第3話
日がゆっくりと傾き始めている。
エルンジア産のオレンジみたいだと思いながら、彼は足早に街中を移動していた。墓参りだけのつもりだったのに、すっかり遅くなってしまっている。
「まずいまずい、アストラの雷が落ちる」
独り言をつぶやきながら、目指すは王都の台所、商店や出店が多く並ぶ市場だ。頼まれた買い物を失念していたことを思い出したのは、墓地を去る少し前のことである。
活気に満ち溢れた声がだんだんと近づいてきて、買い物客で溢れているのが遠目でもわかった。急ぎ足で市場へ入っていくと、
「おう坊ちゃん!今日はどこで買い物だい?!」
「坊ちゃん、いい魚入ってるよ!アストラさんにどうだい」
「なんか忘れもんかい?そんなに慌てて」
「果物ならララカの――」
顔を見た途端、坊ちゃん坊ちゃんと様々な人たちが声をかけ、手を振る。
「ごめん、アストラに頼まれて」
ひとつひとつに返事ができないので、リュカは大声を張り上げた。そうすれば、そりゃ仕方ないね、何をお探しだいと即座に言葉が跳ね返ってくる。頼まれた青果物の名を半分怒鳴るように言うと、それならあっちだとよく知った顔の店主が笑って指差した。
「悪い、ありがとう!」
「いいってことよ!その代りまた今度うちの店きてくれよ、坊ちゃん!」
威勢のいい声を背中に聞きながら、リュカは無事目的の店へたどり着く。ここでも知った顔の店主が大きくて丸い体を揺らしながら、坊ちゃん、と笑っていた。
「ええと、ユーリンカの青菜とコンネイの玉ねぎ、あとギネル産の人参四つと――」
言われた買い物を思い出しながら店主に告げると、恰幅のいい女将は素早く布袋に物を詰めていく。おまけだよといくつかの果物をつけてもらい、恐縮しながらリュカは会計を済ませた。
店の外は相変わらずの活気だ。日が落ち切る前には家に帰れそうだな、ともう一度振り向いて店主に礼を言い、家路につく。帰り着くには、市場を抜けて行った方が早い。
変わらず左右から掛けられる声に返事をしながら歩いているうちに、ふと違和感を覚えた。たくさんの人波の中、ほんの少しの移動する空白がある。
「……ん?」
思わず声が漏れた。
その空白をよく見れば、リュカの肩までぐらいの影が人をすり抜けるようにして移動している。彼はとある可能性に思い当り、短く息を吐いた。
影はいまだせわしなく動いている。静かにその正面に回り込むと、あえて体をぶつけた。
「いってぇ!」
「あ、悪ぃ。大丈夫か?」
いくぶんわざとらしかったかもしれない。非難のこもった声をあげて尻餅をついた影は、まだ少年らしさの残る顔を歪めた。
「おい、何すんだよ!」
座り込んだまま猫のような目を吊り上げて文句を言ってくる彼に、膝を折って視線を合わせる。それから、リュカは一瞬彼の胸元に目をやって、そこが不自然に膨らんでいることを確認し、静かに小さな声で言った。
「盗ったものを出せ。今なら、それで見なかったことにする」
「……!」
間近で息をのむ音が聞こえる。
「持ち主が落としたことにして返すんだよ。さっさとしろ」
「な、なんでだよ、なんなんだよ」
「早く」
淡々としていながら、その声には有無を言わせない響きがあった。
少年は数秒目線を泳がせた後、言い訳しようかと口を動かす。だが、これは俺のだ、と発しかけた声は結局喉の奥へと飲み込んだ。
観念したように懐から革の財布らしきものを取り出し、イラつきを表現するかのようにリュカの胸元へと押し付ける。
「……これでいいかよ」
「ああ」
わずかに微笑んでそれを受け取り、少年の頭を軽くなでてから立ち上がった。
改めて彼を見れば、ぼろぼろの服と素足が痛々しい。少年は少年で、立ち上がったリュカを見上げ、その顔を改めて確認する。
「お、お前騎士団のやつじゃねぇか!商工会の犬の癖に偉そうにしてんなよ!」
思いのほかその声は通り、市場に賑やかさとは異なるざわつきが広がっていった。しかし少年はそのことにまったく気づいていない。というよりは、周囲など見えていないといった様子だ。
「なんだよ!商工会の奴らのせいで、俺は!俺は、こんな……」
言いかけて、うまく言葉にできないのだろう。唇を強く噛み、それから初めて周りに目をやる。
「坊ちゃんが商工会のなんだって?てめえが何を知ってるってんだ?あぁ?」
