若旦那


 その日の昼に竜が奏の部屋を訪れた時、奏は既にいつもの調子に戻っていた。

 机に向かって真剣な顔で何かを書き、竜が来ると顔を上げる。

そして竜の作った料理を美味しそうに食べてくれ、その横で竜は奏の話に耳を傾ける。たまに竜が発言をすると、奏は愉快そうに目を細めてゆるりと笑った。

 以前と変わらない反応。接し方。

そう。いつものはずなのだ。

 だがそれは表面上だけのことだった。

 奏と諍いのようなものを起こして以来奏は竜に、彼方のことを尋ねなくなった。


 竜はそれを、奏からの信頼を失ってしまったせいなのだと思った。それだけのことを竜は言ってしまったのだ。言わせてしまったのだ。奏が普段通りに接してくれているのは彼の優しさに他ならない。

 大旦那の耳にこの話が届くまでに時間はかかるだろうが、もし届いたとしたらどうなるだろう。

 大旦那の気に入りの気に障ったとしてこの仕事を辞めさせられるか。もしくは、前任の世話係のように"失踪"してしまうのかもしれない。

 

 竜は彼方に食事を与えながら、彼方の行く先を考えていた。

 もし自分がいなくなってしまったらこの子供はどう思うのだろう。少し離れるだけで泣きそうな顔をする子供だ。自分が死んでしまったとしたら深く悲しむのかもしれない。あの、日中はいつも晴れやかな青空が、厚い雲に隠れ、大粒の涙を流してしまうのかもしれない。

 それとも怒るのだろうか。

「明日また来るって約束したのに」と、悲しげな声を牢屋の中に響かせて。



***


 そのようなこと考えながら表面上はいつも通りの生活を続けていたある朝のことだった。

 朝食の支度を終え廊下を歩いていた竜は、奏の部屋の前で壁にもたれて立っている1人の青年を見た。

 赤毛の長い髪を後ろでひとまとめにして、一目で高級と分かる質の良い服を来たその青年は、腕を組み硬く目を閉じている。

 その姿を見た瞬間、竜の心臓が鈍い音を立てて脈打った。呼吸が早くなり、体から汗が吹き出る。

 青年は大旦那の息子で、周りからは"若旦那様"と呼ばれている。

 やり手の商人と呼ばれている大旦那とは違い、あまり頭の回転は早くないようだった。横暴で、少しでも気に入らないことがあれば口よりも先に手が出るような男だ。

 彼は今年17になる青年で、大旦那がいない間の屋敷の監督を任されている。しかし、若旦那は滅多に家にいなかった。大旦那の部下に仕事を任せ、自分は屋敷の外で遊び回っているのだ。

 竜が以前彼の姿を見たのは、もう半年も前のことだった。そして、できればもう二度と顔を合わせなければ良いとすら思っていた。

 しかし奏に朝食を届けないわけにはいかない。部屋の前にいられては、彼と顔を合わせる他奏に会う方法はない。

 竜はゆっくりと廊下を歩く。悪あがきと分かってはいたが、足音をできるだけ立てないようにして。


 床がぎしりと音を立てた。

 若旦那が目を開ける。

 営利な刃物のように鋭く尖った目尻に、彼の乱暴な性格を刻み込むように釣り上がった眉。

 不機嫌にへの字に曲げられていた口元が緩く上がり、唇の隙間から白く尖った犬歯が顔を覗かせた。

 彼の唯一の取り柄といえば、大旦那の遺伝子を受け継がなかったおかげで存外整った顔をしていることだ。しかしその取り柄も、彼の苛烈な性格と醜悪な表情を前にしては何の効果も持たなかった。

「久しぶりだな。元気にしていたか」

 竜は会釈をして、若旦那から距離を取るように右足を後ろへ引く。

 若旦那の右眉がこれ以上ないほどに釣り上がった。

「何をそんな離れたところに立っている。もっと近づかないと声が聞こえないだろうが」

 若旦那の低く唸るような声に萎縮して、竜は恐る恐る若旦那へと近づいた。

 

 若旦那を見上げる。彼もまた竜を見下ろした。

 彼の服からは嗅ぎ慣れない外の香りと獣の血生臭い匂いがする。

 思わず息を飲んだ竜に、若旦那は笑った。

「少し近くの森で狩りをしていたんだ。それで、少し飽きてきたものだから久々に父上に顔を見せにこようと思ったのだが……父上はいないようだな」

 残念だ、と若旦那は言ったが、彼が大旦那のいないタイミングで家に帰ってきていることは屋敷の誰もが知っていることだった。

「大旦那様はただいま北の国へお務めにいかれています。あと一月もすればお帰りになるのではないでしょうか」

「そうか。では、暫くはこの家にいようかな」

 若旦那は壁に乗せていた背中をゆっくりと起き上がらせた。その間、視線は竜に向けられたまま一切逸らされることはなかった。

「竜。お前は最近奏めかけの世話をしているのだろう」

 竜は沈痛な面持ちで頷く。

「お前も大変だな。普段の仕事に加えて親子の世話もさせられるとなると、寝る時間も限られてくるだろう。いい加減辟易としているのではないか」

 若旦那の言う通りだった。最近は特に忙しく_____そしてこれからのことに悩んでいたから_____睡眠時間が極端に減っていた。

 だが、竜はこの生活を悪いものとは思っていない。

 奏と彼方と一緒にいる時、竜は少しだけいつもの自分よりも気が楽でいられた。自分が奴隷の身分であることを一時でも忘れさせてくれるのがあの2人だったからだ。

 だから、彼方から、奏から離れたくない。

 しかし。

"……名前も知らない親を、存在すら覚えていないだろう親を、どうして大切だと思えるんだい"

