのこの元へ行くまではここで眠ってなさい」

「でも、仕事が_____」

「他の者にはもう言ってあるよ。"わたしの我が儘に竜は付き合っているのだ"とね」

 奏は竜に微笑みかけた。竜を安心させようとしてのことだったが、これは竜を落ち込ませることにしかならなかった。

 竜は驚きに目を見開いた。しかしすぐに目を伏せ、俯いた。


"ここ最近、気分が優れないようだが大丈夫かい?"

 そう言われた時、まともに仕事ができていないことを奏に咎められたのだと思った。

 たとえ奏を悲しませてしまったことや若旦那のことで悩んでいたとしても、そのような感情を仕事に持ち込むのは良くないことだ。

 竜は奏にこれ以上嫌われないように、気丈に振る舞うようになった。しかしその結果がどうだろう。

 仕事中に倒れてしまったことで迷惑をかけてしまった。その上まるで自分ではなく奏のせいで仕事ができないかのように周囲には知れ渡っている。

 奏にそうさせたのは自分だった。

 彼方の話をした時のように、また奏に酷いことを言わせてしまったのだ。

 今度こそ竜は自分の未来を悲嘆した。

 ここまで迷惑をかけておいて、これからも奏の元で働くことなどできない。そして、こんな不甲斐ない子供に息子の世話をさせるなど、奏は嫌がるに違いない。

 彼方の世話係を外されれば、竜が若旦那から離れている理由はなくなってしまう。

 やっぱりあの男の元へ戻るしかないのだろうか。

 ろくな仕事も出来ない自分は、あの場所で若旦那の"愛玩動物"として暮らすことが似合いなのだろうか。


「竜」

 悲しみに暮れる竜の耳に奏の声が届く。竜は、ゆっくりと顔を上げた。

 白い腕が竜に伸ばされ、背中に回る。

 視界が暗くなった。


 抱きしめられているのだと気がつくのに時間がかかった。


「竜。君は無茶し過ぎなんだよ。1人で何でも抱え込もうとして頑張って。私は、そんなしっかり者の君が落ち込んでいる様子を見たくないんだ」

 心臓がトクトクと音を立てている。胸元から声が聞こえているような気がした。

「君の不調に気がついていながら、私は何もしなかった。年上失格だね」

 竜は思わず顔を上げ、「あなたのせいではない」と、そう言い返そうとした。

 しかしできなかった。

 彼の強張った声に反して、その表情は殊の外優しかったから。

"仕方ない子だ”

 そう言って悪戯な子供を叱る時のような呆れつつも慈しみのある眼差し。竜を再び腕の中へ閉じ込め、背中を軽く叩かれる。

 今まで出会ったことのなかったその眼差しに竜は狼狽えた。

 そして、体を触られることに拒絶をしない自分の心に戸惑っていた。

 体に触れられるのは、若旦那のことを思い出せられてしまう不快なものでしかなかったはずなのに、奏に抱きしめられていることを嫌に思うどころか心地良く思ってすらいる自分がいる。どうしてだろう。わからない。


 竜は目を閉じて、背中を優しく撫でる手の感覚にいつしか浸っていた。

 手が離れていき、心臓の鼓動が遠くに去っていくのを聞いたその時まで、竜は自分がまるで赤子のようにあやされていたのだということを気が付かずにいた。


 肩を押されベッドに寝かしつけられる。

 優しい笑みが、窓の外から差し込む光に当てられてちらちらと明滅する。

「今日は休んでいなさい。夕方には起こしてあげるから」

 穏やかな声が竜を眠気へと誘う。

「奏様……」

 竜は、夢の世界へ旅立ってしまいそうな意識を手繰り寄せて、奏に尋ねた。

「どうしてあなたはそんなに俺に優しくしてくれるんですか……? 俺はあなたに何も返してあげられないのに。あなたを傷つけて、悲しませることしかできないのに」

 竜の頭を撫でていた手が少しの間止まる。しかしすぐに動き出した。

「そばにいてくれるだけで良いんだよ」

 奏は言葉を続ける。

「私はね、君が隣にいてくれるだけで十分満たされてるんだ。仕事がなくて所在なさそうにしていたり、私の話についてこようと頑張ってる君を見るのが、私は好きなんだから」

 奏はくすくすと笑った。竜もそれに連れられて笑みをこぼした。

「ふふ……意地悪」

「そうだよ。私は意地悪なんだ。でもそんな私に本気で答えてくれるのも君だけなんだ。だから私は君がそばにいるだけで十分、君から幸せを返してもらっているんだよ」

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