第10話

 結論から言うと、クライヴの言うことは正しかった。

 二匹の獣がこと切れた場所から、おそらく大した距離は歩いていない。初めこそ気分が悪くなったりもしていたリュカだったが、すでに体が慣れたのか、クライヴと同じ速さで進めるようになっていたせいもある。


 歩き始めてから少しばかり経った頃、クライヴが不意に足を止めた。険しい表情で、辺りを見回している。その理由はすぐにわかった。


 「――なんだ、この――」


 上手い表現が思いつかない。強いて言うなら、肉が焼けるような、はたまた何かが腐るような。そんな臭いが辺りに立ち込めている。


 「頼む」

 「ちょっと待て、おい!」


 リュカが止める間もなく、彼はナギを渡して走り去ってしまった。何とか両手でナギの体を受け止めて、リュカはため息を吐く。ぴくりと彼女の体が動いた。


 「大丈夫か?」

 「……なん、とか。とりあえ、ず、命に、かかわるような……毒でも、なさそうだ」


 唇をゆっくり、そして細かく振るわせながらナギは言う。無理すんなと宥めつつ、ナギを両手で抱え上げた。


 「暴れんなよ。俺はあいつみたいに片腕じゃお前を持ち上げらんねぇんだから」

 「うう……」


 ひざの裏と背中に自身の腕を添え、ナギの体を支える。

 そのまま、ひどい臭いの中をかき分けるようにしてクライヴを追った。リュカは何も言わない。ナギもまた黙ったままだったが、二人の頭の中ではおそらく同じことを想像していた。


 それほど移動したわけではない。ないが、突然目の前が開けた。木々が刈り取られ、人が暮らしていただろう形跡があちらこちらにある空間に出る。


 「これも結界とやらのせいか?」

 「その、はずだが……弱って、いる……」


 とぎれとぎれにナギがつぶやいた。

 小さな畑と、家畜小屋。木を組んで作ったのだろう、家が数軒。中心部には、祭事ででも使われるのだろうか、櫓が組んである。


 問題なのは、生きている誰かの姿がないことだ。一通り見渡して、リュカは眉をしかめた。臭いの原因が、そこかしこに転がっている。

 足や腕が無残に食いちぎられた後のある、人だったもの。腹を破られている家畜が数頭。ある場所では焼けただれた体が力なく横たわり、またある場所では貫通した矢が喉と木を縫いとめている。

