第4話
「……くるしい」
「言うな……余計苦しくなる……」
はち切れんばかりの腹を抱え、男二人は居間のソファにもたれかかっている。
三人がかりで作られた料理に、それなりの量は覚悟していたが、テーブルを埋めたのはそれを上回る数の皿だった。
しかも、かの妹たちが腕を振るったのだ。当然残すわけにはいかない。
結果、二人は呻きながら動けなくなるという事態に陥ったわけである。
美しく透き通ったスープに始まり、目にも鮮やかなサラダ、美しくソースで曲線が描かれた白身魚のムニエル。フォルトリエ国内でもその旨味は随一とされるコーヴィー産の牛肉の赤ワイン煮込みと、たっぷり中身の詰まったミートパイ、ほうれん草のキッシュ、その隣には焼き立てのパンの数々が籠に入れられていた。
そして至極当たり前のようにデザートとして、一抱えはありそうなケーキと果物の数々が後から追加されて。
「……張り切りすぎだろ」
「アストラが言うにはさ」
よっこいせ、とおよそ若者らしくない言葉を口にしつつリュカは体を起こした。目の前の小さなテーブルには、アストラの置いていってくれた消化にいいらしい茶が湯気を立てている。
「うちへの礼も兼ねてるんだと。自分たちは日頃から世話になってるのに、うちの奴らは誰も物や金は一切受け取ろうとしないからって」
「……そうか」
「ほんと、お前ら兄妹ってそっくりな。妙に義理堅くて、変なところで遠慮しいだ。俺としてはもう長い付き合いになるわけだし、別にいいんだけどなぁ」
「仕方ない。俺もマルタもグレタも、そうやって育てられたからな」
亡き両親を思い出しているのだろうか。遠い目になりつつ、けれどもラインはこう続けた。
「バラスト様に」
「親父殿かよ」
思わずソファからずり落ちる。
「お前らはやたら俺たちのことをそう言うがな、受けた恩を返せない生き方をするなと教えたのはバラスト様自身じゃないか」
「そーいう意味じゃねぇと思うぞ、あの人の場合」
リュカがぼやいた。本当はラインもわかっているはずである。口角に乗せた笑みがそれを物語っていた。
互いに茶を一口すすり、自然と息が漏れる。消化にいいかどうかはわからなかったが、ほっとする味だとリュカは思った。
「そういや」
ふと、頭に昼間のことが浮かぶ。
「あいつ、レックスって言ったっけ。見どころあるよな」
「そうか?」
ラインは少し訝しげだ。それに対し、自嘲気味に笑って続ける。
「商工会の犬は効いた」
短い沈黙が流れた。ラインの形のいい片眉が僅かに上がる。
「実際、その通りだと思えなくもないのが腹立つ。今はもう、商工会の援助なしには、騎士団を成り立たせるのは難しいって事実にな」
「……それでも、と選んだのは俺たち自身でもある」
そうだな、と答えるほかなかった。
「ところであのレックスだけど。あいつもやっぱりお前と同じなのか」
「おおむね、な」
ラインが茶の入ったカップをテーブルに置く音がして、リュカは同じように自身の持つそれを置く。
「あいつの一家はレイモンの出だ。フォルトリエとの国境近くで商売していたんだが、十年ぐらい前に一度小競り合いがあっただろう」
リュカが頷いた。騎士団に入ったばかりのころだったが、父や兄の話を聞いて覚えている。
「ちょうどそのころ近くにいて巻き込まれたらしい。で、商工会が誘いをかけたんだと」
「誘い?」
「要はフォルトリエで商売をさせてやるから上前をよこせと」
よくある話だ。ラインも同じように思ったのか、少しばかり眉間にしわが寄っている。
「最初はよかった。ただ、年月が経つにつれその上前が膨れ上がっていってな」
「……」
「もともと飛びぬけた商才があるわけじゃなかったから、今から何年か前、とうとう儲けから足が出た。で、期限を延ばしてもらえるよう何度目かの交渉に行って」
