奏
竜が日々の雑務と彼方の世話に明け暮れていたある日。
普段は大勢の人々がいながら嫌に静かな雰囲気を保ち続けていた屋敷の中が、その日は妙に騒がしかった。
仕事の合間に奴隷は会話を交わす。竜もその会話に加われば、話題は何やら奏の世話係のことだった。
どうやら、世話係が突然失踪したらしい。
竜も何度かその男の姿を見たことがあるが、彼は長いものに巻かれる性格の人間で、目上の人物に慇懃であることから大旦那には大層可愛がられていた。
そんな彼がわざわざ屋敷から抜け出すなんてことは到底考えられない。そう思ったのは竜だけではないようで奴隷の間では"大旦那に殺されたんだ"としきりに噂されていた。
「どうして殺されるんですか?」
竜が尋ねると歳上の男は竜を馬鹿にするように見下ろした。
「何故って、決まってるじゃないか。大旦那の妾に手を出したんだよ」
話しているとやがて監視がやってきて大声で怒鳴り始めたのでそこで話は終わった。
昼頃にはもう竜の興味はその話題から移っていた。
他人が勝手に失踪しようと自分には関係ない話だから、と、未だその話題で持ちきりの奴隷たちを他所に竜は黙々と働いた。
竜に奏の世話係の役割が回ってきたのはその翌日のことだった。
いつものように雑務をこなしていた竜の元に普段滅多に話をしない大旦那の部下がやってきて、その場で彼に言い渡した。
「竜。今日からお前には今の仕事に加えて奏様の世話係をしてもらう」
竜の周りは、しんと静まり帰り、かと思えばことを理解した人々が騒ぎ立て、その場は一時騒然となった。
部下が奴隷たちを叱咤すると再び水を打ったように静かになる。
「何か聞きたそうな顔をしているな」
部下は竜の顔を睨んだ。自分では見えないが、よほど驚いた顔をしているようだった。しかし当たり前のことだ。
彼方の親とはいえ今まで一度も会ったことはなかったし、これからも会うことはないと思っていた。
だから、こんなに急に会うことになって驚かないはずがないのだ。
竜は目を何度か瞬かせ、数倍の背丈はあるように見える大男を真正面から見返す。
「どうして、俺なんですか」
部下は答えた。
「お前には関係のないことだ。まあ、せいぜい身を粉にして働くが良い。努力が認められれば今よりも良い立場につけるかもしれないからな」
数十分後、朝食の乗った膳を手に奏の部屋の前にいる竜がいた。
竜の仕事は至って単純で、1日3回奏に食事を届けることと、それから大旦那の命があればいついかなる時間であっても奏の元に来ることだ。大旦那はたった今仕事で遠方に出かけているので、当面は配膳のみとなる。
竜は少し緊張した面持ちで扉の前に立ち、静かに数度叩いた。
「誰?」
凛とした声が鼓膜を震わせる。張り詰めた糸のような神経質な声色だった。
「今日から奏様のお世話をさせていただきます、竜です」
何度も頭の中で組み立てていた構文を、淀みつつも言い切る。
少しの間を置いて「どうぞ」と声がした。今度は少し柔らかな声だった。
竜は扉を開けるとすぐさま頭を下げる。
するとすぐに苦笑混じりに「そんなに頭を下げなくても良いよ」と声がした。
「顔を上げなさい」
言われるがまま顔を上げる。
その瞬間、竜は目の前の男に目を奪われていた。
奏の姿は一度だけ、それも遠くからしか見たことがなかった。それでもただならない美しさを持っていることは分かっていた。そしてその美しさは未だ色褪せることなかった。むしろ、こうして近距離で見たために以前よりも美しく見えるかもしれない。
男は部屋の机に向かい何かを書き連ねていた。視線は真っ直ぐに机へと向けられ、細い指が筆を走らせる。
「君、名前は」
「りゅ、竜です」
言葉を詰まらせてしまい、恥ずかしさに顔を赤くする。
「歳は?」
「9つです。今年で10になります」
男が初めて顔を上げ竜をまじまじと見つめると、その青白磁の瞳を薄っすらと細めて笑う。
「
「はい」
竜が奏の放つ雰囲気に飲まれて萎縮していると、その様子を機敏に感じ取ったらしい奏が笑った。
椅子から立ち上がり竜の前に立つ。しなやかな枝のような雰囲気を持つ男だが体つきは当然竜よりもしっかりとしている。
「君は確か彼方の世話をしてくれているんだよね」
はい、と竜が頷くよりも先に、「そんな君に頼みがあるんだけど」と奏は性急に用件を捲し立てた。
「ここに来た時は彼方のことを教えてくれないかい。私はこの通りここから出られない身であるし」
足と寝台を繋ぐ鎖が重たい音を立てる。
「彼方がここに来られないことは君も当然知っていることだろう。だから頼む。ただ元気であることが分かれば良いんだ。君に彼方を連れてこいなどとは要求しない。ただ話をしてくれるだけで良いんだ。分かるね」