 ただ、黙って殺されたわけではない。応戦したのだろう、正面から切り付けられた跡がある者もいた。


 腕の中のナギをちらりと見るが、彼女はむしろ静かな様子で自身が育った場所の惨状を見つめている。かける言葉は見つかりそうになかった。


 「こっちだ」


 またもいつの間にか近寄ってきていたクライヴの声に驚きながらも、リュカは言われた通りの方向へ向かう。彼が指したのは、さらに奥の方だ。

 細いながらも人の手が入っているのがわかる道を進む。飄々として見えるクライヴの背中が、少し焦っているように感じた。


 やがて一軒の家の前で、クライヴが足を止める。他の家よりも明らかに大きく、装飾がなされていた。それを目にした瞬間、ナギの体がこわばるのがわかる。


 「大丈夫だ」


 扉を開けたクライヴに促され、リュカはナギを抱えたままその家に足を踏み入れた。

 中は薄暗い。簡素な敷物が二枚、その片方に誰かが座っている。


 「婆様……」


 ナギが声を絞り出した。


 『そこな敷物の上に寝かせておやり』


 しわがれた声が聞こえる。反射的に奥に座った人物を見るが、逆光と深くかぶったフードのせいで黒い塊にしか見えない。

 とりあえず言われた通り、もう片方の敷物の上にナギの体を横たえた。


 『ああ、これなら大丈夫。右の棚の上から三番目、左から五番目の瓶の中身を飲ませておあげ』

 「わかった」


 答えて立ち上がると、クライヴが軽く首をかしげているのが見える。

 声の通り、青みがかった瓶を取ると、ナギの上半身を起こした、少しだけよくなったように見える顔色に、ひとまずほっと胸をなでおろす。

 そして、瓶の口を開けると彼女に手渡した。おぼつかない動きではあるものの、ゆっくりとそれを飲み下す。


 『少し休めば毒も抜けるじゃろうて。さて、それまで少しばかり話をしようかねぇ、若いの』


 声は何故か少し嬉しそうに聞こえた。

 息を吐いて、リュカは再びナギの体を横たえるとその場に腰を下ろす。どっかり、といった表現が一番しっくりくる仕草だ。


 「話、ねぇ。じゃあまず、あんたが何者でここが何で、いったい何があったのかを聞かせてもらいたいもんだな」

 『ほうほう。よかろう』


 クライヴは相変わらず扉の近くに立っている。外を警戒しているようだった。


 『儂はタエという。タエ・アマヤ。そこな娘をはじめ、里の者には婆様と呼ばれることが多いかのう?ごらんのとおり、しわくちゃの婆じゃて』

 「なら、俺もそれに倣うことにしよう。リュカ・デジレ・アッシュだ、よろしく婆様」

 『ほっほっほ』


 声が笑う。


 『して、ここはどこかと言うておったかのう?察しておるのではないかえ』

 「じゃあやっぱり……」

 『左様。ようこそ、マガツの里へ。ようこそと歓迎できるような状況でもないがの』


 はあ、とため息というよりは、胸の圧迫感を逃がすようにリュカは何度か息を吐いた。


 「そうか、マガツと言うんだな。で、ここで何があった?」

 『――獣が入り込んできてな』


 リュカの脳内に、あの二匹が浮かぶ。


 『太刀打ちできんかった、それだけのことじゃ』

 「なあ、婆様。聞いてもいいか」

 『儂はそのためにここにおる。聞くがよかろう』


 こちらのことなどお見通しなのだろう。そう考え、リュカは苦笑した。ここは、タエの言葉に甘えることにする。


 「その入り込んだ獣だが、ここ。額に宝石はあったか?」

 『呼応石じゃな』


 自身の額を親指で触れながら問うと、あっさり答えが返ってきた。だが、その耳慣れない単語に眉をひそめる。


 「呼応石?」

 『古代魔術をご存じかね?』


 突然水をあけられた気がして鼻白んだ。しかし老婆は大して気に留めた様子もなく、さもありなんとつぶやく。


 『今は失われし禁忌の術。それが古代魔術じゃ。今日に至るまで、ごく少数の者に口でのみ伝えられるという』

 「聞いたことはある。聞いただけだが」

 『おぬしはすでに目にしておる。その額の石、それを作る術こそ古代魔術じゃよ』


 言われ、リュカは少し考え込んだ。


 「古代魔術、ねえ。で、その呼応石?とやら、何のためのもんなんだ?」

 『まず、取り付けた相手を意のままに動かすことができる。くわえて、身体能力の向上じゃな。ある程度の知能を持った相手には取り付けることも難しいが、まあ獣相手ならば可能じゃろうて』