低く言ったのはずいぶんとでかい魚を片手に持った、髭面の店主だ。これもまた、幼いころからよく見知った顔だった。
ああ、と軽く天を仰ぐ。気を取り直すために聞こえないよう小さく息を漏らし、リュカは少年に背を向けた状態でと店主の間に入った。
「ガナーシュさん、いいっつの。それよりこの財布、今拾ったんだけどよ、持ち主探してやってくんないか」
「坊ちゃん、いや、でもよう」
「いいから」
笑って、半ば無理やり魚屋の店主ことガナーシュに財布を押し付ける。
坊ちゃんがそういうなら、としぶしぶといった様子で持ち主を捜しに行くことにした、その背中越しに見える市場の他の皆は、やはりガナーシュと同じような表情をしているのがわかった。
「善人ぶってんじゃねーよ!」
べしゃ、と背中に砂が投げつけられる。
地面は石畳、そのおかげで量は大して多くない。しかし、少年のその行動により再びざわつく市場の中で、リュカは少年に向き直った。
「それだけ元気が有り余ってるなら、騎士団に入れよ。今言ったことが本当かどうか、自分で確かめてみたらどうだ?」
「ふざけんなよ!俺みたいのが入れるわけねーだろ!」
「そんなことねえよ、なあライン」
少年の後ろに目線を合わせて言う。
いつの間にそこにいたのか、リュカの幼馴染兼親友の青年は深いため息をついた。
「おい、レックス。何してる」
口調こそ静かだが、明らかな怒りと呆れが込められている。レックスという名の少年は、落ち着きなく視線をさまよわせた。
「なんでもねえって。ちょっと遊んでただけ」
笑いながら言うリュカに、軽く目線を下げる。少年が何をしたかは察しがついた。
「すまない、リュカ。こいつ、ちゃんと返したか?」
「当然」
「そうか」
言うなり、ラインの拳骨がレックスの頭頂部に振り下される。
「いってぇ!」
「当たり前だ」
「くそ、なんでだよ……」
「ちゃんと返したからだ。そうじゃなきゃ、とっくに街から追い出してる」
鋭い目にじろりとにらまれ、さながら蛇とカエルである。
「で、さっきの話だけどな。気が向いたらうちに来いよ、場所はラインが知ってるからさ。バラストかリュカの紹介って言えばいいように話通しておく」
「……マジかよ」
「マジ。今、お前の後ろにも騎士になった男がいるんだから、お前にできない理由なんかないだろ?」
本気で言っている。それを理解したレックスは、頭上のラインとリュカを交互に見上げた。
「ライン兄ちゃん、騎士って本当だったんだ……」
「お前らいくら言っても信じないな。もう何年経ったと思ってる」
「だって、商工会の偉いさんとか、それこそ代々騎士の家系とか、領主の子供とか……そんなんじゃないのに騎士になったとか言われても信じられねーもん……」
くつくつというリュカの笑い声がする。バツが悪くなって、ラインは肩をすくめた。
「まあ、お前がどうするかどうかは勝手だが、話くらいは聞いてもいいんじゃないか。俺も一緒に行ってやる」
そうラインに言われると、年相応の笑みの中に照れを浮かべたレックスは、考えとくとだけ答えた。
すぐ隣の男を若干恨めしそうに睨む。原因はといえば、やや見上げなければならないその角度だ。
「……お前、また背が伸びたんじゃねぇの」
「そうか?測ってるわけじゃないからな、自分じゃわからん」
鳶色の瞳が心底不思議そうにリュカを見た。
「俺より年下の癖に」
「二つしか違わないだろ」
「なんでお前のほうがでかくなってんだよ。昔は俺の方が背が高かった」
「さあな」
市場で買った荷物の半分を持つ幼馴染は、ふっと口角を上げて笑う。
こういうところも恨めしい。二十を五年前に過ぎたというのに、いつまで経っても自分は『坊ちゃん』がしっくりきてしまう童顔で、それに対してこの長身の男は切れ長の目に高い鼻、伸ばしたまま無造作に括っている暗い青色の髪も、そのすべてが『青年』らしく出来上がっている。
ライン・ダントリク。銀翼騎士団団員のひとりであり、リュカとは互いに年齢一桁のころからの付き合いだ。
市場でレックス少年と別れた後、特に用事もなかった彼を荷物持ちにして引っ張ってきたのはリュカ本人である。そのくせ、恨みがましい目を向けてくるのだからラインとしては苦笑ぐらいしか返せない。
