水精の森

霧嶋めぐる

彼方


 昔、西の国に商業の栄えた街があった。

 その街に足を踏み入れれば、門から真っ直ぐに進む道に沿って、数々の露店が立ち並び、かなりの賑わいを見せている。

 日々多くの行商人が街を行き交い、街行く者全てが、身分に関わらず裕福な身なりをしている。そんな街だった。


 西の国には、最も偉大な商人として名を馳せる人物がいた。

 この街で彼の名前を知らない者はいない。その男はたった数年でこの街一番の商人となるほどのやり手と言われ、街の正面に大きな屋敷を構えられるだけの財を持っていた。

 歳は40半ば。白髪混じりの髭を伸ばし、恰幅の良い体型をしている。

 屋敷には常に多くの人々が行き交っていた。行商人やこの地域の領主、はたまた遠方の役人すらも彼の元を訪れる。その逆もまた然り。彼は度々屋敷を留守にした。男は人々から「大旦那様」と呼ばれ親しまれていた。


 実はこの街はつい数年ほど前まではそれほど栄えた街ではなく、人々も困窮とまではいかずも慎ましい生活を送っていた。大都市からはなれたところに位置するこの街は商いをするには不向きな場所だった。それが、大旦那はたった数年でこの街を西の国では一番の商業地に変えてしまったのだ。

 人々の往来が増えれば仕事の機会もまた増える。

 この街に住むあらゆる人々は大旦那のおかげで仕事を増やし栄えることができた。だからこの街の人々は大旦那に感謝をして生活をしている。たとえ見目が麗しくなかろうと醜い体型をしていようと、彼の元には絶えず人が集まる。街の住人にとって大旦那は英雄とも呼べる偉大な人物だった。


 そんな大旦那は何を商いにしていたのかといえば、それは人身売買、つまり奴隷を流通させる仕事を主に行っていた。

 彼の屋敷には数百人ともいえる奴隷が住み、売られる時を待っている。女や子供は一時的に屋敷に住まうことはあれ大抵はすぐに売られていく。だから屋敷に住まうのは年齢を問わず男ばかりで、彼らは日々屋敷の雑務を行い、外に出る時をただ待ち続けていた。

 仕事の出来は将来に左右する。

 より裕福な家に売られることを夢見て、人々は仕事に励み大旦那に隷従した。

 仲間が売られていくのを見ながら、奴隷は噂話をする。あの男は仕事ができなかったからきっと今頃酷い領主の元で働いているに違いない。あの女は見目は悪いが要領が良いから、それなりに良いところに拾われているだろう、と。

 奴隷は数々の噂話で生活の苦しみを紛らわしていった。

 

 そんな奴隷の間で仕切りに噂にされる人物がいる。

 大旦那の妾の"奏"と、その息子の"彼方"。彼らは人の前に姿を現さないが、それでも噂話が堪えることはない。それは、2人が同じ奴隷という身分でありながら、大旦那に特別な処遇を与えられているためだった。



***


 大旦那の屋敷の地下には牢屋がある。

 およそ数十人ほどの人物を収容できるその監獄に、今入っている人物はたった1人だった。

 銀糸のような輝く髪を持ち、冬の湖のような透き通った瞳を持つ4歳の少年。

 歳相応の滑らかでふくよかな肌を持っている彼の身なりはそれほど悪くない。しかし、彼の首筋には、彼が商品であることを示す焼印が痛々しく記されている。

 牢屋の中で1人で暮らしている幼くも身なりの良い奴隷の姿は、恐らく人に異様な印象を与えるだろう。

 少年は"彼方"という名前を持っていた。

 いつ名付けられたのかはわからない。気がついた頃には彼方という名前が自分のものであると認識し、地下牢で日々を孤独に過ごしていた。

 自分に名前をつけてくれた人の記憶はない。地下牢での生活も彼にとっては当たり前のことで、1人になった時の胸に穴が空いたような感情の名前が寂しさであることを彼は知らない。


 彼はずっと孤独だった。日々を、立ち上がることも困難な狭さの牢屋で過ごす。本も読めず、遊び道具もない。

 彼方にとって唯一の娯楽は、1日に一度訪れる食事の時間だけだった。彼はそれを心の拠りどころにしていた。そのため寝る時以外は殆どの時間を、牢屋の入り口のそばで、地上へと続く階段を眺めて過ごしていた。


 時間の感覚はない。朝に日が昇り夜に日が沈むということを彼方は知らない。1日という概念すらも曖昧で、彼にとって生活というのは"1人の時" "2人の時"の2通りの区別しかない。だからこそ、退屈な時間をただ待って過ごすことが出来るのかもしれなかった。彼にとってはそれが当たり前だったから。


 夕方。階段を降りる靴の足音が牢屋に反響する。格子のそばで転寝をしていた彼方はその音に目を覚まし、じっと入り口を見つめていた。

 やがて、薄ぼんやりと丸い形の明かりが地下へと降りてくる。明かりはゆっくりとした足取りで、彼方の元へと現れる。

 明かりの正体は、1人の少年だった。

 彼の名前は"竜"。屋敷内で暮らす奴隷の中では最年少の9歳であり、歳の近い彼方の食事係を任されている。彼方にとって唯一の話相手だ。

「りゅう兄!」

 少年らしい曖昧な滑舌で、しかし溌剌とした声が地下に響き渡る。

 竜は彼方から"りゅう兄"というあだ名で親しまれていたが、幼い子供の発音では、それは"いうにい"と言っているように聞こえる。最初はその"いうにい"という奇妙な呼び名をそれとなく咎めていた竜も、いつしか慣れきっていた。

