第8話
「……で、クライヴ。なんなんだよ、お前のその大荷物」
翌日。宿まで二人を迎えに行った際、リュカが最初に発した言葉だ。
リュカ自身もそうだが、ナギも軽装である。二人とも愛用の剣と、ごく少量の手荷物――保存食を少しと水袋だけを持っている中、クライヴは一人大きな布袋を背負っていた。
頭の後ろから腰まであるその袋は、しっかりと膨れ上がっている。彼はその荷物を、けして手放そうとはしない。
「まあまあ、そのうち使うから。たぶん」
「本当だろうな」
半分は純粋な好奇心であり、半分は訝っている。はぐらかしているだけなのかどうか、クライヴの表情からは読み取れない。
「……先に行くぞ」
呆れた声音のナギが、するりと街道を外れる。顔に出してはいないが、少し焦っているのがよくわかった。小走りで、二人もその背中を追う。
「里はここから遠いのか?」
「半日もかからない。順調にいけば、だがな」
言いながら、気配と足音を消し始めた。さすがだな、と感心する。
「わたしが先行する。合図したら距離を詰めろ」
街道を外れて少し行くと、木々が徐々に近づいてきた。その入り口で、足元を何度か確認した後軽く腕を振る。それが合図ということらしい。頷くクライヴに、リュカも続いた。
「俺が言うのもなんなんだけどさ」
「なんだよ」
ナギの背中を追いながら、男二人は顔を見合わせる。
「いや、よくついてきたなぁと思って」
「お前がいい仕事してくれやがったからな」
「どうもどうも。信頼と実績のクライヴです」
ふざけた言い回しながら、目には感謝の色が宿っていた。苦笑して、リュカは続ける。
「一応、俺なりにあの後調べてはみたんだよ」
「結果は?」
「なんもなし。里のことはもちろん、ヴールの挙動に関してもイリャルギ方面の話しか入ってきやしねぇ。サイユの森のことなんてそれこそさっぱりだ。聞けたのは、年に何人か森に入って行方不明ってことぐらいだな」
「一時的に、でしょ」
笑ってクライヴが答えた。その通りだった。行方不明になった住人は、決まって数日後ちゃんと帰ってくるのだそうだ。しかし、リュカの聞いた『最近の話』は少し様相が異なっていた。
「最近は帰ってこない奴がいるらしい」
笑っていたクライヴの顔がこわばる。それから、否定するように首を横に振った。
ちょうどそこでナギの合図が入る。頷きを返し、先へと歩を進めた。
「解ってるっつの。今までちゃんと戻してただろう里が、ここ最近急に方向転換したなんて思っちゃいねぇよ」
「――ありがと」
礼を言われるほどのことでもない。ひらりと手を振って、さらに続ける。
「そっち方面から攻めてはみたんだけどな、さっぱりわかんねぇ。ヴールの連中が何かやってんのか、他の隠れ里が何かやってんのか。とっかかりっつーか、手がかりすらも何もなかった」
「他の里って言ってもねぇ。森の北側と西側にひとつずつあるだけだし、特に使う必要がなければ、家だの畑だのの手入れをするだけの少人数しかいないよ」
「じゃあその線もないな」
リュカが頷くと、またナギの合図があった。一応は周囲を警戒しつつ、彼女に続く。
「そういうわけだから、白か黒かどっちにしろお前らと行く方がいいと思った。それだけのことだよ」
「ふぅん」
「ま、お前らが商工会やヴールの回し者ってこともないこたないとは思ったけどさ、んなこといちいち考えてたらキリがねぇ」
「……あんた、変わってるって言われない?」
「しょっちゅう言われてる」
何故か呆れられながら言われて、リュカは笑いを返した。
「普通、いい家の坊ちゃんなんて周囲のことを片っ端から疑うもんでしょ」
「あー、もうそういうの疲れたんだよ。親父殿も兄貴も、俺がそういう思考回路ぶん投げたのわかってっし。初めは小言食らってたけど、もう諦めたみたいだな」