その先は聞かずとも想像がついた。
「……その後は俺たちの親父と同じだ。翌日、用水路で発見された」
言うラインの口調には、棘と苦々しいものが混ざりあっている。
「商工会の奴らに殺された証拠はない。ないが、商工会館に行ってその結果がそれだ。レックスが奴らを恨むのも、無理はなかった。何しろその後、店主がいないなら意味がないと店自体も撤去されたからな」
「そのまま、お前のとこと同じじゃねぇか。進歩ねぇなあいつら」
「それでも効果はある。商工会に金を納められないとどうなるのか、商売してる奴は誰もが理解しているさ。納得はしていないだろうがな」
商工会が組織として大きくなり、そして今のような姿勢を取るようになったのは、数十年前のことだ。もともとは商売人の組合というか、寄合というか、とにかく互助制度を想定して立ち上げられたはずの会は、時を経て巨大になり――同時に腐敗した。
大老部というほんのいくつかの家のために、多くの商人たちが上納金を吸い取られている。それもフィエルテに限った話ではなく、地方では領主と結託、もしくは傀儡を作り上げ、王城に入るはずの税ですら吸い取られているという噂だった。
ただ、噂にすぎないと言われてしまえばそれもまた事実だ。
「そんで、お前んちと同じように市場の裏あたりで暮らしてるのか」
「ま、そうだ。あの辺は商工会からはみ出した奴らのたどり着く場所だからな。なんとか親を亡くした子供たちにも手に職をつけさせてやりたいんだが」
「難しいか?」
「最近はそうでもない。市場の店なんかで雇ってくれる物好きも結構いる。どっかの誰かの口利きもあるようでな」
わざとらしく目をそらし、口笛など吹いてみた。呆れたラインの視線に、軽く肩をすくめる。
「雇ってもらえて寝る場所があって、飯が食えりゃそうそう悪さする奴もいない。手が回りきらないのが歯がゆいが、できるだけのことはするつもりだ」
「親父殿も喜ぶだろうぜ。ガキがひもじい思いしてんのを一番嫌がる人だからなぁ」
容易に想像できて、小さく笑った。ライン自身、そうして助けられた側の人間だ。
ただ、懸念がないわけではなかった。再度茶を口に運んで、彼は言う。
「しかし、ここ数年の商工会のやり口は汚さを増している。陛下の耳にも入っているはずなんだが」
「それも、難しいとこなんだろうな」
何しろ彼らの頂く陛下ことエミリエル・セルジャック・ヴァレミ・フォルトリエはまだ十二歳になったばかり。後見人として、エミリエルの叔父であるヴァランタン・サミュエル・サルナーヴがついているとはいえ、彼が幼いことに変わりはない。まだまだ影響力は弱いのだ。したがって、商工会に都合の悪いようなことをエミリエルの耳にわざわざ入れるような忠臣がそうそういるとも思えない。
影響力の弱い少年王につくよりも、財力はもとよりフォルトリエ全土に多大な影響力を持つ商工会についた方が得だと考える者が多いのも致し方ないことではある。
「お貴族様ってのはこれだから」
「それをお前が言っていいのか」
「保身だけ考えてりゃいいんだから、楽なもんだ」
リュカ自身、フォルトリエ建国時から代々続く家の三男だ。誰に言われなくともアッシュ家は紛れもなく名家だが、本気で言っている。性質が悪い、とこっそりラインが息を吐いた。
「けど、本当にどうにもならなくなったらうちへ来いよ。お前と姉妹と、ついでにお前がちょいちょい面倒見てる奴らぐらいならどうにでもなる」
「ありがたく覚えておくことにする」
それもまた、リュカの本気だとわかっている。僅かに口角を上げ、ラインは笑った。
家の中もすっかり静かになった深夜。ふとリュカは目を覚ました。
あの茶のおかげか、いまだ満腹感はあるもののもう苦しくはない。別に気温が高かったり低かったりするわけでも、催したわけでもない。自身で不思議に思いながら、やけに冴えた目を軽くこする。