「彼方様。お元気そうで何よりです」

 竜はそう答えながら、格子の隙間から食事を入れる。その腕は彼方とは対照的に肉付きが薄く骨張っている。

 彼方は竜の手から皿を取ると、口に含んだ。そして口にものが入ったまま、モゴモゴと何かを言おうとする。それを竜が諫める。

「喋るなら飲み込んでからにしてくださいね」

 竜は水の入った器を入れ、彼方はそれを受け取った。一息に飲み込み、口の中のものが全て喉奥へ流し込まれると一息ついて竜を見つめた。その瞳は暗闇の中でも一際輝いて見える。

「りゅう兄、あのね、今日ね、りゅう兄の夢見た」

「どんな夢ですか」

「りゅう兄と一緒に、ここで遊ぶの。ずっとお喋りして、一緒に寝て、ずっとりゅう兄が一緒にいてくれるの」

 竜は彼方の言葉に何度も相槌を打った。彼方を見る目線はとても優しく、それでいてどことなく見下ろすような目線をしていた。


 竜は彼方に同情している。そして哀れんでいる。

 同じ奴隷でありながら、その生まれのせいでこれから過酷な運命にあるだろう幼い子供にどのように接すれば良いのか、竜は出会った頃からずっと分からずにいた。

 歳の近い友人とも言える子供は、あと幾年か経てば大旦那の手によって売り捌かれる。彼方1人の存在によってどれだけの金が動くのか、当の本人は知らない。知らない方が幸せなのか、それとも教えてやるべきなのか。

 竜は結局、彼方に真実を教えてやることはなかった。彼方が傷つくことよりも、自分が傷つく方が怖かったからだ。その真実を話すことで、良心の呵責に苛まれるのを竜は拒んだ。だから知らないふりをした。


 彼方には父親が2人いた。この屋敷の主人である大旦那とその妾の“奏”だ。奏は銀色の艶やかな髪を持ち灰色に近い水色の瞳を持つ美しい男だった。彼は女性と見紛うほどの美貌を持ち、そして女性のように男との間に子供を作ることができた。

 奏には、そして彼方には、普通の人にはない特殊な力を持っている。

 "水"の妖"精"と書いて"水精(みなせ)"と読む。その力は読んで字の如く、水にまつわるものだ。

 彼らは思うがままに天候を操ることができた。正しくは、雨を降らせることができた。

 その力を喉から手が出るほど欲しがっている者が国中にはいた。大旦那はそこで水精に目をつけ、彼らを売ることで巨額の富を得たのだ。

 そのため、彼が大富豪となれたのは水精のおかげと言って過言ではないだろう。


 水精は普通の人間とは違って男同士で子供を産むことができる。そしてまた、その子供も水精の力を持って生まれる。

 大旦那が奏を妾にしたのは正に、この子供を産むためだった。子供を作り育てることで財産を築きあげようとしているのだ。


 彼方は大旦那と奏の間に生まれた第一子で、もうじき"年頃"となる。

 その時になって彼はようやくこの狭い牢屋から外へ出るのだろう。しかし待ち受けているのは自由ではない。

 水精として使われる奴隷人生を送るか、死ぬまで子供を産み続けることになるか。この2択だ。


 竜が彼方に出会ったのはもう2年前の、彼方が乳母の手をはなれ牢屋に入れられた日のことだった。

 牢屋の中に佇む幼子を見た瞬間、竜は彼方の運命を悟ってしまった。

 あまりに彼が父親に似た美しい容姿をしていたからだ。

 せめて大旦那に似ていれば未来は変わったかもしれない。しかし、彼は生まれたその瞬間から運命を決定づけられてしまった。

 間違いなく売られた先で父親と同じ道を辿るのだろう。

 資産家に買われ彼の財産を生み出し続ける。死ぬまでその繰り返し。そういう未来に違いない。

 竜は彼方に同情した。可哀想だと思った。

 しかし奴隷である竜には、彼方を助けてやる手立てはない。売りに出されるその時まで、ただ彼の話し相手になることしかできない。


 彼方は食事をゆっくりと食べていたが、ついに皿の上のものは全て片付けられてしまう。

 その皿を取り、竜は明かりを手に立ち上がった。

 別れの合図だ。

「りゅう兄。やだ、行かないで、もっとお喋りしよう」

 彼方が格子の隙間から手を伸ばして懇願するも、竜はその手を見ない振りをした。

「彼方様。何ももう戻ってこないわけじゃありません。明日になればまた来ますよ」

「本当に? また来る? 彼方とお喋りしてくれる?」

「はい。約束です」

 竜は階段を上る。背中に突き刺さるような視線を受けながら、それに気がつかない振りをした。


 地上に戻る。

 窓から外を見れば、夕方の辺りを赤く燃やすような赤色の空は既になく、かといって星空が夜空を彩ることもなかった。

 空は辺り一面を厚い雲に覆われている。

 今にも雨が降りそうだ。


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