 「……それはあれか、対象が死んでても動かせるってことか」

 『そうじゃの』


 タエの肯定に、嫌な考えが頭をよぎる。

 それでも聞いておかないといけないだろうと、リュカは姿勢を正した。


 「俺はあの獣たちと会った」

 『ほうほう』


 別段何の感情もなさそうにタエは言う。


 「一匹はクライヴが仕留めた。このあたり、こめかみに太い矢がだいたいこのぐらい刺さっていた。でかい獣だったが、まあ間違いなく脳みそまで達していただろう」


 腕組みをして、扉のすぐ横にある小さな窓から外を見ていたクライヴが振り返った。


 「いい腕してる。的はでかいが、でかいだけに致命傷は確実につかなければならない一点になるしな」

 「そりゃどーも」


 おどけた振りをして一言。それだけ言って、また窓の外に視線を戻す。


 「で、だ。明らかに頭を打たれた獣がだな、立ち上がってぶん殴ってきやがった」

 『ほう?』

 「つまり、あのでかい獣はその呼応石とやらで操られてたんだな?」

 『そうじゃの』


 ちらりとクライヴを見た。彼は口を挟まないことに決めたようだ。

 目の前で横たわるナギは、いつの間にか寝入っているらしいが、規則正しく呼吸をしている。薬が効いているようだった。


 「呼応石がひっついた獣は二匹いた。でかいのと細いの」

 『里を襲ったものと同じようじゃの』

 「俺は両方と対峙した。そして、妙な声が聞こえた」

 『妙な声じゃと?』

 「ああ、婆様。今あんたがやってるようなことだよ」


 部屋の中に緊張が走る。ぴしりと空気が軋む音がした気がした。

 長く感じる数秒の後、面白そうにタエは笑う。


 『ほっほっほ。気づいておられたか』

 「途中からな。変だとは思ったんだ」


 軽く頭を掻いて、リュカが答えた。


 「クライヴにはあんたの声が聞こえてないみたいだったし。ナギだってそうだろ」

 『どうかの?案外聞こえないふりかもしれんぞ?』

 「何の必要があるんだよ。聞こえてたらすぐ近くにある棚の薬ぐらい先に取ると思ってるんだがね、俺としては」


 首を動かしてクライヴを見る。相変わらずタエの声は聞こえていないようで、彼は自分を見るリュカに対し軽く首をかしげた。


 「少なくとも俺よりナギとの付き合いは長いんだ。俺が見たって保護者みたいなのに、あんたの指示が聞こえてんなら俺より早く動くだろうさ」

 『ほっほっほ』


 タエの笑い声が響く。目の前のフードが少しだけ揺らいだ気がした。


 「言っといてなんだが、聞こえてようがいまいがどうでもいいんだ。俺が聞きたいのは別のことだから」

 『それは、妙な声のことじゃろう?間違いなく、儂と同じように直接語りかけてきたのじゃろうな』

 「獣がかよ」

 『いいや、呼応石がよ』


 ぴくりと指先が跳ねる。平静を装おうとしたが、少しばかり失敗したようだ。


 「石がだと?」

 『さよう』


 おそらく、タエはこちらの言いたいことを察したのだろう。あまり気分のいい話ではないぞと前置きして続ける。


 『呼応石を作る。それは古代魔術の一旦じゃが、おぬし、古代魔術がどうして失われたか知っておるかえ?』

 「……知らん。よっぽど素養のある奴にしか使えなくて、使える奴がいないとか?」

 『ある意味、そうではある。その素養とは、人を人とも思わぬ心じゃて』

 「はあ?」


 顔中に疑問符を浮かべたリュカの口から、思わず変な声が出た。


 『呼応石の材料は、人じゃからの』

 「……人?」


 タエと同じ言葉を繰り返す。その言葉を何度か咀嚼して、言っていることが理解できた瞬間顔色が変わった。


 「じゃあ、あれは……」

 『さよう。おぬしに聞こえた声、それが呼応石にされる前の人間の声じゃろう。手法を詳しく聞きたいかえ?』

 「――遠慮する」

 『懸命じゃて』


 正直、どう考えても吐き気がしそうな手法だということは想像がつく。

 タエは『呼応石にされる』と言った。その意味を考えながら、リュカは息を吐く。


 「あの石一個作るのに、人間がひとり必要ってことか」

 『そうじゃの。人ひとりの命と、呼応石ひとつが引き換えじゃ。だからか、もとの人間の意識が残ることもあるらしいの』

 「石をくっつけられて、操られた側を解放するには石を壊すでいいんだよな?」


 今更違うと言われても困るが、その心配は杞憂だった。ああ、とタエは肯定する。


 『そしてそれは、呼応石にされたものを解放するということでもあるのじゃて』

 「……そうか」


 あの時聞こえた声を思い出し、リュカは視線を落とした。

 あの兄弟はちゃんと眠ることができたんだろうか、と思いながらも、それを確かめる術もない。今はただ、そうであることを祈るばかりだ。


 『聞きたいことはそれだけかえ?』

 「――いや。もうひとつふたつ頼むよ婆様」

 『ほっほ。儂に男の孫はおらんが、おぬしのようなものにそう呼ばれるのも悪くないのう』


 茶化すようにタエは笑う。それに少し救われて、リュカは再度口を開いた。


 「里を襲った獣――どこからきた?」

 『ふむ。おそらく東のほう、川の向こうじゃろう』

 「クライヴ」


 今度は体ごとそちらに向ける。


 「里の東側に川があるか?」

 「ああ、あるね」

 「その向こうは何がある?」


 問われ、クライヴは一瞬言葉に詰まった。本当にわからず聞いているのか、わかっていながら聞いているのか判断ができなかったからだ。

 しかしその迷いも一瞬で、彼は肩をすくめて言う。


 「ヴール。サイユの森の中じゃ、実質川が国境みたいなもんだからね」

 「……なるほど。行く価値はありそうだな」

 「マジで言ってる?」

 「ここまで来て、里はなくなってましたーどうやらヴールの仕業みたいですーって帰ったところで何にもならねぇ」


 商工会がそんな報告で納得するとも思えないし、そうなればまた何かと難癖をつけられるだけだ。それは避けたい、とリュカは思っていた。脳裏に兄や父、ついでに幼馴染の顔がよぎる。


 「お前らはここでおしまいでいいのかよ。里が襲われた理由もわからねぇし、今度また違う里で同じことが起きるかもしれない」

 「――そうだな」


 声は床からした。

 目を閉じていたナギが、ゆっくりと体を起こしている。大丈夫なのかと目で問うと、彼女は薄く笑った。


 「問題ない。ある程度の毒には慣れている」

 「珍しい毒だって言ってたぜ」

 「確かに。だが、婆様の薬なら間違いないし、命に別状はない」


 不意に、リュカはあのとき聞こえた声を思い出す。人の心というものは、どこまで存在するのだろうか。そしてそれが、少しなりとも体――呼応石のつけられた獣に、作用するとしたら。

 そこまで考えて、静かに頭を振った。意味のない推測だ。


 「大丈夫ならいいけどよ」


 言って、再度タエのほうに向き直る。体を起こしたナギは、ゆっくりと場所を移動した。リュカの斜め後ろ、クライヴとの間あたりだ。


 「どうせヴールの『砦』も探さなきゃなんねーんだ。関所が通れないなら、国境越えするしかないだろ」

 「わたしも行く。他の里のためにも」


 ふ、と笑ってナギは言った。肩越しに振り返ってクライヴを見て、もう一度笑う。


 「お前はどうする?」

 「……お前ね、それ俺が断らないってわかっててやってない?」

 「知るか」

 「へいへい、行きますよ。俺のことが必要になるときもあるかもしれないしね」


 言いながら背負い袋を揺らした。中でがしゃんと音がする。


 「つうわけで、婆様。東側の川を越えた先、ヴールの砦の存在を聞いたことがあったら教えてほしい」 

 『ほっほっほ』


 タエはまた、面白そうに笑った。少し嬉しそうにも聞こえた。

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