ラインたち兄妹は向かい側の客室で眠っているはずだ。アストラをはじめとする数人の使用人たちも、もう寝静まっている。
「虫の知らせってやつか?」
一人つぶやいて、リュカはベッドから足を下ろした。窓からのぞく月は明るくて、夜中の晴天を教えてくれている。
このまま横になったところで眠れそうにない。小さく息を吐いて立ち上がると、運動着に着替えることにした。月を見ながらの鍛錬も、そう悪いものでもない。
着替え終わると、眠っている家人と客を起こさないようできるだけ静かに動き、階段を下る。念のため一番にアストラが見るだろう調理場の机に書置きを残し、靴を履いた。
これもまた最新の注意を払って扉を開け、滑るように外へ出た後は同じように閉める。広くはない庭の置石を踏んで門へ向かうと、その向こうの若い青年と目があった。
まるで幽霊でも見たかのように、青年の動きが止まる。彼の格好に見覚えのあったリュカは、騎士団式の敬礼をした。
「や、夜分遅くに……申し訳、ありません……」
敬礼を目にして相手が誰だか理解したのか、声をひそめて青年は言う。どうやらリュカが目的だったようだ。彼は二度三度直角に礼をして、上ずった声で続けた。
「リュカ・デジレ・アッシュ殿でよろしいでしょうか」
「ああ」
頷くと、青年はほっとしたようだ。安心しました、とつぶやいた。
「このような時間に大変申し訳ありませんが、商工会大老部筆頭フランク・ドゥ・ギロディ様より商工会館へおいでいただきたいとのことです」
「……そうか」
思ったより低い声が出る。青年がびくりと体を震わせたのが解って、悪いことをしたとリュカは思った。
「わかった。そちらこそ、夜分遅くにわざわざすまなかったな」
「いいえ、これが自分の仕事ですので」
「ありがとう。気を付けて戻ってくれ」
労いの言葉にはい、と返ってくる。
青年が戻るのを見送って、リュカはもう一度着替えをするために家の中へ戻った。先ほどと同じように扉を静かに開け、静かに閉める。
「どうした?」
「うお!?」
奥からかけられた声に驚いて、うっかり大きな声が出た。慌てて口をつぐむ。とりあえず、誰かが起きてきた気配はない。
口に当てた手をおろし、息を吐いてから奥を見た。案の定、呆れた様子でラインが立っている。
「……脅かすなよ……」
「それはこっちのセリフだ。こんな夜中にこそこそ出て行くから、後をつけようかどうしようかと思っていた」
「やめてくれマジで。調理場に置手紙してきたっつの、目が覚めたからちょっと体動かしてくるつもりだったんだよ」
頭を掻きながらそう言うと、今度は訝しげな顔になった。何を問いたいのかは理解できたので、嫌々ながら答える。
「呼び出しだ。ちょっと行ってくるからうちのこと頼むわ」
「……夜中だぞ?」
「知ってる。けど、無視もできねぇんだって……わかんだろ」
いつもより少しばかり語気が荒くなっていた。
「俺も行く」
「やめろ」
「やめない。行くと言っている」
「ライン」
明らかに強硬な態度になった幼馴染に、リュカは首を横に振る。
「下手な言いがかりをつけられたくない。頼む」
「……しかし」
ラインには、リュカが誰に。そしてどこに呼び出されたのかは想像がついた。まずこんな時間に呼び出すことと、それを断ることもしないリュカの、その声音と態度にすべて表れている。
「――わかった。だが、相手が何だろうとお前に何かあったら俺は動くぞ」
「馬鹿野郎。マルタとグレタどうすんだ」
「あいつらがそうしろって言わないと思うのか」
認識が甘いぞ、と言ってラインは笑った。そりゃそうだとリュカは息を吐く。
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