第9話

 

 同時に感じたのは彼女のものではない殺気だった。しかし、すでに二人とも木からは飛び降りてしまっている。地面に着く、ほんの数秒にできることは何もない。

 結局ナギが何かの衝撃で吹き飛ぶまで、目の前の光景を見ていることしかできなかった。


 やけに長く感じた、地に足が着くまでの時間。それが終わると即座に地面を蹴り、走る。彼女が吹き飛ばされた先は幸い厚い草の上だ。


 「ナギ!」


 名を呼んでみるが返事はない。それでもこちらに背を向けた状態でぐったりと横たわった体は、肩が荒く上下し、息をしていることを教えてくれていた。

 機械弓を小さく戻しながら、クライヴが先に駆け寄る。二人を背にする形で、リュカは腰の剣を抜いた。そうして、ナギを吹き飛ばした相手とようやく対峙する。


 先ほどの獣によく似ていた。だが、大きさはこちらの方が小さい。足や体は細く、独特の斑点模様がある。

 口からはやはり牙が見え隠れし、二つの獰猛な瞳の間には紫色の石が光を反射していた。


 「またかよ!」


 怒鳴ってみるも、それを獣が理解するはずもない。片方の前足で軽く地面を蹴るしぐさは、今にもとびかかってきそうだ。

 正面の獣を睨み付けながら、半歩後退する。


 「クライヴ、ナギは?」

 「傷は大したことなさそうだが……まずいな、毒だ。それもおそらく珍しい類の」

 「なら、担いで下がれ」


 有無を言わせない響きのある声に、多少戸惑いながらも頷いた。

 先ほど小さくした機械弓を片手に持ち、もう片方の腕でナギを抱え上げる。彼女が小柄とはいえ、なかなかの腕力が必要なはずだ。


 「人ってのは、見かけによらねぇな」

 「そのまま返しとくよ」


 軽口を言い合いながらも、漂う緊張に汗が浮いた。

 額に浮いたその汗が、頬を伝って顎から落ちる。聞こえるはずのない、雫が地面を打つ音が聞こえた気がした。

 同時に、リュカは大きく後ろへ跳ぶ。今まで彼のいた場所を、一蹴りで一気に距離を縮めた獣の爪が薙いだ。背中側にいた二人がすでにいないことを確認して、今度は右側へ走る。


 「グルアアァアッ!」


 咆哮が響いた。異様な速さで切り返し、リュカめがけて突っ込んでくる。


 ガキィイイイィン!


 金属がぶつかり合うような音がした。獣の爪を、リュカが剣で受け止めた音だ。


 「どんな爪だよ!鉄か!」


 思わず叫びながら、受け止めた前足を上へ弾く。ぐらりと獣の体が揺れて、バランスを崩した。

 短く息を吐き、一歩踏み込む。大きくふるった剣が、獣の腹を切り裂いた。しかし、体の中までは届いていない。剛毛に覆われた皮膚一枚、何とか切っただけだ。

 それでも、獣は慌ててリュカから距離を取った。風向きのせいで、血の匂いがその場に流れる。

 獣の息は荒い。ならばとリュカは前に出た。相手ほどではないが、速さにはそれなりに自信がある。

 そして、再度剣を振ろうとして――気づいた時彼は、地面に転がっていた。


 何が起きたのか、理解するまでには間が必要だった。突然薄暗くなった視界が、何かの影によるものだということにもしばらく気づけなかった。


 「グルアァッ!」


 幸い、叫ぶ獣の声で我に返る。とっさに体を起こし背後を振り向くと、そこにはこめかみを太い矢で打ち抜かれたままの巨大な獣が仁王立ちしていた。


 「はぁ!?」


 思わず声が出る。大小二匹の獣に挟まれて、リュカはかつてないほど脳を働かせた。

 まず、今正面にいる巨大な方の獣、これはどう見てもすでにこと切れている。目は濁り、片方など白い部分しか見えていない。開いたままの口からはもはや唾液も出ておらず、力なく垂れさがった舌が見えるだけだ。


 改めて刺さったままの矢を見れば、突き出た長さから推測すると獣の脳には確実に達しているだろう。だが、今しがたこいつに弾き飛ばされ、倒されたことは理解できる。おそらく背後から、その太い前足で。

 どういうことだとクライヴを探してみるが、すでに姿はない。うまく隠れたのか、それとも自分が罠にでもかけられたのか。たぶん前者だろうとは思うものの、あまり気持ちのいいものでもなかった。