「は、はい」
竜は戸惑いがちに呟いた。
「それで、あの、食事なんですが」
冷める前に食べてもらわなければ。再び作り直すなんてことはしたくない。
竜の言葉に奏はようやく、竜の手の膳に気がついた。
ああ、と間の抜けた声を上げて、奏は竜から盆を受け取り机の上に置く。
竜はそれを見届けると会釈をすると、部屋から退散しようとした。その腕を奏が掴んだ。ひんやりとしていた。
弓を射るような視線とかち合う。
「それで、彼方のことを教えてくれるかい?取り敢えず君が始めて彼方に会った時から今現在まで、簡単で良いから教えてほしい」
「……はい」
奏はとても美しい見た目をしている上に無意識に人を気圧すところがある。見た目を以って、その勢いを持って、相手を自分の領分へと引き入れるのだ。
嫌いなわけではない。
ただ、反応に困る男だと思った。
***
朝食を持って部屋の前に行く。扉を叩くこと数回。すぐに、鈴のような声が竜の耳に届く。
「入りなさい」
竜が片手で膳を持ちもう片方の手で扉を開けると、少しずつ開いていく扉の先には、初めて会った時と同じように机で何かを書いている奏の姿があった。
竜は奏が眠りについているところを見たことがなかった。彼は竜が部屋に着いた時には既に起きていて、このように常に何かを書き連ねている。何を書いているのか気になってはいるが、聞いたところで竜に理解できるかは分からなかった。竜のような身分の低い者は基本的に文字を書くことができないのだ。
「ご苦労様。いただくよ」
竜は奏の机に膳をゆっくりと置き、奏が食事を始めたのを見てから辺りを見回した。
良く整理された棚に塵ひとつない床。寝台には洗い立ての白い敷布が我がもの顔で居座っていて、部屋の中は清涼な空気が漂っている。
ひととおり見渡して、竜は苦し紛れに窓を開けた。部屋の中の空気は入れ替わらない。
竜は密かにため息を吐いた。その機会を狙っていたかのように、奏が呟いた。
「1人で食べるのは寂しいものだな。誰か話し相手になってくれれば良いのだけど」
竜はその呼びかけを聞くや否や、急いで窓を閉じて奏の元へと駆け寄った。
竜の困っていることは、奏があまりに1人で何事も片付けてしまうものだから竜のやることがないということだった。食事をしているうちに寝具の1つでも換えられればと試みるけれど、今朝来た時には既に綺麗なものに取り替えられている。服すらも自分で洗濯をして窓のそばにかけてしまうので、奏が食事をしている間は手持ち無沙汰だった。
そんな竜を気遣ってか、あるいは食事をまともに摂れない身分であることを哀れに思ってか、奏は一度一緒に食事をするように誘ったことがある。その瞬間竜は顔を青くさせて「毒なんて入れていません」と訴えたので、それきり奏は一緒に食事をすることを強制はしなかった。
となると、何をして良いのかやっぱり分からなくなる。竜は部屋をうろうろと忙しなく動き回り、奏は竜の不審な行動を見ない振りをした。そのような奇行を何度か繰り返した後、結局、"食事の時は2人で世間話_____話題は彼方に限った話ではない_____をする"ということを不文律とした。
奏のわざとらしい独り言は始まりの合図だった。
竜は奏の前に少し距離を取って立つ。奏は目の前の食事に目線を向けつつ、"天気"の話を始めた。
「ここ最近は晴れの日が続いているね。洗濯物が乾きやすくて良い天気だ」
「そうですね」
窓の外は青々とした空が広がっている。太陽の日差しが木々の隙間に差し込み、舞台装置のような煌びやかさを作っている。
奏は吐息混じりの笑みを浮かべた。
「だけど夕方から夜にかけて少し空が曇るな。折角窓を開けても月や星が見えないというのは少し寂しい」
「ですが前だったら雨だったところが最近は曇りで済んでいるんですから、きっと晴れる日が来るんじゃないでしょうか」
「そうだと良いけれど」
奏は苦笑を漏らす。
彼方の感情がこの地域の天気に影響を与えているらしいということは竜も前々から勘付いていたことだった。
奏によれば、幼い頃は水精の力も不安定で、精神的に成長をするにつれてようやく力を制御できるようになるらしい。
だから竜と別れた後も雨が降らないというのは少しずつ精神が成長していっているという証拠だろう。それは、外の景色を見たことがない彼方本人は知らない話だけれど。
奏は竜の作った食事を流麗な所作で綺麗に片付け箸を置いた。
「ごちそう様。今日も美味しかったよ」
そう言われると、竜はこそばゆい気持ちになる。
奴隷が食事を作るのは当然のことで今まで感謝などされたことはなかった。それが、この男は竜の行動のひとつひとつに敬意を示す。対等な人間として扱われているようで恥ずかしさに似た喜びを感じる。