「それでよく騎士なんか務まるね」
「務まってねぇよ。周りに務めさせてもらってただけだ」
はあ、とクライヴが息を吐く。リュカにはわからなかったが、これは感嘆のため息だった。どうも、この名家の三男坊は他の貴族や騎士とはひと味もふた味も違うらしい。
気づけば、合図をするナギとの間が広がってしまっていた。急ぎ追いかけると、もう森の内部にいる。自分の背の三倍ほどもありそうな木々が空を覆い、草が生い茂る足元はよほど注意して見ないとわからない程度の獣道があるだけだ。
会話も何となく途切れ、同じことを何度か繰り返しながら、どのぐらい歩いただろうか。地図も何もない。ひたすらただ深い森の中をぐるぐるとさまよっているような気がしてきた。木々の隙間からこぼれる日の光で、大した時間が経っていないことだけはかろうじてわかる。
そのうち、リュカは本当に目が回ってきてしまった。木がうねり、土が歪み、立っていられなくてその場にしゃがみ込んでしまう。
「ナギ、一度休もう。リュカが限界だ」
クライヴの声。すぐ隣にいるはずのその声も、遥か遠くから響いてくるかのようだった。
かすかに草のこすれる音が聞こえる。風にそよいだ時のような、本当にかすかな音だ。
「大丈夫か?ほら、水だ」
「……わりぃ」
「気にするな。この辺りは、森の奥に迷い込んだ奴が里に入れないよう結界が張られているんだ。慣れないとどうしても酔うからさ」
リュカの荷物から取り出した水袋に、感謝しながら一口飲む。結界とやらついて詳しく聞きたかったが、ぐるぐる回る世界の中ではとてもそれどころではない。
気づけばナギも、少し離れた場所から戻ってきていた。あまり変わらない表情の中、わずかに眉が寄っている。
「ナギ」
「いいから、少し休め」
「お前、草の音も立てないよな」
怒っているわけではないと意思表示をした彼女に、リュカは予想外の言葉を重ねた。
ナギがきょとんとした顔をする。しかしそれも、本当に一瞬のことだ。
「跳べ!」
声を張り上げる。
まだ足元が若干ふらつくリュカを支えたクライヴが、まるで重さなど感じていないかのように太い木の枝に飛び乗った。肩を支えられながら視線を動かすと、ナギもまた違う木の枝へと飛び移ったようだ。
そして、それまで三人のいた場所では――彼らが見たことのない、異様な巨体をもつ四足歩行の獣がうなりをあげていた。
リュカの身長は、一般的な成人男性の平均よりも少し低い程度である。
ラインがそれより拳ひとつ分ほど高い。彼の目線辺りがリュカの頭頂部にあたる。それよりもさらにもう少し高いのがクライヴだが、ラインとそこまでの大差はないだろう。
もちろん、父――バラストに至っては、リュカと頭一つ以上違う。それに加えて、がっしりとした肩幅からなる横の体積も、十分すぎる体の厚みも、若輩のリュカとは異なっていた。
筋肉がつきにくい体であることは重々承知しているが、いつか父のような体躯になることが彼のひそかな夢であった。
そんな尊敬するバラストの、その頭の位置よりも上に顎がある獣を、リュカは知らない。
眼下でうなり声をあげているその獣の大きさは、はっきり言って異常だった。
黄色と黒がまだらに混ざり合った背中は、強くしなる剛毛で覆われている。四肢は丸太のように太く、形だけは猫のそれに似ていた。時折見え隠れする黒い爪の鋭さは、まかり間違っても猫ではなく、当たりたくないと思わせてくれる。
大きなあくびを一つした、左右に裂けた口。そこには爪同様、磨き抜かれた牙が生えそろっていた。
何より特徴的なのは、やはり猫に似た、ただし大きさは規格外の顔。その額に赤く光る宝石のようなものだ。
「なんだ……あれは……」