 「おとなしく死んどけっつーの……」


 ぼやきながら、生きていたときよりもさらに緩慢な動きになった獣の後ろ脚側に回り込む。そのまま二本の後ろ足の腱を切ると、巨大な獣は地響きを立てて倒れこんだ。


 「グルルルルァ……」


 それでも立ち上がろうともがく。

 すると何を思ったのか、もう一匹の獣――細く小さい方の獣が、倒れた方に歩み寄った。


 「クルァア」

 「グルルルルァ……」


 互いに何か言い合っているように聞こえる。それはほんの少しの、短い間だった。

 二匹の獣は、額に埋め込まれている石を近づけあう。すると石は一瞬まばゆく光り、辺りを照らした。


 『……らせて』

 「はあ?」


 声は直接リュカの頭の中に響く。まだ少年といって差し支えないような、幼さの残る声だ。


 『もう、僕たちを……眠らせてください』

 「誰だお前」

 『石を……額の石を』


 わりと一方的な物言いに、リュカの眉間に皺が寄る。


 『ごめんなさい。僕たちを……僕たち兄弟を、どうか』

 「……わかったよ。石だな、壊すぞ」

 『――はい』


 ため息を吐いて、獣たちに近づいた。先ほどまでの殺意も、威嚇も何もない。

 リュカはまず、巨大な獣の石を剣先で叩き割った。グル、という短いうなり声を残し、今度こそ絶命する。


 「いいんだな」

 『ありがとうございます』


 もう一匹の方に向き直って言うと、そちらは行儀よく座って目を閉じていた。頭をゆっくりと下げ、差し出される形になったその額に光る石を、こちらも同じように叩き割る。


 ――パリィイィィン。


 澄んだ高い音とともに、紫色の石は砕け散り――獣もまた、そのまま倒れこんだ。


 「――行こう」


 しばらくその場に立ち尽くしていたリュカに、どこから現れたのかクライヴが声をかける。じろりと睨み付けると、彼は片腕で抱えたナギに視線をやった。


 「街に戻るより、里に行った方が早い。たぶん解毒剤もあるだろうし」

 「……わかった」


 いろいろと問いかけたいとあからさまに表情に出しながらも、リュカは頷く。そんな彼を見て、クライヴは小さく頭を振った。


 「俺もよく知らない。聞きたいことがあるなら、里の誰かに聞いた方がいい――誰かいれば、だけどな」

 「そうさせてもらう。胸糞悪ぃ」


 吐き捨てるように言って、リュカは抜いたままだった剣を鞘へと納める。

 そしてクライヴの先導で、再び彼らの里を目指すのだった。





 ヴール王国第六曜将軍、エーヴァルト・フォン・シュトラウスは苦悩していた。


 たかだか地方貴族の嫡男だった自分が、王家直属ともいえる第六曜軍に所属できているだけでも御の字だというのに。あれよあれよという間に、その最高責任者になってしまった。

 権力が欲しかったわけではない。ただ、飢えずに済み、地方で暮らす家族へ仕送りができればそれでよかった。それが、自分の才を認め、首都にある学院で学ばせてくれた両親や兄弟、祖父母への恩返しになると思っただけだ。

 だから、軍に入った。第七曜軍以外の隊ならば、前線に出ていくこともそうそうない。何より、毎月一定の給料を得ることができ、自分自身は王都にある宿舎で寝泊まりできる環境だったからだ。


 「こんなはずでは……」


 薄暗い廊下でひとりごちる。誰も聞いていないことをさっと確認しつつ、彼はまた深くため息をついた。肩下あたりまで伸びた、淡い色の髪が揺れる。


 彼は今、とある砦にいた。

 あまり大きいものではない。一個隊を入れておけばそれでいっぱいになってしまうほどの大きさしかなく、実際ここにいるのはエーヴァルトの率いる第六曜軍すべてではなかった。半分ほどの人数しか連れてきていない。