 悲しげに呟かれた奏の言葉が頭から離れない。

 大切にしているだろう息子のことすら話さなくなってしまった奏に対して、どのように罪を償えば良いのかわからない。

 

 竜は深々と若旦那に頭を下げた。

「……2人は俺のことを頼りにしてくれています。俺のようなただの奴隷に優しくしてくれるとても優しい方です」

「……それは真のことか」

「はい」

「……そうか」

 若旦那は黙り込んだ。

 そこに気配はあるのに、一向に話し出す気配を見せない。

 竜は訝しく思い顔を上げた。

 そこには、竜の大嫌いな醜悪な表情で笑う若旦那の姿があった。

 竜の喉が引きつり首を締められた鶏のような声を上げる。

「お前は相変わらず素直ではないな。目の下にこのような隈を作ってまでして、あの親子のことを"優しい"と表すとは」

 若旦那の手が竜の目元へ伸び、下瞼を撫でられる。

 硬い爪が薄い皮膚に押し当てられ鈍い痛みが生じた。

 心臓に刃物を当てられているような恐怖を感じながら、竜は膳を落とさないよう必死に手に力を入れていた。

「しかしそれも仕方のないことだ。父上に命ぜられれば断れないのも当然のこと」

 若旦那は竜の目を検分するかの如く舐め回すように見つめ、やがて指は離れていった。

 どっと汗が吹き出す。呼吸が荒くなりそうになるのを唇を噛んで堪えた。

 若旦那は竜の表情を満足するまで観察すると、こう言ったのだ。

「俺の元へ戻ってこないか、竜」


 若旦那が視界から姿を消すまで、竜はその場を動くことができなかった。



***



 扉を開けるといつものように椅子に腰掛けていた奏が、竜を見て不思議そうな顔をしていた。

「今日は遅かったじゃないか。寝坊でもしていたのかい」

 くすくすと笑みを零しながら、冗談めかして言う。

 竜は咄嗟に何の言い訳も思い浮かばなかった。それで「はい」と小さく頷いただけだった。

 竜の作った料理に奏は手を合わせる。綺麗な所作で小さく口を開く。その顔を竜は呆然と見つめている。

 つと、奏の目が見開かれた。

「どうかしましたか?」

「……いいや。とても美味しいよ。ありがとう」

 そう言って、奏は何事もなかったように食事を続ける。

 本当はこの時、奏は竜の嘘を見破っていた。すっかり冷めてしまっていた朝食から、寝坊ではなく食事を運ぶ際に何かがあったことを知ったのだ。だけど何も言わなかった。

 たとえここに来る前に少し寄り道をしていたとして言い咎めるほど、奏は身分は高くないし怒ってもいない。竜が食事を運んできただけでも嬉しいのに、どうしてそれを咎めることがあるだろうか。


 奏はその日は何も言わなかった。

 しかし2、3日経って、竜が日に日に元気をなくしていく様子を見ていると流石に尋ねずにはいられなかった。


「ここ最近、気分が優れないようだが大丈夫かい?」

 奏が尋ねたその言葉に、竜は一度俯いた。しかしすぐに顔を上げ、豁然とした表情で奏を見据えた。

 その瞳には固い意志が刻み込まれている。それは、奏の足につけられた枷に似た重たい色を纏わせていた。

「大丈夫です」

「……そうか」

 彼が大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう。奏にはそれ以上彼の事情に立ち入る権利はない。


 奏は竜の仕事振りを評価している。顔を合わせるようになったのはここ数週間のことだが、それでもその真面目さは目に見えて分かった。

 素直なところ。命令を精一杯こなそうとするところ。少し融通の効かないところ。いつだって美味しい料理を届けてくれるところ。

 何より彼には、大人が持つ"欲"というものが存在していない。

 それが彼自身の性質によるものなのか、もしくは身体共に発展途上であるためかは分からない。しかし彼の純真で素直はところは気を少し楽にさせてくれるから好きだった。


 竜はいつだって真面目で、仕事に私情を挟むことはなかった。

 だからこれからも、たとえ何があったとしても最低限の仕事はしてくれるだろう。

 そう奏は考えていた。

 しかし竜は、奏の半分ほどしか生きていない子供なのだ。

 小さな子供の背中に様々な重圧をかけ過ぎていたのかもしれない。


 そう気がついたのは、それからまた1週間が経った朝のことだった。

 奏はいつものように机に向かい文を認めていたところだったので、彼の様子を確認していなかったのだ。

 奏は竜を部屋に入れ、机の隅に冊子を置き、それから竜に向き直った。

「竜_____」

 名前を呼んだ時、竜は口を開き足を一歩踏み出した。その体が揺らぐ。

 目の前の景色がゆっくりと動いた。竜の手にしていた膳と共に彼の体が地に伏し行くのを、奏の視界は捉えた。

 咄嗟に手を伸ばす。

「竜! どうしたんだ!」

 受け止めた体は不気味なほどに軽い。細く骨ばり、紙で作った絡繰りのように、少しでも力を加えれば崩れてしまいそうだった。

 体から力が抜け、目を伏せる。

 奏に返事をしようとした口の形のまま、竜は微かに喘いだ。

 奏は竜の口元に耳を寄せる。

 呼吸の合間に、微かに聞こえた言葉があった。


”ごめんなさい”

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