竜は少しはにかんでお辞儀をすると奏の膳を手に取った。恭しくも少し性急な動作だ。奏と彼方に食事を与える時以外は他の奴隷と同じく雑務を行わなければならなかったから、早く部屋を出なければならないと思っている。
竜はもう一度奏に会釈をすると、踵を返した。奏は立ち上がりゆっくりとした動きで窓に近づいた。
差し込む光の眩しさに目を細める。
「こんなに気持ちの良い朝を迎えるのはいつぶりだろうな」
奏は竜に聞かせるでもなく1人呟いた。その言葉に竜は反応し後ろを振り向く。独り言を聞かれていたことに気がついた奏は、薄っすらと笑みを浮かべ竜を見つめた。
冬の湖のような色をした瞳が輝いている。全てを浄化するような透明で荘厳な笑顔。
綺麗な笑みだと思った。それ以外には何の感情も抱かないほど、竜は彼の笑みに暫し見惚れた。
「君のおかげだ」
指で軽く弾いた琴のような声色。奏は話を続ける。
「君のおかげで私は離れ離れになってもあの子のことをはっきりと感じることができるようになったんだ。こうして外を眺めていると、まるであの子がそばにいるみたいに感じられる。これほど嬉しいことはない」
窓に指を当てゆっくりと撫で下ろす。その指を目線で追いながら、竜は窓に映る奏の顔が少し寂しげであることに気がついた。
彼の体を拘束する冷たくて重たい鎖。窓の外に広がる麗かで限りない空。
すぐそばにいるのに手を触れることすら叶わない。嬉しいと口では言いつつも寂しさを感じているのは一目瞭然だった。
「会わなくて良いんですか」
竜は思わずそう尋ねていた。奏が振り返る。
「……奏様は大旦那様にとても気に入られています。あの方にお頼みになれば、少しだけでも会うことだって出来るはずじゃないですか」
奏は竜と同じ奴隷という身分だ。首筋には奴隷の印があり自由は許されていない。だけど彼は竜とは決定的に違う。
生まれ持った才や美貌は奏をこの屋敷に縛り付け苦しませる。だけど苦しませるだけではない。言い方は悪いが、屋敷の主人の一番の寵愛を受けているのだから、やろうと思えば自分の思うがままに生きることだってできるはずだ。
だけど奏はそれをしない。生まれてから一度も息子に会わずに、ただ彼のことを思い焦がれるだけだ。
竜は俯いた。自分が失礼なことを言っているかもしれないと不安に思っていた。そんな彼の元に降りかかるのは、優しくも固い意志を持った男の声だった。
「……彼方とは会わない。会わないと私が決めたんだ」
「どうして」
「一度会えばきりがなくなる。もっと会いたいと思ってしまう。そうしたら……離れるのが辛くなる」
それは、竜が彼方に抱いているものと似たような感情だった。
彼方のことは嫌いではない。
好きだった。
彼だけが使う呼び名で名前を呼ばれることが嬉しくないはずがない。愛おしさを感じないはずがない。
だけど、彼方が一心に向けてくる親愛の感情に竜は真正面から向き合うことができない。
怖かったのだ。少しでも彼方に心を許し切ってしまえば別れが怖くなる。別れた後に訪れるだろう心の空虚を抱いたまま生き続けるのが怖くなるから。竜は彼方に心を許さない。
だけど、と、竜はこうも思うのだ。それは身勝手な感情かもしれない。自分ができない癖に奏にはそれを強要しようとするなど愚かなことかもしれない。
だけど言わずにはいられなかった。
「でも、二度と会えなくなってからでは遅いんですよ。奏様にとって彼方様はたった1人の息子なんです。彼方様にとっても、奏様は大切な親に違いありません」
「……名前も知らない親を、存在すら覚えていないだろう親を、どうして大切だと思えるんだい」
「たとえ覚えていなくても、彼方様は奏様と唯一血の繋がった_____」
「もう手遅れなんだよ」
冷たい声だった。
奏は美しい顔に固い笑みを貼り付け、竜を見下ろす。
「もう手遅れなんだ。私はあの子を産んでしまった時点で良い親ではいられなくなった。私は最低な親だ。自分の身の安全のために子供を産み、そしてこれからもそれを続ける。こんな最低な私が、どんな顔をしてあの子に会いに行けば良いっていうんだい」
あまりの冷たい声に竜は体を硬らせた。震える手から膳が落ち、皿が激しい音を立てて割れる。
その音に奏は我に返ってみるみるうちに顔を青くさせた。
ああっ、と、言葉にならない音を発して息を飲む。
部屋は静まり返った。
竜は拳を握りしめ、落ちそうになる涙を堪えながら割れた皿を睨みつけていた。
心に怒りが沸き起こる。それは"奏に酷いことを言わせてしまった"自分に対する怒りだった。
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