 重いブーツを引きずるように歩く。いったいあと何度、こんな思いをすればいいのだろうか。

 とある部屋の前で足を止め、エーヴァルトは深呼吸を一度した。そして、扉を叩く。


 「はい」


 返事とともに開かれた扉からは、年端もいかない少年が顔をのぞかせていた。第六曜軍の新人である。

 突然の将軍来訪に驚きを隠せないまま、少年は敬礼をした。


 「エーヴァルト様!な、何用でしょうか!」

 「ああ、そんなに固くならなくていい。その……」


 用件を口にしようとして言いよどむ。この上司にしては珍しいことだ。それを証明するように、少年が不思議そうに彼を見つめていた。

 軽く頭を振る。それから思い直し、エーヴァルトは告げた。


 「クルト・アレンツ。君の兄、ライナルト・アレンツが昨晩息を引き取った」

 「え……」


 息を飲む音が聞こえた気がする。しかし、あくまで事務的に彼は続けた。


 「遺体はこちらで王都に移送する。君も速やかに帰還を――」

 「エーヴァルト閣下」


 後ろからかけられた声に言葉が止まる。眉を限界までしかめながら、エーヴァルトは振り向いた。今、一番見たくない顔がそこにある。


 「……ギーデン殿。何か」

 「今、帰還と聞こえましたが気のせいですかな?」


 肩書としてはエーヴァルトの副官にあたる、デニス・バン・ギーデンは、細く整えてカールさせた似合わない口ひげを撫でさすりながら言った。

 五十に届こうかという年齢のやせぎすの男である。まだ三十代のエーヴァルトの下につくことがはなはだ不満であると、日頃の態度ににじみ出ていた。

 しかし、今不満を顔に出しているのはエーヴァルトの方だ。


 「いや、気のせいなどではない。ライナルト・アレンツの葬儀および遺族への連絡を、弟である彼に頼もうと――」

 「いやいやいやいや、何をおっしゃいますかな。志半ばにして、病により散った兄の分まで国のために立とうとするのが正しい国民の形ではありませんかなあ」

 「……否定はしないが、たった今兄の訃報を知った弟に言うべき言葉とも思えんな」

 「これはこれはまた妙なことをおっしゃられる」


 嫌味たらしく笑って、デニスは続けた。


 「クルト・アレンツ。君はどうするべきかわかるだろう?」

 「ぼ、僕は……その……」


 兄に似て、優しそうな少年は口ごもる。エーヴァルトが無理をしなくともいいと言おうとした時、先に副官が割り込んだ。


 「優しい兄のため、今君が立ち上がらなくてどうするのだ?例の里の奴らはまだ残っているのだよ。君の兄の名誉のため、奴らを根絶やしにするのではなかったかね?」

 「ギーデン殿、そのくらいに」

 「……僕、残ります。首都にいる両親には、知らせを届けてください」


 目じりにうっすら浮かんだ涙を乱暴にこすり、クルトは言う。


 「まさか、本人の意思をまげてまで伝令をさせるおつもりではありますまい、エーヴァルト閣下」


 してやったりと言わんばかりのデニスの表情に、こみあげてくる怒り。それを拳を作ることでエーヴァルトは何とか逃がすことに成功した。

 それでも、とクルトを見る。しかし、少年の目に迷いはなかった。

 気づかれないよう息を吐いて、エーヴァルトは彼に向き直る。


 「わかった。ご家族へは連絡を入れておこう。だが、くれぐれも無理はせずに体をいとえよ」

 「お心遣い、痛み入ります。エーヴァルト様」


 そう言って、敬礼と共にクルトは無理やり微笑んだ。

 一礼を残し、扉が閉められる。同時に聞こえた嗚咽は、勘違いではないだろう。だが、かける言葉もなくエーヴァルトはその場を立ち去った。


 「困りますなあ、閣下」


 それでもついてくるデニスに、あからさまな早足になる。


 「材料を減らされては、計画に支障が出ますよ」


 早く動かしていた足が止まった。機械仕掛けのような動きで首をぎこちなく動かし、信じられないものを見るように自身の副官を見る。


 「本気で言っているのか」

 「はて。何か問題でも?彼らは我が王国の礎となるのです、本望でしょうに」

 「本望であってたまるか!」


 握りしめたままだった拳で壁を叩くと、心底見下したようにデニスは言った。


 「今更何を言っておられるのです?閣下、我らはいわばすでに共犯なのですよ。ご自分だけ清廉潔白であろうとするなど、滑稽の極み」

 「……あなたと一緒になどされたくはない」

 「おや奇遇ですねえ。わたしもですよ」


 最後は吐き捨てるように言って、副官はさっさと先に歩き出す。

 しばらくぼんやりとそれを見てから、エーヴァルトはその場に座り込んだ。


 「共犯、か……ならば、どうするべきなのだ……俺は、どうすればよかったのだ」


 ひとり、苦悩の声は床に落ちていく。


 「……すまない……ライナルト……」


 たとえ届かぬ謝罪だとわかっていても、たとえそれが自身のためだったとしても。それ以外の言葉を発することなど、今のエーヴァルトにはできそうもない。

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