息を飲んだナギがつぶやく。
「クライヴは?」
リュカの声に、彼は首を横に振った。心当たりはないらしい。
「……お前ら二人が知らねぇっつーなら……どうやらここらの特産ってわけでもなさそうだな」
辛さを押し殺しながらの茶化した口調だったが、目は真剣だ。
今も木の下では、その獣がひたすらにうろうろと匂いを嗅ぎまわっている。いつ上を見上げられるか、わかったものじゃない。
「ここは俺の出番かな?」
口角を片方だけ上げて笑い、クライヴが言った。
まだめまいが残っているリュカを適当に幹にもたれるようにして座らせ、自分は不安定な足場の上で背中の荷をほどき始める。
中から出てきたのは棒のようにも見えるが、それにしてはずいぶんと太い何かだ。
似たようなものをいくつか取り出すと、再度布袋を背負う。そして取り出したものを何やら組み合わせ始めた。
「よし」
荷を解いてから、クライヴがそう言うまでの時間はおそらく数分程度だったが、リュカにはそれよりも長く感じた。そして、ナギはリュカ以上に長く感じている。彼女の警戒振りは、男性陣の比ではなかった。
「ナギ、あれの気を引いてくれ」
「――わかった」
普通に考えたら、無理難題だろうクライヴの言葉にナギは頷く。
二、三息を深く吸って呼吸を整え額の汗を手の甲でぬぐうと、彼女はひらりと獣の前に舞い降りた。
ぐる、と獣の喉の奥で音が鳴る。確かに奥で鳴ったはずのそれは、まるで地鳴りのように響いた。
大きな二つの目が、ナギをとらえる。新しいおもちゃでも与えられたかのように、獣は大きく前足を宙に浮かせた。
巨体ゆえか、それとも足元の小さな生き物が自分に危害など加えられるはずもないという余裕からか。その動作はひどく緩慢に思える。
そして、その太い足が振り下される瞬間――ナギの体から、殺気があふれ出た。
口元にはかすかな笑み。両手には、鈍く銀色に光る短剣が一振りずつ。得物はそれだけだ。彼女は二本の短剣と、体中から立ち上る殺気で、獣の足を止めた。けたたましく鳥たちが飛び立つ音が聞こえる。
実際はわずかな時間だったのだろう。獣にしてみれば、自分に吹き付ける殺気が、目の前の小さなそれからあふれているとは考えられなかった。
どこかに本来の原因があるのかもしれない。そう考えたのか、やはりこれもまたゆっくりとした動作で首を動かし――
シュン!
風を切る音がして、そのまま獣は真横に倒れ伏す。空いたままの大きな口からは涎が滝のように流れ、目を見開いたまま、獣は絶命していた。
驚きながら、リュカは獣を見る。こめかみに突き刺さっている何かが見えて、再度クライヴを見た。正確には、クライヴの手にしている荷物だったものを見た。
「……なるほど」
やっと一抱えできるほどの大きさの、彼が組み立てていたそれは弓だ。それも、単純にしなる半月型のそれではなく、いくつもの部品を組み合わせてできる、機械弓と呼ばれている物だった。
機械弓は普通の弓と違って、弦を自力で引く必要がない。決められた場所に決められた手順で矢をセットし、後はとある部分を回せば自動で引かれる仕組みになっている。
その分矢も大きく太く、そして弓本体の大きさと比例して長くもすることが可能だ。実際、獣のこめかみに食い込んだそれは、太さがリュカの指二本分はありそうに見える。
その矢が獣の頭を突き破って、おそらくは脳まで達したのだろう。
「もういいぞ」
機械弓を手にしたまま、軽い動作でクライヴが木から飛び降りる。いつの間にかめまいも落ち着いていたリュカも、憮然としつつ彼に続いた。
「――くるな!」
しかしその瞬間、ナギが叫ぶ。
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