しかし恨みがましく思ってみても何の利益もないことぐらいはリュカにもわかっている。息と一緒にくだらないものを追い出し、切り替えることにした。
「ただいまー」
呑気に言いながら、自宅の門を開け玄関の扉も開ける。すでに夕食の支度をはじめているようで、室内にはいい香りが漂っていた。
「ライン、それ奥まで運んでやってくれ。俺こっち持ってくから」
「ああ。しかし多いな、ずいぶん」
「そりゃ当然だろ、何しろお前が――」
にやりと笑ってリュカが言うと、それに示し合わせたかのように調理場の扉が開く。
同時に飛び出してきたのはよくよく知った妹の顔だ。ラインが唖然としていると、リュカと視線を交わして同じように笑った。
「さすがリュカ!本当にお兄ちゃん連れてきたんだ!」
「あったりまえだろ、マルタ」
なんだか誇らしげに胸を張るリュカを見て、ラインは思わずこめかみを押さえる。
「……なんでお前がいるんだ」
「あら、わたしもいますよ兄さん」
元気なマルタとは対照的に落ち着いた声がして、呼ばれた兄はそちらを見る。そこに立って微笑むのはマルタの双子の妹、つまりはラインのもう一人の妹だ。
すらりと伸びた四肢に色白の肌、大人びた表情のグレタは、健康そのものの体躯とそばかすの散る、無邪気な笑顔のマルタと軽く手を合わせた。
「びっくり大成功ですね、マルタ」
「どっきり大成功だね、グレタ」
相変わらずこの双子は太陽と月のようだとリュカは思う。それほどに見た目は似ていないが、性格と悪戯っぽい表情はさすが双子と言いたくなるほど瓜二つだった。
「……リュカ」
「俺じゃねぇって。主犯は奥でーす」
「主犯?」
責めるような声に、笑いながら調理場の奥をのぞくように手で示す。訝しげな表情のラインは、促されるまま中をのぞいて数秒間沈黙し、くるりと彼に向き直った。にやにやと笑う妹たちにため息をつき、額に手を当てる。
「俺が彼女に文句が言えると思ってるのか」
「そんな俺も無理なこと、お前にしろなんて言うつもりねぇよ」
面白そうに返すと、調理場からもう一人顔を出した。今回の主犯、とリュカが呼ぶ人物である。
「あらあら坊ちゃん!ちゃあんと連れてきてくださったんですね!」
「ただいま、アストラ」
初老に差し掛かっているだろう女性は、ラインの姿を確認して嬉しそうに言った。彼女はアストラ・リージャといい、リュカたちアッシュ家の家事全般を取り仕切っている。
母を早くに亡くしたリュカにとって、育ての母なのが彼女だ。そしてそれは、両親を亡くしてアッシュ家の世話になっているラインたち兄妹にとっても同じことだった。当然、面と向かって文句など言えるはずもない。
『マルタとグレタの二人がね、お料理を教えてほしいと言うのですよ。いつも頑張っている兄に、何か返したいと』
アストラからそう言われたのは今朝、王城に向かう前の話だ。
「そりゃお前、そんなこと二人に言われたってんならうちの調理場好きなだけ使えって言うだろ」
「それは素直に礼を言う。言うが、何でわざわざ俺に秘密にする必要があったんだ」
「ちょっとした遊び心ってやつ?」
「お前な!」
冗談めかしてリュカは言うが、秘密にしなければこの男はどれだけこちらに気を使うかわからなかった。リュカ自身も父バラストも、めったに自宅には帰ってこないリュカの兄ですら。ラインは当然だとして、妹二人も自分たちの家族だと思っているにも関わらず、何年経ってもアッシュ家に対し気を使っている。ライン・ダントリクとはそういう男だった。
「まあ細かいことはいいじゃねぇか。あんまり気にしてるとハゲるぜ」
「ほほう。宣戦布告と受け取った、外に出ろ」
嫌だね、と返してラインの腕をかいくぐり、リュカは階段へと駆け出す。
それを追う兄を見送って、二人の妹は同時に噴出した。その後ろでは、呆れた顔でアストラがため息をついている。
「まったく、殿方というのはいくつになっても子供のようなものですね。さあ二人とも、たくさん作りましょう。食べ盛りの子供たちにはそれが礼儀ですからね」
『はぁい』
半分は嫌味の言葉だ。くすくすと笑いながら、姉妹は仲睦まじくアストラに続いて調理場へ戻っていった。
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